- Amazon.co.jp ・本 (687ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480082169
作品紹介・あらすじ
ベンヤミンは、その思索の全体を通じて近代の「原史」(Urgeschichte)をイメージし続けた。ゲーテの『親和力』に見出される「アウラ的なもの」、そこからの断絶の最初のラディカルな顕われ(近代の転回)としてのボードレールの諸作品、さらに近代からの決定的な覚醒を告げる、シュルレアリスム、ブレヒト、複製芸術という非アウラ的芸術。また、パリの近代ないしボードレール捉えるまなざしに重なるように映し出されるバロック・アレゴリーの精神。近代における美的経験の変容を縦軸に構成する、新編・新訳のアンソロジー。
感想・レビュー・書評
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ベンヤミン・コレクションに収められている「写真小史」と「複製技術時代の芸術」について少し書く。これらは19世紀の初頭に書かれたもので、「写真小史」は写真が発明されてから100年ほどの歴史を、「複製技術時代の芸術」は複製技術というものが発達したことで芸術にどのような影響があるのかを論じている。
この二つのエッセイには一つの流れがある。それはタイトルにもあるように複製技術に関することだ。それまでの芸術は、基本的には一点もので、だからこそ本物としての崇高さみたいなものがあった。例えば西洋美術館にゴッホのひまわりの本物が来たら、多くの人が足を運ぶ。今大抵の絵はパソコンで画像として見れるけれど、本物はやっぱり違うという意識が私たちにはまだある。これをベンヤミンはアウラと呼んでいる。複製技術以前の芸術の価値はこのアウラにあったのだけれど、複製技術が出たことによってそれは薄れてしまった。写真が出来て、映画ができて、コピーが氾濫した。コピーが氾濫すると私たちはそのことに慣れていく。そして本物である、という価値は比較的どうでも良くなっていく。これに資本主義、大衆文化が重なって、様々な物が商品化され、人々は「大衆」になる。芸術の価値は揺らいで、不安定な状態に陥る。
ではその後の芸術はどのように価値を築き上げたのか。これにはベンヤミンが言うには二つの道があった。一つは薄れ行くアウラをまだ無くなっていないように振る舞うこと。ないものをあることにすることはできないだろうと思うかもしれないが、そもそも複製技術以前は「アウラ」という形で人々は芸術に価値を感じていた訳ではないから、そう振る舞うことは難しいことではなかった。「芸術は無条件に素晴らしい」と一部の芸術家は言って、それは欺瞞だったけれど、人々もそれを信じた。「世界は美しい」という、耽美主義的な標語を、ベンヤミンはやり玉に上げている。この論理が戦争を肯定することにさえつながると彼は考えた。ベンヤミンはこういった芸術の祭り上げ、アウラの捏造が、大衆の頭を悪くして、ファシストの駒にしてしまうということを危惧した。これはアーレントの糾弾した全体主義とも同様の現象だ。根拠を失った芸術を、そういうものとして利用しようと言う流れがまず一つあった。
もう一つの道は、アウラが失われたことを受け入れて、そこから芸術にできることをやっていこうという道で、これがベンヤミンが提唱していることだ。その例として彼が特に評価しているのが、映画である。映画というものの特徴は、それまでの芸術とは違って、人々がじっくりと観察して味わうことを許さないことだ。むしろ映画はめまぐるしい展開で、人々を巻き込み、くつろがせる。映画を見る作法と現実で生きる作法は異なる。この映画を見る作法が、私たちが現実を認識する新しい知覚を切り開くのではとベンヤミンは期待していた(この意味ではそれまでの芸術においても、フィクションとしての現実の再構成が、私たちの現実を形作っているとも言える)。そしてそれは私たちがアウラなき時代をどうやって生きていくのか、という問題意識を孕んでいる。
