死刑 その哲学的考察 (ちくま新書)

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (318ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480069870

感想・レビュー・書評

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  • 発売時になんとなく気になっていたが、一ノ瀬先生の本を借りる際に同じ死刑を扱った親書ということで借りてみた。議論がよくまとまっていて、分かり易かった。

    論の運びとしては、まず文化相対主義では欧米の死刑制度批判に対峙できないとして、普遍的なロジックを構築すべしとする。そして、この本の根本的な問題として問われるのは、池田小学校の宅間のように死刑となるために殺人を犯す犯罪者に対して死刑は無力ではないかという問い。
    これに対峙するため、道徳を哲学的に考えていく。
    「人を殺してはいけいない」という問いは、昔からよく問われるが、まずはそこに説得的な理由がないことを確認することから始める。その上で、それに真っ向から対立するカントの定言命法を持ち出す。当然、カントからすれば「人を殺してはいけない」はどんな時にでも成り立つはずだ。だが、実はそのカントが死刑については肯定している。
    この矛盾を考察していく中で、著者は応報論こそが根元的な道徳原理になっていると明らかにする。応報論をもとにするなら、死刑を価値の天秤に乗せて、罪と釣り合うかどうかを考えることになる。
    そして、死刑の是非に道徳特的な決着がつかない以上、死刑はどう権力を行使するかという政治哲学の問題になるとする。ここでやっと、著者の専門とも言える分野に突入する。
    ここで考えられるのは、冤罪の問題だ。そこでは足利事件を含め、冤罪の構造が詳細に語られる。著者は、基本的にはこの冤罪の問題から、死刑制度に対する反対を表明していく。
    最終章では、デリダの死刑廃止論に痛烈な批判がなされるとともにチェーザレ・ベッカリーアという法哲学者の死刑反対論が示される。

    過去の哲学理論を参照しつつ、ある議題を自分の頭で徹底的に考える見本のような議論だと思った。その強靭な思考の前では、デリダの死刑廃止論もなんら説得的でない、ただの感傷的な赦しの道徳理論とこきおろされる。
    現実に起こった事件などへの言及も多く、単に思弁的ではない哲学の力を見た気がした。

  • 筆者は結論ありきで書いたものではないと言っているが、結局は廃止論の立場から立論しているようにしか思えなかった。
    死刑になりたい人の前では死刑は思う壺で抑止効果がないなどと主張するけど、それは終身刑でも妥当する話。閉じ込められることを自ら希望する人がいたとしたらどう考えるの?そもそも刑罰の本質は、その人が希望するとしないとを問わず、法に基づいて自動的に執行され、執行を受ける人に選択の余地がない点にある。仮に死刑が執行されるとすれば、それは彼が望んだからではなく、法がそのようにさばいたからに過ぎない。筆者は、抑止効果を発揮しない極めて例外的な場合を殊更過大に取り上げて死刑廃止に導こうと論を進めており、説得的でない。

  • 萱野が一貫しているのは、あらゆる論議は道徳の質量によって計られるべきではなく、哲学の援用によって論理的に導き出されなければならない。そして一定の結論を出すが、それは必ずしも絶対ではないかもしれないので、各人が論理的に解釈して是非を唱えてほしい、というものなのだけど、本書もそれに倣うだけでなく、専門分野である権力論を織り交ぜており、緻密な考察を実現している。道徳的な見地による議論はTwitterで毎朝毎晩なされていることであり、これがなぜ平行したまま終わるのかというのを逆説的に教えてくれるものでもある。
    あと、参考にした本がこれまで読んだものが多く、なぜかわからないけど死刑と車を例にしたトンデモ分析を喝破していたのもよかったね。

  • まだ加筆・編集すると思うけど、とりあえずメモ。
    ----

    ​非常に明快でわかりやすい。

    道徳について、定言命法からのアプローチはとてもおもしろかった。
    確かに根拠がないからこそ絶対といえるのかもしれない。
    そして著者は、「道徳は論証されなくても力を持つ」との結論に落ち着き(その道徳ってそれ自体が思い込みやご都合主義なんじゃないの?という疑問が残るけど)、カントの「同等性の原理」を根拠に死刑を肯定する。
    デリダの議論をありがたがる人々を痛々しいとハッキリ述べているのは痛快だった。

