基礎づけるとは何か (ちくま学芸文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480098870

作品紹介・あらすじ

より幅広い問題に取り組んでいた、初期の未邦訳論考集。思想家ドゥルーズの「企画の種子」群を紹介し、彼の思想の全体像をいま一度描きなおす。

感想・レビュー・書評

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    ── ドゥルーズ/國分 功一郎・長門 裕介・西川 耕平・訳
    《基礎づけるとは何か 20181109 ちくま学芸文庫》
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4480098879
     
     Deleuze, Gilles 19250118 France paris 19951104 70 /
     Socrates   BC-0470‥‥ Alopece  BC-03990427 71 /
    http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=Socrates
     
    …… ソクラテスは対話を消滅させるために対話を借用する。対話それ
    自体が消え去ることを望んでいるのだ。ソクラテスは対話が自分にとっ
    てどうでもいいものであることを分かっている。ソクラテスは対話を信
    じていない。(P54-55)
    https://keu-blog.com/sokuratesu-taiwa/
     
    (20240119)

  • ルソーにおける自然と法を軸に、著作群の統一性を見出す。特筆すべき論点は、『社会契約論』と『エミール』の間を『新エロイーズ』で繋ぐ提案だ。すなわち、社会状態の悪人利益に適合する市民(『社会契約論』)と、自然状態から自然法則を学び自然人として教育されたエミール的私人を、ジュリ的美徳あるいはヴォルマール的英知で存在させることができるかという問題である。
    自然状態から社会状態に移行することで悪人としての利益、利害心は必然となる。それを避け、自然状態から私的教育で自然人としての私人となることはできるが、美徳や英知の消極的家庭教育では現実社会で自由ではいられない。そこで、自然状態に遡行して考察し、自らが現在の同国人との関係において、市民となりうるか考える。ルソーの作品群を貫くのは、そういった個人と人類種の関係の問題である、といった洞察はクリアで、カッシーラーやカントの試みを整理するものである。ドゥルーズがカントを高く評価し、乗り越えようと新たな哲学、すなわち超越論的経験論を樹立しようとしていた点が垣間見られ、非常に刺激的な著作である。
    ・ルソー講義1959-60ソルボンヌ
    古代の自然状態は、目的性の概念で自然権、社交性、社会は自然との一致がある。プラトン、アリストテレス、ストア派、キケロ、聖トマス。市民や政治以前の状態でもなければ、社会創設の問題にもならない。賢人の代わりに統治する、最良の体制が問題になる。神学者法学者の問題。
    ホッブズは自然状態を諸力のメカニズムと定義し、各人の判断に委ねられ、個人間の争いとなる。この対立を取り除くのは、社会における契約であり、各人の契約によって第三者にとっての臣民となる。ルソーも自然状態については同様の立場をとるが、自由の市民と財産の安全の私人の二重性から、自由を立法権に結びつける。
    三つ目の自然状態は、功利主義かつ実証主義で、ヒューム、欲求によって否定的にしか規定できない、自然権を制限する起源的契約などない、あるのは黙約である。ベンサムの黙約の目的とは安全。他方契約を支持するものは、スピノザ、ルソー、カントで、自由を要求する。
    ルソー未完本『感覚的道徳あるいは賢者の唯物論』のテーマは、『新エロイーズ』の中に見出される。ブルジュランは『パイドロス』の例証と見ており、サンプルーは黒い馬、ジュリは勇気、ヴォルマールは理性。ジュリとサンプルーはどちらも美徳を好んでおり、恋が徳となるのは禁じられているからである。特定の客観的状況では、我々は美徳と社会利益を両立させられず、悪人である他ない。自分を変えようとすることはルソーにとって馬鹿げたことだ。なぜなら心は客観的な諸対象との関係において規定されるから。ジュリはヴォルマールが死んだとしてもサンプルーとは結婚しない。意志が状況を変えうるのは、意志が客観的要素として介入するから。ヒューム、政治哲学の問題は、正義と利益を和解させる客観的状況を見つけること。