虚構の時代の果て (ちくま学芸文庫 オ 15-3)

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (338ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480091970

作品紹介・あらすじ

オウム真理教事件は、当時の社会の断末魔の叫びだった。事件を起こした信者たちは、アニメ番組等の終末論から影響を受け超越的第三者(教祖)の審級に依存する世界観を肥大させ、そして彼らの事件がある時代を終わらせる。著者はその時代を「虚構の時代」と呼び、日本の戦後精神史上、終戦から万博までの「理想の時代」の次に来た時代、と位置づけた。時代の転換点を受け止めつつ、現代を克服する端緒を考察した意欲的論考。文庫化にあたり、オウム事件から始まる現代社会の文脈を解きほぐす論説を増補。

感想・レビュー・書評

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  • 社会学者の大澤真幸(1958-)による社会評論、原著は1996年、増補は2009年。

    オウム真理教による一連の事件を日本の戦後精神史のうちに位置付けようとする試み。大澤は、師である見田宗介に倣い、当該社会における「現実」が如何なる「反現実」に準拠してしているのかという観点から、日本の戦後史を「理想の時代」「虚構の時代」(さらに2008年の著書では、これに「不可能性の時代」が続くと論じている)と区分する。そして、「理想の時代」(の極限)の症候として1972年の連合赤軍事件を挙げ、それを参照しながら、「虚構の時代」(の極限)における症候として1995年の地下鉄サリン事件をはじめとするオウム真理教事件を捉え、現代社会の精神史的状況を描き出そうとする。

    □ 現実は〈虚構〉の上に成立する

    世界は諸個物の無秩序的で混沌とした生成流転のうちにあり、そのままでは理性はそこに一切の意味を見出せず、何らかの認識に到達することは不可能である。理性が、諸個物の間にある共通性を仮構し、その共通性によって諸個物を grouping することで、「具体的な個物 a は抽象的な概念 A である」という認識が可能となる。具体的な諸個物は、諸個物から抽象化された普遍性をもった概念によって、意味を付与される。

    このように概念とは、認識以前の物自体のうちに実体として存在するのではなく、認識を成立させるために便宜的に事後的な仕方で持ち出される云わば〈虚構〉である(唯名論)。つまり現実は〈虚構〉の措定によって初めて意味を付与される。概念のこうした〈虚構〉性を忘却し、それがあたかも世界の内に予め実体的に与えられている(実念論)とする錯誤を、「物象化」と呼ぶ。

    〈虚構〉の物象化(実念論的錯誤?)を通して、〈虚構〉は現実と無媒介に一致してしまう。現実が〈虚構〉へと反転してしまう。本書では、さらに現実と〈虚構〉との関係を考察する上で、他者の存在が重要な要素として見出され、大澤独自の概念である「第三者の審級」「〈超越性〉」の議論に入っていくことになるが、そこから先は十分に理解することが出来なかった。

    □ 「理想の否定」の果てに「理想の否定という理想」

    資本主義も依拠している近代的な時間意識が、理想とその否定という無際限の運動を惹き起こし、ついには一切の積極的な理想の絶対的否定を導きながら、しかしその絶対的否定が「世界の全的な否定」という積極的措定へと反転して立ち現れることになる過程が論述されているのだが、必ずしもあらゆる積極性が自己否定の無際限の運動において否定神学的に無化されるわけではないという点が興味深かった。