    ところで、本書の中盤では死刑制度の是非の根幹である「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いについて長く語られているが、私は本当に死にたいと思う人は希望通り死ねばよいと考えているので、もちろんそういう人は一人で死ぬべきであるとは思いつつ、どうしても一人で死ねない場合(最近の話題でいえば、ちょうど西部邁さんのような)それに対する幇助を罪に問わせなければ、もっとシンプルにわかりやすくなるのではと思っている。大抵の人間はできる限り生きていたいと思うし、仮に不慮の死因以外で死ななくてはならないのならば、その死に方や死期くらい自分で選びたい。だから大抵の人間は他人なんかに「殺されたくない」と思っている。他人の死に方や死期を、勝手な都合でコントロールできる権利はないだろう。でももし、明確に本人が死を望むのであれば、それに従って他人が行動を起こす、というのは何ら悪いことではない気がする。だから答えとしては「人を殺してはいけない(条件付き)」という感じなのかな。その条件が普遍的なものではあるのだけど。

    例えば、「あなたが死にたいと思った今日は昨日死んでしまった人が生きたいと願った明日」という言葉があるが、もちろん素敵な言葉でもあるとは思うけど、死にたいと思った人に対してちょっと酷である。彼らを勇気づける言葉としてよく紹介されるが、逆に、これは彼らを「死にたいと思うことすらいけないのか…」と、ますます追い込んでしまう言葉である気がする。一人一人の状況は違うのだから、やはり死にたいと思う権利も死ぬ権利も当然あるのだと思う。

    だからやはり、死にたくない人を死刑にするのは極刑といえるだろう。

  • 哲学を専門としながら選挙などの制度面にも造詣の深い著者らしく、序盤は社会学的、中盤は哲学的、そして終盤は制度的アプローチにより死刑制度の是非を論じる視野の広いところを見せる。
    「死刑の是非は、道徳判断の本質が相対性にあることから道徳的には確定困難。制度的にみると、公権力に内在する構造的要因により死刑は冤罪リスクと無縁ではありえないため、死刑は廃止し終身刑の導入を検討すべき」と端折ってしまえば身も蓋もないが、そこに至る筋道は簡便ながら説得力あり。特に中盤、カントの「同等性原理」や定言命法・仮言命法を引き合いとしながら、道徳判断の相対性から判断根拠の普遍性を際立たせる下りは、込み入っているがなかなか読みごたえがあった。

    (以下は勝手な要約)

    第1章 死刑は日本の文化だとどこまで言えるか?
    * 「死刑は日本の文化といえるか」すなわち「文化相対主義か普遍主義か」という問いは普遍主義的な問いである
    * 従って死刑制度を擁護するには「死刑は人権に反しない」と普遍主義的に答えねばならない。
    * 安易な相対主義への逃避は議論の放棄である

    第2章 死刑の限界をめぐって
    * 自らへの死刑適用を希望する者にとって、死刑制度は犯罪を抑止要因ではなくむしろ助長要因なのではないか(「死刑の悪用」)
    * 死刑の悪用を阻止するためには死刑よりも厳しい刑罰を科さねばならず、死刑賛成派のみならず反対派にとっても不都合が大きい
    * 終身刑を極刑に追加するとしても、本音では死刑を回避したい犯罪者が、死刑希望を欺罔することで死刑適用を免れてしまう(またはその逆)という弊害がある
    * 無期懲役刑は仮釈放の可能性があるという点で終身刑と異なる
    * 死刑を存置する理由として遺族の応報感情があげられるが、道徳の基盤の一つを成しており、これを否定することは極めて困難。ただし終身刑が死刑よりも過酷な面を持つとすれば、終身刑でも応報感情に応えられる可能性あり
    * 死刑の犯罪抑止効果を立証することは死刑の性質上困難。凶悪犯減少の理由は死刑制度とは別に下記3点で説明可能。「治安は悪化している」という我々のイメージの高まりは、実は治安が良化した結果、我々の意識が凶悪犯罪に対し敏感になり、殺人に対する拒絶感情がかえって強まったことの産物
    1. 教育水準上昇による、長期的視野に立った行動習慣の定着
    2. 貧富の格差縮小による暴力抑制
    3. 死亡率(死ぬ機会)低下による、殺人の重大性上昇
    * 死刑の犯罪抑制効果は、同一社会で死刑制度を備える場合と備えない場合を比較せねばならず、現実的に立証困難* その上でなおも「死刑制度には抑止効果がある」というなら、それは実証的レベルではなく、「道徳的」なレベルで死刑制度に信頼を置いていることになる。この「人を殺せば命で償わねばならない」という「道徳的な歯止め」こそが、現在死刑制度維持が支持される大きな理由
    * しかし一方で、「死ぬことでしか償えない罪がある」という前提は「死ねば何をしてもよい」という帰結を導く。「命による償いは単に死ぬことを意味しない」ことの補強として、「処罰」が導入される。この点では死刑も終身刑も同値。

