- Amazon.co.jp ・本 (250ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480090096
感想・レビュー・書評
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30年近く前に書かれたようだが、全く古びていない。
むしろ未だに明確に捉えきれていない課題や問題について、鋭く切り込んでいる。
講演録のようなものなので、気になった箇所を読み返すだけでも価値がありそう。
この本を読み、著者が伝えたいことを汲み取り、次の世代へと受け継いでいければ最高だ。 -
中学の国語教員として有名な大村はま。
この本は、決して国語教師にだけ向けられたものではありません。
教える立場の人、すべての人に、「教える立場」の心構えを厳しく温かく語っています。
自分自身が叱られているような気にもさせられます。
でも、大村はま自身が、自分自身に厳しく、プライドを持って実践に取り組んでいることが伝わってくる。
だからこそ、叱られて嫌な気分になるどころか、励まされている気にさせられる。
相当な覚悟と、目の前の生徒をいかに誠実に育ててきたかが言葉の端々から伝わる思いでした。
戦中戦後に現役だったはずなのに、不思議と今の新学習指導要領と重なる部分が多く感じます。
今やろうとしている指導要領では、「資質・能力ベース」の教育をしようとしています。
国語ならば、「言葉を育てる」教科としてどのように生涯使える力を育てていくのか?ということ。
大村はまさんは、豊かな言葉の担い手として、子供たちを育てたい、そう考え、一人ひとりの、目の前の生徒の課題に合わせた単元を考えます。
実生活での読書体験が豊かになるということはどういうことなのか、また、豊かな書き手として、話し手として、生涯生かされる力とはなんなのか、どうやって育てていくのか、といったこと。
もちろん「アクティブラーニング」といった言葉は一切出てきていませんし、大村はまの実践は、単なる「技術」や「方法論」に終わるものではありません。
これまで読んできた教育書では、自信満々に方法論を体系化したような本が多かった。
こういうやり方をしてみましょう、とか。
この方法で生徒は変わる!だとか。
そういう売り文句に、普段指導で頭を悩ませる側としては飛びつきたくなってしまいます。
でも、大村はまの実践は、指導技術だけではなく、教科の本質をついて、そのことを考え抜いている印象でした。
だからこそ実践は難しいけれど、「血の通った」指導という印象が残りました。
国語、という点でこの本を振り返れば、印象に残るのは「アイヌ」の教材を使った単元です。
アイヌの人々の精神論、考え方は私達のそれとはまったく違う。
だからこそ、そこに当てはめる言葉を考え抜くのに適しているという話。
あらためて、言葉を教えること、言葉が豊かであるということがどういうことなのか考えさせられました。 -
マーカーを引きながら読んだ
教員をやるうえで心に留めておきたい言葉の数々 -
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/738503 -
命の一コマを共にしている。息づかいを交わしながら。
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教えるということ
○子供のせいにしてはならない。自分の指導、児童理解を振り返るべし。静かにしなさい、は禁句
○分かりましたか、いいですか、禁句
○指導されたことに気づかず、自分の達成感、成長を実感すること
○どの子にも成長の実感があること。優劣
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国語科教育法レポートにて使用。
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苅谷剛彦さん(教育社会学者)がかかわった「教えることの復権」(ちくま新書)という本を先に読みました。いま本棚に見当たらないので、たぶん、図書館で見つけて読んだのだと思います。そこに、大村はま先生が登場します。私の予備知識は、テレビで一度そのお姿を拝見した程度でした。その本の中で初めてふれる先生の指導法には強烈な印象を持ちました。大村先生ご自身は、もう10年ほど前に、100歳を目前に亡くなられています。そこで紹介されている教育実践例がとにかくすごいのです。100人いれば100通り違う文章を与え、それについて考えさせる。それぞれに手引きを与える。ひとりひとりの生徒をしっかり見ているからこそできる技なのです。同じ教材は別の生徒に対してでも使わないというからまたすごい話です。使い回しはされないのです。それは、いつも新鮮な気持ちで教室に入るためだとおっしゃっています。これはもう大村先生の本を読まなければと思って「教えるということ」と本書(いずれもちくま学芸文庫)を読みました。「教えるということ」は誰かに貸して返ってきていない本の1冊。そういう本が5冊ほどあります。どれも大切な本ばかりです。貸したと思っている相手には「返しました」と言われたから仕方ないですね。