映画がどの程度人々の新しい知覚を切り開いたのか、それを見極める力は私にはない。ただ、複製技術によってアウラが消えたこと、そしてそれが消費社会や大衆社会という現代社会の特徴と強く結びついていることは明らかだ。芸術というものの価値は、現実を描くことにあると私は考えているが、その描き方、あるいは何をどう描けば「現実」になるのか、それは複製技術以前と以後とでは格段に異なっている。ベンヤミンのエッセイは、芸術と複製技術、その社会的な役割を考える上で極めて示唆的だ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
文章表現が華やか。
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―2003年4月―
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パサージュをそぞろ歩きする如く。Disneyへの言及があるのが意外の感があるのだが時代としてはちょうど重なるのだった。
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シュルレアリスム論や有名な「複製技術時代の芸術作品」は、「まとめ」ではなくてオリジナルを一読しておくといいと思う。通読は辛いが、トピックによってはとても新鮮で興味深い。
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[ 内容 ]
<1>
ベンヤミンは、その思索の全体を通じて近代の「原史」(Urgeschichte)をイメージし続けた。
ゲーテの『親和力』に見出される「アウラ的なもの」、そこからの断絶の最初のラディカルな顕われ(近代の転回)としてのボードレールの諸作品、さらに近代からの決定的な覚醒を告げる、シュルレアリスム、ブレヒト、複製芸術という非アウラ的芸術。
また、パリの近代ないしボードレール捉えるまなざしに重なるように映し出されるバロック・アレゴリーの精神。
近代における美的経験の変容を縦軸に構成する、新編・新訳のアンソロジー。
<2>
「体系」的思考に対して異端をなす、「エッセイ」の思想の根幹―それは、手仕事的な細部へのまなざしである。
そこはまた、私たちの「経験」の息づく場所でもあるのだが、もし批判的感性がそのような細部に感応するなら、それは同時に、対象の内部に忘却されたままの、全体性と無限性を予感させるものとなるだろう。
そのとき、このエッセイそのものが自身の時代の感覚器官となっていることに、われわれは気づかされる。
中断と飛躍を含んだ思考のリズム、巧みに布置された理念やイメージの群れ―。
哲学的考察も、これらを恐れはしないのだ。
エッセイという形式を、みずからのものとして生きたベンヤミンの、新編・新訳のアンソロジー、第二集。
<3>
いまだ批評ではないが、しかしその萠芽を孕んでいるなんらかのイメージ―ひとつの面影、ひとつの名、ひとつの瞬間、ある表情、ある匂い、ある手触り、歩行中のちょっとした閃き、記憶に蘇ってきた風景の、また忘却を免れた夢の断片、ある作品のほんの一行、映画の一シーン、成就されることがなかった希望など。
現実と幻想のあいだに、経験と夢のはざまに、現在と過去の閾に漂っている想いの断片が思考の運動を開始させる。
私的な記憶が歴史の記憶とせめぎあいつつ出会う場所へ、私たちをいざなうベンヤミンの新編・新訳のアンソロジー、第三集完結編。
<4>
優れた批評作品はすべて、ある神秘的な瞬間を、みずからの言語運動の原点として秘めている―批評対象の本質が、批判的感性により、批評の萌芽として直観される瞬間を。
本書により、ベンヤミンの各論考間での照らし合いが、私たちの読みのなかで、飛躍的に増幅されるだろう。
表現されていながら隠されている意味を発見するとき、それはすなわち、私たちの内部への“批評の瞬間”の宿りにほかならない。
「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」「ブレヒトの詩への注釈」をはじめ、初期の哲学的論考から同時代批評まで、ベンヤミンの思索を跡づけた新編・新訳の文庫版アンソロジー、第四集。
<5>
「破壊的性格」を巻頭に置き、宗教、筆跡学、映画など多彩な考察群を収録。
基礎論的な対象領域からアクチュアルな対象領域へ、萌芽的思考から成熟した思考への変容を辿った珠玉の論考集。
<6>