    第3章 道徳の根源へ
    * 死刑は人工中絶と同様「人を殺してはいけない」という道徳の適用の例外
    * そのような根源的な道徳に例外があるのだとすれば、道徳という概念そのものが絶対的なものではなく相対的な概念であるということではないか
    * 「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いには以下の回答があるが、即座に反論が可能でどれも確実なものではない
    1. かわいそうだから (→かわいそうでなければ殺してもよいのか)
    2. 悲しむ人がいるから (→悲しむ人がいなければ殺してもよいのか)
    3. 自分がされたくないことを他人にしてはならないから (→自分がされてもよいとする者なら殺してもよいのか)
    4. 誰も他人の命を奪う権利もを持っていないから (→トートロジー)
    5. 秩序を守り、社会を存続させるため (→社会秩序のためなら殺人は許されるのか(=死刑制度の正当化))
    6. 同種の個体を殺すのは人間だけだから (→自然界に同種事例多数あり)
    * これらはすべて因果関係を描写した命題であり、善悪を論ずるものではない。ことばに内在するこのような制約が、道徳の絶対的な論拠付けを困難にしている
    * しかし、エマニュエル・カントは「むしろ道徳には根拠がないからこそ絶対的・普遍的なものである」と説いた
    * カントによれば、「信用を失いたくなければウソをついてはならない」のような仮言命法は、前提条件が満たされなくてもよいケースを必然的に招いてしまうので、真の道徳は「仮言命法」ではなく「定言命法」により記述されなければならない。
    * 同じく、特定の前提条件のもとでしか守る必要のない「道徳」が真の道徳と呼べるのだろうか。いかなる場合でも守る必要があるのが「道徳」である。従って道徳は前提を伴わない「定言命法」で記述されねばならない
    * いかなる条件も許さないカントの厳格な道徳の定義には異論もあるが、結果としてある行為が悪い結果を引き起こした場合、その行いが道徳的なものか非道徳的なものかは、その行為者の「良心の呵責」に大きな影響を及ぼす。それは「道徳」それ自体が善悪の規範として我々の行為を拘束しているからに他ならない。カントはそれこそが道徳の本来の力であるとする
    * 道徳は論理の力により「論証」すべきものではなく、ことばの力により「説得」すべきもの。したがって道徳が絶対的根拠を欠くことは何ら道徳の価値を貶めるものではない
    * しかし一方でカントは死刑を肯定している。それは死刑が凶悪犯罪を抑止するからではなく(それでは仮言命法の脆弱性が露呈してしまう)、死刑を含む刑法が「同等性(同害応報)の原理」を体現しており、いかなる条件にも左右されない=普遍的な、定言命法としての道徳を記述していると考えたから
    * 死刑を肯定するということはすなわち個別の道徳命題(e.g.「人を殺してはいけない」)に例外を設けること(相対化)。したがってカントにとって普遍的な(絶対的な)道徳とは個別の道徳命題ではなく、それらに存立根拠を与える道徳原理であり、それが同等性の原理である
    * 道徳判断は相対的にならざるを得ないが、定言命法を実践する、即ち普遍的に道徳的な行動をしようとするには、「誰がやっても問題ない」行為のみを基準とすべき
    * したがって、定言命法には「自分が他人にして欲しくないなら」という隠れた条件があるという意味で、実は仮言命法的であるという矛盾が生じる
    * 定言命法は個々の道徳判断の根源的な規範原理であり、具体的な命法(道徳命題)では表現され得ない。その普遍性を個別の命法で表現しようとしたため矛盾が生じた
    * 個々の道徳判断が相矛盾するものであっても、そこにはそれらに普遍的根拠を与える道徳原理があるはず。カントはそれを応報論的な「同等性原理」として抽出した
    * 我々が道徳判断をするとき、それぞれは相対的なものに過ぎなくとも常にこの応報論に裏付けられた「道徳的なるもの」を念頭に置いている
    * ではなぜ応報論なのか。それは、応報論が、「私が他人に為すこと」と「他人が私に為すこと」の価値同等性を主張することにより、「道徳的に正しい」という判断が成り立つためには二つの物事の価値が釣り合わねばならない、ということを説明しているから
    * 「何と何が釣り合うか」は相対的であり、したがって死刑肯定派と否定派で犯罪と平衡する刑罰の軽重は異なるが、衡平性という判断基準それ自体は普遍的であり同一
    * 道徳が相対的なものである以上、天秤の両皿に何を乗せても良いことになり、従って死刑の道徳的な是非は確定不能。したがって、その是非は政治学的に論じられるべき