    ① 近代的な時間意識は、目的‐手段連関の実効性を確保するために、時間に無限性と直線性の構造を要請する。
    ② 目的‐手段連関が確保された時間構造において、或る時点における理想(目的)の価値は、ヨリ未来に措定される別の理想(目的)を実現するための手段として評価されることになり、この無限列の中で理想(目的)の価値は無際限に相対化され続ける。則ち、理想(目的)の価値を根拠づける〈超越性〉(「世界はかくあるべし」という規範の根拠)の権威が減殺し続ける。
    ③ 理想(目的)は暫定的なものであり続けるため、世界の究極的な理想(目的)の実現=世界の終末は、無限遠に先送りされ、有限的な人間は決してそこに到達することができない。則ち、世界と生の意味を根拠づける〈超越性〉は永続的に減殺され続け、ニヒリズムに陥る。
    ④ 生の意味を根拠づける〈超越性〉を回復するためには、如何なる目的‐手段連関にも属することのないような、別の如何なる理想(目的)のための手段ともなり得ないような、それゆえに如何なる相対化も被らないような、絶対的に孤絶したそれ自体で〈超越的〉な理想(目的)を措定するしかない。
    ⑤ 則ち、「世界の全的な否定」という理想(目的)が要請される。



    本書は自らが属する社会の或る深刻な一面を剔抉しようとする試みであり、オウム真理教事件の同時代人として相応の痛切さをとともに読まなければならないのかもしれない。しかし私は、これを哲学や思想史の用語を用いて現代社会の諸現象を首尾よく説明しようとする一種の「知的遊戯」として、それこそミステリやSFなどのフィクション(虚構)を読むにと同様に、本書を消費してしまっていることに気づいた。

  • オウム真理教とは何だったのか、どんな社会構造のもとに存在したのか、時代はどう動いてきてそしてこれからどこに行くのか、手放してはいけないものは何なのか、がっつり読み応えのあるコスパのいい本だった。宗教社会学入門を読んでおいて本当によかった。物事は繋がる。

    解説でこの著者の恩師が「彼(著者)は学生時代に夏のゼミ合宿の夜通し大貧民大会で社会学理論をうまくゲームで実践し一人爆勝ちしていた」てエピソードを書いてて微笑ましかった。

    麻原の死刑が執行されたから読み始めた本だったけど、読み終わらないうちにさらに6人執行されて本当にオウム死刑囚が全員いなくなってしまってちょっとびっくりしてる。

  • 1996年に刊行された本書は、1995年1月の阪神・淡路大震災の直後、3月に起きたオウム真理教による「地下鉄サリン事件」を詳細に分析している。
    当時のマスコミの姿勢や民衆の反応に対しても批判的に考察しており、オウムと反-オウムが相互に「陰謀史観」を開陳し合う状況、創価学会などの「旧」新宗教に対するオウムなどの「新」新宗教の特徴などが示される。
    著者によれば、戦後から高度経済成長期の日本は「まだ未来に夢を見ることができた時代」であり、「理想」を語り「理想」を求めることができた時代であったが、それがとりわけ80年代に至ると、「理想」は失墜し、東京ディズニーランドに象徴されるような虚構に埋没することを人々は求めるようになる。
    大澤さんは使っていない語だが、要するに「ポストモダン」時代の現出である。
    しかし著者によるとこの「虚構の時代」はサリン事件をひとつのメルクマールとして、終焉を迎える。つまり虚構性が破綻したということで、どうやら本書の後に書かれた著作に拠れば、そのあと「不可能性の時代」になるという流れらしい。
    けれども私には、この「虚構の時代」はそれ自体終わることがなく、80年代後半に登場した「オタク」たちはより広範囲に、よりマニアックになって増殖しているし、それはすでに日本文化の一翼を担うまでになっている。
    オウムの頃に盛んに言われた「世界終末説」も、いまだにささやかれ続け、人々が今でもいかに滅亡を望んでいるかは明白である。
    だが現在の日本が80年代の日本の「虚構志向」よりさらに深刻になっているのは、歴史修正主義のような「虚構志向」そのものが政権の中枢にまではびこっており、中国や北朝鮮の「脅威」論なども巷で盛んに喧伝されている。ここではもはや人々は「虚構」としての記号論に身を投じる以外の生き方を見つけることができず、さらにその記号的批評を、内に抱え込んだ不安や不信、憎しみの色で染め上げ、いまや国内が「虚構の内乱」状態にある。
    それはそれとして、本書はアイロニーについても示唆的な指摘を含んでいるし、この著者ならではの、やや難解な思考の深まりまで垣間見せている点、今読んでみてもなかなかに面白い読み物であると思う。

