文学の輪郭 (ちくま文庫 な 11-2)

著者 :
  • 筑摩書房
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感想 : 4
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  • Amazon.co.jp ・本 (260ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480026170

感想・レビュー・書評

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  • 「文学」と「非文学」の境界に立つ中島梓/栗本薫の評論です。タイトルの通り、文学の「輪郭」はどこにあるのかということがテーマになっています。

    本書ではまず、埴谷雄高『死霊』と村上龍『限りなく透明に近いブルー』が取り上げられます。観念世界を構築することで文学的な普遍性を獲得しようとした『死霊』と、同時代的な感性に徹し普遍性を排撃することで「弱者の文学」となった『限りなく透明に近いブルー』を2つの極と位置づけた上で、こうした「文学」を掘り崩す可能性を持った、つかこうへいの『小説熱海殺人事件』に触れられています。つかの小説には、埴谷が構築した観念の「虚構」も、龍が認識しようとした「現実」も、ともに状況の関数にすぎないことをあざやかに示し、従来の「文学」を嘲笑する「力」(フォース)をそなえていると著者は論じています。ここに、「文学の輪郭」を問いなおそうとする著者の戦略が明らかになっています。

    さらに著者は、同じような問題意識に立って、三田誠広『僕って何』や大江健三郎の作品に検討を加えていきます。『僕って何』は、ナイーヴな青春小説と見られがちですが、じつはこの作品はむしろ青春小説の解体によって初めて現われた小説だと著者は解釈します。この作品が示しているのは、語られるべき「僕」など何もないに等しいということであり、それゆえ「僕って何?」という内面への問いかけではなく、「僕って何」という空虚な地平に立ち尽くしている著者の姿を示していると受け取られなければなりません。

    一方、大江健三郎の作品は、日本の私小説の伝統に対する異議だと著者は考えます。島尾敏雄の『死の棘』は、作家としての「私」と生活者としての「私」の強固な一致の中で文学世界を築こうとしているのに対して、大江はこうした一致に疑問を差し挟みます。それゆえ彼の作品は、「それできみはどのような行動をおこなっているのか?」という実存主義的な問いを内包しえたのだと著者は言います。ところが、こうした「私の内なる不条理空間」の描出においては完璧なまでの効果を上げた大江が、テーマないし結論に向かって跳躍する際に、西村寿行の大衆小説と大差ないような安直な枠組みに依存することに、著者は批判を加えます。これは、大江の文学と政治の乖離をあらためて問いなおす試みでもあります。

    ところどころくだけた言葉遣いはあるものの、『グイン・サーガ』の著者と思って読み始めると跳ね返されてしまうような、重厚な批評でした。

  • 取り上げている村上龍「限りなく透明に近いブルー」
    は、何度も読んで,同時代人としての同期を確かめようと思ったことがある。

    取り上げている他の2作は、村上龍ほど何度も読んでいないので,
    中島梓が言うことは半分くらいしか分からない。

    真剣に、作品批評に取り組んでいる姿勢には頭が下がる。

    ぜひ他の2作も何度か読んでみたい。

  • 単行本版の三田誠広の対談も読んだ。まだ自分には難しい。

  • <文学という事象>


     作者の訃報(2009年5月)をきっかけに読むことに、ためらいつつも開きました。デビュー作『文学の輪郭』。すこしだけ驚いています。かっちりした本格派評論なんですね★

     かつて、この方が栗本薫名義で発表した小説を読んだことがあるのです。言葉選びや話の運びに、見識の質量が見え隠れしているのは感じました。とは言え、タイプとしてはエンタメ作品の域だった、と記憶しています。
     この『文学の輪郭』は、いわゆる「評論家!」的なおかための内容なのですね。私だと、ちょっと背伸びして読む感じです……★

     文学愛好者を自認する人たちの意識には、「文学とは何か」「何をもって文学とするのか」という命題が、とぐろを巻いているような気がします。
     あらためて言語化をはかるのが気恥ずかしくなるような、この「文学とは何か?」というテーマで、正面切って語ることを、中島梓さんは選択したのです!

     その輪郭は、浮き彫りになっていくのか!? ところが、読み進めていくと……、むしろ逆かも……!?
     文学というものの輪郭が溶け出して、少しは見えていたと思いこんでいた線を見失わせていくのです★ 最後は、問い自体が効力をなくしていますね。

     では、この本を読むことは、無意味なのでしょうか?
     思い出されるのが、高原英理著『少女領域』。この評論本でも、少女とは何かという問いは、真摯になされながらも無効化され、美しく飛散していきました。回答は世界中をおそろしく自由に飛びまわっていて、とらえ切れないのです……★
     けれども、とらわれないものの魅力を語るために、問いかけ続ける必要がある、それが評論になるのだろうと感じたのでした。

     問うほどに実体がなくなる。こうと断じ切れないゆらぎのなかに発生する、文学という事象。
     人間は遠い昔からそういう文学というものを欲していて、その輪郭はいまも蠱惑的にゆらぎ続けているのです……☆

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