    第4章 政治哲学的に考える
    * 「公権力が」「合法的に」人の命を奪うことができるとされている理由は何なのか
    * 「正しい殺人」であれば、公権力でなくとも誰が行っても合法とされるはず
    * 「合法性」とは、その行為主体が公権力=合法/違法を決定できる権能を有すること(「決定と執行の一致」)
    * 「公権力」とは、他人が従うべき決定をなす能力を持ち、かつ従わせるための暴力(物理的強制力)を有するということ
    * したがって死刑とは、公権力に抗う人間に発動される暴力の、もっとも究極的な顕れ
    * フーコーによれば、権力なき社会は単なる夢想。従って、死刑が公権力の手段であるからと言って公権力を否定するのも同じく無意味
    * では公権力行使を認めるとして、死刑という手段を持つ公権力と持たない公権力のどちらが望ましいのか
    * 冤罪は公権力行使の単なるミスか、それとも公権力に構造的に内在する問題なのか
    * 冤罪に固有の「虚偽の自白」は、捜査当局の過剰な使命感と正義感に起因する可能性
    * 刑事司法で既判の事実を覆すには公権力の自己否定を要するため、困難
    * 権力の本質は決定すること、そしてそれを貫徹すること。そして冤罪は公権力に内在的な「権力的なるもの」とならざるを得ない。そして死刑における冤罪が取り返しのつかないものである以上、死刑は廃止すべき

    第5章 処罰感情と死刑
    * 人々の処罰感情は、冤罪を過小評価する一方、犯罪者を処罰する公権力の活動を支持し正当化する
    * 従って死刑廃止を主張するならばこの処罰感情への対応、具体的には被害者遺族の救済が必要
    * しかし死刑制度を存続させる日本では、海外に比べて救済措置の整備が遅れている
    * 日本では、無期懲役刑における仮釈放が認められにくくなる傾向にあり、事実上終身刑化している
    * 日本の死刑廃止論の根底には厳しい処罰をすべきではないという「優し過ぎる心情」があるが、死刑以外に厳罰感情に応える手段がない現状ではこのことがかえって死刑存続の理由となってしまっている。凶悪犯罪者を赦すという寛容さが処罰感情より高尚であるわけではない
    * 処罰感情は、自分に優しくしてくれた人には同じく優しくすべきであるというポジティブな感情と同じく、同等性の原理に根拠を持つ感情であり、根源的な道徳感情である
    * この処罰感情に応えるには、 冤罪のリスクを考慮し死刑を廃止する一方で、 死刑よりも厳しい刑である可能性のある終身刑を導入すべき
    * 死刑と終身刑は両立困難(どちらがを極刑とするか判断困難。また犯罪者の意思表示のみで死刑が回避される可能性)。
    * 18世紀イタリアの哲学者ベッカリーアは、社会や道徳秩序を徹底的に破壊しようとするものに対しては死刑は無力であるとした上で、死への逃避を許さない終身隷役刑を提唱した。これは哲学の歴史における最初の死刑廃止論だったが、それは寛容や赦しとは無縁の、刑罰の「厳しさ」の視点から死刑制度の不適切さを論ずるものだった

  • 基本的にはとても良かった。私は死刑反対派だが、賛成にしろ反対にしろ一分の理以上のものがあるので、どちらの意見に与するにしても難しい。日本では賛成派が圧倒的なので、反対派としてはどう反対するのか、はかなり理論武装しないといけない。本書は著者が反対派寄りとはいえ、結論ありきではないので、賛成派にも自分の意見を確認し、改めて正しいと思えるかどうか考える良い機会になるのではないか。反対派にとって最も困るのは「じゃあお前の家族が殺されてもいいっていうのかよ!」という感情論で、それは家族が殺されたらそりゃ殺したいわ、と思うし、最高刑が死刑な現実の中で、最高刑しか妥当じゃないという判断は当然あるわけで…。また反対派としても「冤罪の可能性があるから」は、「冤罪の可能性が絶対無い事件」の前には論として弱い。当然宗教を絡ませてはいけない。いつだったか、私があるクリスチャン上司に死刑反対を語った所、「お、キリスト教でもないのに珍しいね」と言われ、あぁ通じないなあと感じたことがあったが、そう、宗教的背景を基に論じたって、それを共有していなきゃ何の意味もない。精神科医としての私にとっての死刑反対のための論は、「犯罪志向の高い方向に向かう脳を持ったのは誰の責任なのか」「一定の生物学的条件がある中に環境が整ってしまえば重大犯罪傾向が育つのを本人のみの責任に帰するのはフェアではないのではないか」という疑念から成り立つ。つまり生物学的要因x環境の掛け算が人を犯罪方向に向かわせてしまうので、そういった不幸を死刑という形で本人に一切の責を負わせてはいけないのではということだ。2011年ノルウエーでブレイビクという青年が起こした銃による大量殺人で彼の刑はたった11年だった。遺族の判決自体は受け入れているコメントを聞くと、北欧では殺人者にさせてしまった社会の責任という概念が共有されているようには感じた(正しいのかな?)。そういった側面に対する議論が本書には薄いのは残念だった。