  • 後半が難しすぎて分からん
    俺にとっては文章が長いし、難解な定義の言葉がおおい。
    いつか読めるようになるんかなこれ

  • 読んでいる間じゅう、「なんでこんなバカモノども(オウム)の与太話に真面目に付き合わにゃならんのや……」という思いが頭から離れなかった。たしかに、著者が〈補論 オウム事件を反復すること〉で述べるように、「フロイトを乗り越えるためには、フロイトが提起した問い、フロイトの思考を駆動した謎を、フロイト以上に徹底して探究し、フロイトが挫折した地点を越えて前進するしかない」のかもしれないが、それはフロイトの思想が現代社会において今なお重要であるのと同じように、オウムがわれわれにとって重要であるという前提があっての話だろう。著者はオウムの存在が重要であるという理由を、オウムが現代日本社会の合わせ鏡のような存在だからだと言っているように取れたのだが、私は個人的にはこのような考え方には与したいとは思えない。オウムが徹頭徹尾くだらないのと同様に、オウム事件に対して陰謀史観的報道をくり返していたジャーナリズムもやはりバカの集団としか思えなかったからだ。

    というわけで、そもそもの前提から著者の議論についていけていないので、あらためてちゃんと読み直さないといけないなあと思った。ただこの本でオウムを論じる補助線として置かれている連合赤軍や見沢知廉の『天皇ごっこ』についてよく知らなかったり未読だったりするので、そっちを勉強してからのほうがいいかもしれない。

  • 金大生のための読書案内で展示していた図書です。
    ▼先生の推薦文はこちら
    https://library.kanazawa-u.ac.jp/?page_id=18479

    ▼金沢大学附属図書館の所蔵情報
    http://www1.lib.kanazawa-u.ac.jp/recordID/catalog.bib/BA88491454

  • 戦後から95年までの時代の流れの構造をなんとなく理解できました。また、考え方のお手本にもなりとても勉強になりました。

  • どこに行ったのか見当たらない。
    先日、ベッドの横で発見。無事捕獲(2009/03/09)

  • オウムを中心に考えられた90年代に至る日本社会の特徴を描いている。特に終末に関する考察が興味深い。オウムのような集団は常に敵を必要としており、それが当初は共産主義だった。だがソビエトの崩壊により共産主義という理想が頓挫することになった。敵を失ったオウムは世界自体を敵として思想を危険な方向へと導いていった。

    途中で抽象的な言語による論の展開が続いて読むのに苦労した。

    オウム自体についてまとまった本も読むと一層理解が深まるかもしれない。またこの次の『不可能性の時代』も時間を見つけて読なくては。

  • 面白いのは面白いのだが、後半はやや難解である。
    70年までを「理想の時代」として定義するのはわかる。
    が、その後の「虚構の時代」がわかったようでわからん。

    でも今が何らかの理想を持ちにくい、
    見い出しにくい社会であるのはそうだろうなぁと思う。

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著者プロフィール

大澤真幸(おおさわ・まさち):1958年、長野県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。社会学博士。思想誌『THINKING 「O」』(左右社)主宰。2007年『ナショナリズムの由来』( 講談社)で毎日出版文化賞、2015年『自由という牢獄』(岩波現代文庫)で河合隼雄学芸賞をそれぞれ受賞。他の著書に『不可能性の時代』『夢よりも深い覚醒へ』(以上、岩波新書)、『〈自由〉の条件』(講談社文芸文庫)、『新世紀のコミュニズムへ』(NHK出版新書)、『日本史のなぞ』(朝日新書)、『社会学史』(講談社現代新書)、『〈世界史〉の哲学』シリーズ(講談社)、『増補 虚構の時代の果て』(ちくま学芸文庫)など多数。共著に『ふしぎなキリスト教』『おどろきの中国』(以上、講談社現代新書)、『資本主義という謎』(NHK出版新書)などがある。

「2023年 『資本主義の〈その先〉へ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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