- Amazon.co.jp ・本 (334ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480089229
作品紹介・あらすじ
デリダは、フッサールを読むことによって、「読む」とは何か、「書く」とは何かを根底的に考え直した。本書は、フッサールの『論理学研究』(『認識の現象学と認識論のための諸研究』)の第一部「表現と意味」の驚嘆すべき綿密な読解を通して、現象学的批判という方法が「形而上学的企てそのもの」だということを暴き出す。その困難な作業のなかから、「脱構築」「痕跡」「差延」「代補」「エクリチュール」…といった魅力的な「操作子」(言葉でも概念でもない脱構築の道具)が産み出された。後に「たぶん最も愛着を覚えている詩論だ」とデリダ自身が言っているその代表作。
感想・レビュー・書評
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フッサールの現象学についての本だった。序論は難しかったが、本文はやや容易であったと思う。だが、訳注が長かったので、本文の内容は忘れてしまった。
しかし、訳者あとがきを見るに、デリダは、フッサールが考えていなかったことまでも、分析していることはわかった。
永井均さんが、この本の影響を受けたというのを、永井さん自身の本で知ったように思うので、この本を購入したのだが、どの本かわからない。確か、「複数の人がいるのに、声が一か所からしか出ない」というアイデアだったと思う。それだから、この本の中で、それらしきところを探したのだが、見つからなかった。永井さんの思いつきだったのだろうか。私の記憶違いか。
いずれにしろ、また読んでみたいと思う内容だったので、これからも再読していきたいと思う。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
さすがにしんどいので寝かせながら読んでた。
フッサールをデリダが読み解くという体ではあるものの、
それは解くのではなく、
フッサールの紡いだ糸をさらに編み込んで行くような身振りでもある。
現象学的な振る舞いに基づいて還元しながらも
不可分な二重性を発掘してそこを起点にさらに全体を作り変えて行く。
すぐには飲み込めないながらも魅惑的な言葉の乱反射である。
意味が分からないのにキャッチーだなんてことが
デリダに限ってはある。
まったく憎たらしい才能である。
それと、この文庫は訳注が充実していることも付け加えておきます。
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私は存在するのなかで、私が自分自身に立ち現れること〔=現出〕は、根源的に私自身の消滅可能性へとかかわることなのである。したがって私は存在するは、根源的に、私は死すべきものだということを意味している。(p.122)
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知覚の言表を理解するために、私は知覚する必要がないのと同様に、<私>という語を理解するために、私は私>という対象の直感を必要としないのである。(p.215)
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差延なき声、エクリチュールなき声は、絶対的に生きていると同時に絶対的に死んでいる。
そのときの絶対知の「彼方で」「始まる」もののために、古い記号の記憶を通して自分を探し求めている前代未聞の思想が要請される。(p.230)
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【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/738347 -
初期デリダ。関連「グラマトロジーについて」「エクリチュールと差異」
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【由来】
・森さんの音楽関連本で、たまたまamazonで出てきた。
【期待したもの】
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※「それは何か」を意識する、つまり、とりあえずの速読用か、テーマに関連していて、何を掴みたいのか、などを明確にする習慣を身につける訓練。
【要約】
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【ノート】
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貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784480089229 -
全てを理解したわけではないが、内容はとても興味深い。ただ、それを語る際に用いられるデリダ特有の様々な造語については、短いパッセージの中であまりに濫用された結果、かえって論旨をぼやけさせているような印象を覚えた。フッサールと現象学についてもっと学べば、また違った読書感を抱くのだろうか。
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初めて読んだデリダの著書。
現象学について、それに依拠しつつ書いているものであって、
やはりグラマトロジーよりも読みにくい。
要は、<私が語るのを聞く>とフッサールが言ったものを、
デリダが<私が語るのをただちに聞きたい>と読み替える。
「ただちに」という無時間性と無媒介性、その欲望が問題である、と。
これは時間と他者と言い換えて、つまり<差延>を排除したことが問題である、と指摘するわけです。
ただ注意しておきたいことは、
単純にフッサールは、現象学は、けしからんと断罪しているのではなく、
デリダは大きくフッサールと現象学に敬意を払っているし、
ある種の必然性を認めている、
その上で、怪しいところを怪しいと批判しているということだ。
ここを誤読すると、デリダが真に言いたかったことは見えてこない。 -
デリダの初期の本では多分一番難しいんじゃないか。少なくとも現象学にそこそこ詳しくないと置いてきぼりな一方なのは間違いない
フッサールの論理学研究の分析を通して、『生き生きとした今』という、フッサールの著作の端々に出る前提を問い直し、差延や代補みたいな新しい言葉を提案する重要な本なんだが、なにせそのもとの論理学研究がフッサールの中でも多分あまり読まれてないのとフランス語とドイツ語事情まで出てきて慣れるまでがあまりに大変だ
難関の第一章を過ぎたらあり得ない難しさという印象は薄れ、だんだんデリダ節が映えてくるのでそれまで我慢して読んでみてほしい