  • 政治や国家といったプラグマティックな問題についての論考で知られる哲学・社会理論研究者の著者による死刑論。

    本書の前半は、カントの思想をベースにしながら、道徳的な観点から死刑の是非を考えるところからスタートする。そうした議論の中で、道徳とは普遍的なものではなく、状況により変化するものであること、道徳の根源とは人間の”応報論”、つまり「やられたらやり返す」という極めてプリミティブな心情にあることを明確化した上で、そうである以上、重度の犯罪に対して、死刑により天秤が釣り合うと考える人もいれば、死刑では釣り合わないと考える人もおり、必然的にどちらかに決まるということはあり得ないということが見えてくる。このような”価値の天秤”を前にしては、論理的に死刑賛成もしくは反対という結論を出すことはできない、となる。

    続く後半では政治哲学の観点から、死刑の是非が論じられる。ここでのポイントは、死刑と切り離すことができない冤罪の問題をどう考えるかである。政治哲学の観点から考えるということは、言い換えれば国家による権力執行の1手段として死刑を考えるということであるが、そうすると「公権力の自己防衛」、つまり公権力は自らの無謬性を常に完璧に証明しなければいけないがために、冤罪は必然的に生まれてしまうのではないか、という疑念が提示される。我々がよく想起しがちなように、冤罪とは決して人為的なミスにより発生するのではない。公権力は常に自らの力を国民に対して示す必要性がある以上、一度誤った判決を下してしまった後にそれを認めるということは極めて困難であり、だからこそ冤罪が発生する、ということである。

    よって、後半の議論を受けた本書での結論は、死刑における冤罪の問題は公権力のメカニズム的に不可避である以上、死刑は廃止すべき、となる。ただし、前半の議論を受けて、応報論という道徳的感情も関係する以上、現在のような釈放の可能性がある無期懲役ではなく、その代わりに実質的な終身刑の導入を提案する。

    本書は死刑の問題を道徳と政治哲学の観点から考えるという一見まどろっこしいように見える議論を踏まえた上で、提示される結論は極めて現実的、プラグマティックなものである。本書では、ジャック・デリダのように「死刑に対して無条件の赦しを与えるべき」という考え方がいかに現実的にはバカらしく、デリダをありがたがる日本の現代思想家をコケにするような箇所が出てくるが、そうした議論も含めて、思想の分野でありながら極めて地に足のついた論理展開がなされる点に非常に好感を持った。

  • 死刑という制度を道徳的視点と政治哲学的視点から論じた書籍。

    平易な文章かつかなり細かい部分に関しても抜けが無いように落とし込めており、決して少ないページ数ではなかったが、一気に読み通すことが出来た。

    唯一の欠点としては一度脱線するとかなり長いページ数が割かれてしまうこと。一瞬本題を忘れてしまうぐらい脱線してしまうので読む際には注意が必要。

  • 本書は、「死刑」を哲学の観点から考察する書です。まず、文化や特定の価値観から、死刑に賛成することも、反対することもできないという点を論証し、次に死刑の是非を判断する上で最も重要な点として、冤罪の存在を挙げ、結論的には死刑は廃止(し、終身刑を導入)することが適当という結論を導いています。これまで死刑には賛成の立場でしたが、再考を迫られる結果となりました。

  • 死刑について丁寧に論じており良書。自分も前々から死刑は廃止して、死への逃避を許さない、仮釈放なしの「厳しい」終身刑か超長期刑を法定すべきと思ってたので、著者に大賛成。懲役300年とか求刑したい。

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著者プロフィール

1970年生まれ。哲学者。津田塾大学教授。著書『国家とはなにか』『暴力と冨と資本主義』など。

「2017年 『カネと暴力の系譜学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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