新編霊魂観の系譜 (ちくま学芸文庫 サ 29-1)

著者 :
  • 筑摩書房
3.00
  • (0)
  • (0)
  • (5)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 28
感想 : 3
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (287ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480094681

作品紹介・あらすじ

盆や彼岸のお供え、怠りなく営まれる年忌法要、非業の死を遂げた者への巫女による懇ろな供養-。日本人は死をどのように理解し納得してきたのか。霊魂観の歴史を丹念に読み解いた名著に、事故死した者の弔い方や葬送儀礼に関する論考を増補。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 著者は柳田国男の最晩年の弟子で……とか何とかはウィキで読んでください。また、体系的に「系譜」をわかりやすく書いている本でもありません。折口と柳田を受けて、民俗学をどう考えるか。折口学や柳田学にならないように、どう民俗学したらいいかを考えようとするためのヒント集のようになっていると思います。
    さて、ヒントは両墓制です。
    まず、私が死ぬとするならば、その魂は山に行くのでしょうか。それとも、写真に宿っているのでしょうか。それとも、みんなの心の中に……。おそらくその村の近くの山にいる……。ならば、山のない、都会で死んだものはどこに行くのでしょうか。ビルの屋上でしょうか。ネット上でしょうか。自前の仏壇か。神棚か。どこに魂はいるのでしょうか。

    とりあえず死んだら、骨のほうは、墓地に埋葬されます。そこへ、時々お盆なんかに拝みにいくことはありますが、普段は遺影のまえで南無と言います。家か田舎の墓か。どっちが本物の墓なのか、魂なのか、拝むべきなのかと言えば両方としか言えない。

    魂はどこへ行くのか。

    民俗学者は、血眼になってその答えを出したのでしょうか。色々批判されていても、柳田や折口は、やれ二年くらいは山にいるんじゃないか、いや、もっと遠い地の果てに還っていくのではないか、時々様子を見にきたりするのではないかと、オカルトだのなんだのの批判もなんのその、とにかく考えようとして答えを出そうとした。
    いま、膨大な文献を駆使してそこに上書きをする人はいるのでしょうか。

    桜井氏は民俗学をやるため、何を述べているのでしょうか。
    日本人は怨霊をどう考えるのか。そこから本著ははじまります。

    本著では、まず怨霊の二つの形について書いています。
    怨霊は、非業の死や不明な死や無念の死にいたった者が、現世に未練を残し、様々な厄災をもたらすもの、ですので、昔の人は、天災や、死をとげた者の関係者に異常が生じると、「やれ祟りだ、一大事だ」と、必死に慰霊をしたものでした。自分の政治的意図で殺したら、大変なことになったので、とにかく魂を鎮める。この、自己の政治的責任のなすりつけが一つめの怨霊観です。

    もう一つが、言わば「毒をもって毒を制す」です。怨霊を逆にあがめ奉り、そんな凄まじいパワーを持つ霊ならば、その神の力を利用して、病気を治してくださいと願ったり、田んぼの虫をなんとかしてくださいと祈ったりする。
    民間信仰に多くみられるパターンで、863年に宮中神泉苑で開催された一大御霊会では一般開放も行われ、民間御霊信仰の中央バージョンとして、盛大に催された。霊を鎮めるのは毎年、日本人が様々な困難な気象や土壌の条件の中生きていくための重要な要素であったとか。
    その会が開催された貞観の時代は、火山は日本中でガンガン噴火する。応天門の変で、伴氏が追放され藤原氏が栄える陰謀策略。大地震が毎月起きて、建物ことごとく倒れる。しまいには九州に隕石まで落ちてくる始末。
    特に異常死者は死後も怨念が残るので一生懸命慰霊された。だが、こういった、直接鎮めようとするのは、政治家のやるようなことである。民間では、間接的に、怨霊になったはずの霊をえらい神様として、悲劇で亡くなった人間のわら人形を持ち出して田んぼを歩いたりして利用しはじめる。この「転換」という怨霊が民間の御霊信仰の形成軸である。靖国は、転換できるのかどうか、というところで論は終わる。

    また、当然のことながら折口についても本著では触れていて、「ほとんど根拠もなく直感で書いているように見えているが、実際あたっていることが多いのが面白い」と評価している。
    日本の神は、まれびと、であり、その異郷の者の歓待接待役、そして還す役が巫女である。巫女は処女であり、神(まれびと)の嫁であり、一夜妻となり初夜権を渡し、子が宿るとその子は神の子となる。そんな、処女をやりたいほうだいできる制度は、少し前まであったらしく、現代の男性や女性が、きゃーきゃーわーわー騒ぎそうなネタのようでありますが、そういった、神の子を宿すという制度が、どういうバランスを村にもたらしたりしたか、どういう憎悪があり、どういう安定が欲しかったのか、その村の運営者は馬鹿ではないので、何らかの合理的理由があるはずで、それを考えようとすると、意外に、いま、自分の子をとにかく大事に育てるよりは、なんだか知らないけれど、誰かの子が生まれ、それを共同で育てるとかなんとかはありそうだ。
    でも、人間にはやはりいつの時代も恋の歌があるわけで、それはそういった村の人も持つわけで、それはそれは悲惨かつ、何かしら様々な感情渦巻くもので、そのなれの果てが三十人殺しとか、そういうもので、人を殺してしまうというのも、自殺というのも、都会と同じくらいに村ではよくあるのだろう。

    折口と柳田は、日本の二大民俗学者であり、
    折口は「日本の神道の古代の姿は沖縄にある」と信じる。彼の「古代研究」は「日本の古典」と「沖縄の巫女儀礼」との二つが縦糸横糸となり織りなされたものであると、著者は定義する。
    折口の全集を紐解いても「まれびと」を待遇する巫女の定義はほとんど見られないが、「昔、男より女が強かった時代があって、女は神の言葉を聞くことができたから男はかなわなかった」とか、巫女は、そういう、神と人の間の処女であり、シャーマンであるとか、その巫女の制度を、日本の古代に重ね、日本の最も遠いところを「ここ」に再現しようとした、感じようとしたのが折口である。
    そして、著者の師である柳田国男が見ようとしていたのは、一つは日本民族の源流、文化の起点を探り求めること。もう一つは日本人の祖霊観を、民俗的事実を通して検証すること。その二つの疑問の源流は「日本人とは何か」であると定める。その柳田は海上の道としてまた沖縄に関心を持つ。
    ふと思うのだが、左翼活動家だの、アメリカ軍だのがいなくなって、中国が攻めてくる心配もない沖縄とはどういう状態なのだろうか。何かしら癒し系ミュージックばかりと、ものすごく穏和なお婆さんの笑顔ばかりが思い浮かぶが、そういったイメージもなくして、素の沖縄を思考すると、日本人とは何かが浮かび上がりそうなのだ。
    そこには、島を出て行って、本土へ向かう民と、島に残り、共同体の空気と信仰を守り続ける、恐ろしく保守的な人間と、そのどちらでもない、不可思議な人物達がいるような気がする。

  • 死霊、怨霊、巫術、祖先崇拝などをテーマとするが、学問的なスタンス(正統派民俗学)の強い本で、あまり読みやすい文章ではない。ちょっと硬すぎるくらいだが、へんに文学的に書くとこのテーマならオカルト本になってしまうかもしれない。
     この人も柳田国男の弟子のようだ。いったい、柳田の弟子は何人いるのか。

全3件中 1 - 3件を表示

櫻井徳太郎の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×