「叙述の輝きは思考細片の価値にかかっている」とベンヤミンは言う。
“これが青年期の思考だ”と叫んでいる「形而上学」。
第一次世界大戦の勃発直後に自殺した親友に捧げるソネット群。旅の途上の夢想に紡がれた小品群。夢や思い出、ふと心に浮かぶ想念から生まれ出た物語群。
亡命の前年に運命の島イビサで綴られた、ベルリンでの幼年期から青年期までを回想する手記―。
本書では、ベンヤミンの特異な“断片”概念が織り成す多様な言語表現を立体的に構成。
謎に包まれた『パサージュ論』の生成過程を明かす、邦訳初公開の覚書集三篇が注目される。
待望の新編・新訳アンソロジー第六弾。
<7>
青年運動での高揚と挫折、第一次世界大戦とその後の大インフレーションによる困窮、ナチスの台頭と亡命、そして第二次世界大戦という死への坂道―混迷と変転のなかで、ひとりの思考者の“私”が、もがきながら、超“私”的問題連関をリトマス試験紙として、位置測定と方向確認を繰り返し試み続ける、その足跡。
数々の“私”記、対話篇、“教育”問題への言及、時代/政治/文学/科学/歴史をめぐる考察群。
それらを、「“私”と超“私”の相克と相互浸透」という視点から読み解くときに浮かびあがってくる、批評家ベンヤミンの新たな相貌!新編・新訳アンソロジーの第7弾となる最終巻。
[ 目次 ]
<1>
言語一般および人間の言語について
ゲーテの『親和力』
アレゴリーとバロック悲劇
パリ―十九世紀の首都
セントラルパーク
ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて
シュルレアリスム
ベルト・ブレヒト
叙事演劇とは何か
写真小史
複製技術時代の芸術作品
歴史の概念について
<2>
蔵書の荷解きをする
子供の本を覗く
昔のおもちゃ
人形礼讃
模倣の能力について
ドストエフスキーの『白痴』
アンドレ・ジッド『狭き門』〔ほか〕
<3>
アゲシラウス・サンタンデル
一方通行路
都市の肖像(ナポリ;モスクワ;ヴァイマル ほか)
ドイツの人びと
1900年頃のベルリンの幼年時代
<4>
雑誌『新しい天使』の予告
バルザック
シュティフター
シェイクスピア『お気に召すまま』
モリエール『気で病む男』
ショー『ウォレン夫人の職業』
パウル・シェーアバルト『レザベンディオ』
ゴットフリート・ケラー
ヨーハン・ペーター・ヘーベル(3)
新たな賛美者からヘーベルを守る〔ほか〕
<5>
破壊的性格
いばら姫
現代の宗教性についての対話
学生の生活
古代の人間の幸福
ソクラテス
中世について
絵画芸術とグラフィック芸術
絵画芸術について、あるいはツァイヒェンとマール
“言語について”〔ほか〕
<6>
アフォリズム集
ケンタウロス
“青春”の形而上学
ソネット集
“心象”風小品集
物語/お話集
ベルリン年代記
『パサージュ論』初期覚書集
<7>
“私”の位置
“私”記
対話篇
学校改革・教育
超“私”記
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ] -
東大京大教授が薦めるリスト100選抜
No.53 -
ヴァルター・ベンヤミンについては、去年だか一昨年だか、日本の文庫本で何種類かアンソロジーが出たようで、流行ってるのか? と思っていた。私は岩波文庫での2冊を相当昔読んで所持しているのだが、今回、なんとなくちくま学芸文庫版を1冊買ってみた。
もちろん、既に読んだのと重複している部分がある。
しかし、改めて読んでみると、ベンヤミン、あまり好きではない。私よりもどうやら執着的な思考の癖があって、文章は文学的だが思想としてさほどのインパクトを感じない。それに、ちょっと読みにくい。
ベンヤミンはそんなに重要なのかなあ。よくわからない。 -
『パサージュ論』冒頭の「パリーー19世紀の首都」を斜め読み。パサージュ論を読もう。
-
《目次》
言語一般および人間の言語について
ゲーテの『親和力』
アレゴリーとバロック悲劇
パリ―十九世紀の首都
セントラルパーク
ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて
シュルレアリスム
ベルト・ブレヒト
叙事演劇とは何か
写真小史
複製技術時代の芸術作品
歴史の概念について