さて、本書の内容に移します。大村先生はふつうの中学校の国語の先生でした。現役の教師を引退された後も、後進を育てるために各地で講演会などもされていたようです。本書はその講演会での話をもとに編まれています。そのため、何度も同じような話は出てきますが、大切だからこそ何度も登場するのです。
もう、最初のページから反省させられることばかりです。「何事かを加えて教室に向かい、何事かを加えられて教室を出たいと思っています。」もう、1回1回が真剣勝負なのです。「あり合わせ、持ち合わせの力で、授業をしないように。」この言葉を胸に、日々の授業に向かいます。(一方で、ありあわせのもので、必要なものを創る=ブリコラージュという「野生の思考」がいま見直されています。)
「まず、『なになにしなさい』ということばをやめることです。・・・教師がこうなったらいいと願っていることを、『なさい』ということばをつけて子どもに言う、これは専門職の教師としては、たいへん、みっともない気がします。・・・『なさい』と言いたいことを、そう安易に言わないで、自然に子どもにさせてしまう人、そういう人が教育の専門家らしい人だと思います。」その通りだと思います。が、なかなかその通りにできないのが現実です。
受験が近づいてくると、算数・数学などの質問が多くなります。そんなとき、すっと解き方を子どもたちが分かるように教えるというのはそれほど難しいことではありません。すんなり教えたほうが時間も短縮できます。けれど、それをこらえて、子どもたち自身に考えさせないといけません。そうしないと、自分でできるようにならないからです。私たちが安易に教えるというのは子どもたちの考えるチャンスを奪っているということになります。けれど、それは放っておくというのとは違います。大村先生はこんなふうに言います。「子どもに自由に考えさせると言って、何もしないのは、自由のはき違い、教えるということを忘れていることだと思います。・・・子どもに任せきりでなく、どこまで、どのように手引するのか、深く考えておきたいと思います。教師はいつの場合でも教えることが仕事なのですから。」子どもたちには少しずつヒントを与えます。そしてそれをもとに考えを進めていく。そして、自分の力で「解けた・できた」という思いを持ってもらいたいのです。解けたとき・できたときの快感を奪う権利は私たちにはないのです。私たちも粘り強く、我慢することが大切です。子どもたちに自分自身の力で出来たのだという自信を持ってもらうこと、それがその子の後の学習習慣に大きく生きてくるはずです。
発問の仕方について。「教師自身が答を持っていることを、授業の進行上、子どもに聞いたりする。それは相手を一人前に扱わない失礼なことだと思います。自分の知っていることを知らないような顔をして聞くのは、普通の人にはやらないことです。子どもだからいいというものではない。子どもを尊重するとはそういうことだと思います。」これは、特に、学校の国語科の授業だからこそ言えることなのかもしれませんが、理系を担当している私にとっても、意識しておきたいことばです。
私たちは「ひとりひとりを大切に」と40年以上もうたい続けています。それが、単なるかけ声だけで終わっていないだろうか、日々振り返らなければいけません。「ひとりひとりを育てるには、まず、ひとりひとりを知ることです。ひとりひとりを捉えていなくては、それに応ずる指導ができるわけがないと思います。」今日来てくれた生徒全員に声がかけられただろうか。ひとりひとりを見つめることができただろうか。毎日毎日、問い続けないといけません。それだけ、大変な仕事をしているのだという思いを持ち続けないといけません。
「教育の効果というのは、何十年と先に花開くものですから、すぐ見えなくても焦らないことです。(逆に)すぐ見えても有頂天にならないことです。自分だけで育てているわけではありませんし・・・」私たちの仕事というのは子供たちの成長に関わる本当に大切な仕事だと思っています。合格をして、喜んで報告をしに来てくれる姿を見るのは本当にうれしいものです。けれど、それだけではなく、大学に合格したとき、就職したとき、結婚したとき、子どもができて初めて親の気持ちがわかったとき、そんなときどきに、声を聴かせてもらえるのが本当にうれしいのです。卒業してからもぜひ、機会があれば顔を見せてくださいね。(そういう意味で、FBは、いろいろ問題もあるかもしれませんが、すこぶる活躍してくれるツールなのです。)