私的な生のなかで、客観的要素としての強固な意志を介在させる。ジュリは美徳の人に変わったが、サンプルーに自身の固着を自覚させ治療する。記憶を代理形成し、愛を友情へと感情転移する。美徳のために必要なのは決定論を迂回し状況を変えることで、ジュリは意志で状況を変えようとした。ルソーの善き精神四つの段階、魂、自然あるいは愛、美徳、英知。魂の善性を本源的とすることは、決定論であり、ここから状況が情動を規定することとなり、魂が理性ではなくたんに感覚する能力ということになる。自然的な事物への依存が現れ、各人はひとつの全体となる。ジュリは魂が精力的、サンプルーは弱い魂、両者内面的感受性が強い。ヴォルマール感受性が乏しく冷淡な魂で理性を好む、クレールは直情的、熱狂家。各人の魂は本源的善性で自然の秩序の中にある。社会状況が変化すれば利益を取る悪が生じ、社会と各人が主人と奴隷の関係になる。子どもは自分の望みを他人にやらせる。人への依存。『エミール』は事物への依存、すなわち事物に対する無力さに戻す試み。人為的関係が悪徳を利益にする。美徳への愛とは、状況に逆らって善性を保ち続けようとすること。これこそが、『新エロイーズ』の問題。善良で、美徳への愛があっても、状況ゆえに過ちを犯さずには愛することができない、という道徳的問題。美徳への愛と悪人の利益の対立があるが、ルソーは闘争する美徳に懐疑的。意志の力で状況を変え悪から逃走するジュリのやり方は、ある意味では失敗している。ストア派、キリスト教の誤りは義務と道徳を誇張すること。美徳と利害心の一致を復元しうるのは英知のみ。ヴォルマールは状況を変化させるために、意志ではなく、時間と場所の選別を使う。現在によって過去を覆い、神聖な場所を馴染みのものに変える。真の幸福とは今ここが完全と言えることだ。不幸とは、過去から未来を予想すること。『孤独な散歩者の夢想』、持続も継起も感じない現在を生きていないこと。存在の感情とは、神のごとく自ら満ち足りる、過ぎ去る純粋な現在。ルソーは晩年、事物への依存からの解放、空虚を主張する。幸福になるには、状況の変化ではなく、夢想を置く。『エミール』で教育された私人が、『社会契約論』の市民となるが、教育者立法者はあまりに美徳に満ちているため、いずれも神話的架空の存在。教育は3種類あり、能力・器官発達の自然、発達の利用の人間、事物。二つに還元され、家庭教育あるいは自然の教育(自然と事物)、人々の関係の公教育(人間)。現実には同時には、人間にも市民にもなれない、すなわち公教育は存在しない。私的教育を突き詰めたとき、公教育の復元の可能性が問われる。
    ルソーの自然状態は、平等と孤立、偶発的な出会いのある、散らばって生きている状態。
    ホッブズの自然状態は欲望のメカニズムで、そこから欲望を実現する自然権が生じる。アリストテレス的に自然は完全ではないし、人間は社会的動物ではない。ルソーには欲求は切り離すというストア派的な基調がある。自然状態とは力と欲望の均衡。ホッブズにとってそれは万民における法。ルソーはそれは手元にあるものしか望まないからで、気をそそるもの全てを望む権利があり、自然状態で自制が働いているアタラクシアがある。自然権は、自己愛が憐れみによって自制されて均衡している。
    自然な、第一の意味は原始的な・生来の、第二の意味は自ずからそうなるように作られた。ジュリ、サンプルーの愛は第二の意味であり、それが習慣のような発達を必要とする。自然であるとは、起源の中に潜在していた指示に従う発達。ルソーにとって自然法は、その指示に従う自然人の発達を支配する法則である。『エミール』は自然と事物により自然状態の人間を自然に導く。『ジュネーヴ草稿』にあった自然状態の章が『社会契約論』で削除されているのは、自然人を前提としている市民への移行の問題に、自然状態の私人を入れないためだ。自然状態は、潜在的で発生的であり、自己愛と憐れみは発達前は情念の一種にとどまる。憐みは潜在的な社交性や自己愛、他人への愛を含む。その発生、自然状態の潜在性から現働態への移行は、状況→欲求→能力となる。したがってホッブズの戦争状態は、攻撃能力と所有権すなわち事物と事物の関係の社会を前提としているので、自然状態ではない。利害心としての利己愛も社会状態を前提している。
    カントは基礎と起源を区別した。ルソー以前の自然状態は基礎かつ起源。ルソーにとっては事実を除いた、観察不可能な実在しない状態。ただし、人間の育成の出発点として実在的。
    カッシーラーはルソーの著作について、カント的に自由を巡る統一性を見ている。カント「人間の歴史の憶測的始原」、『社会契約論』は改革ではない。『不平等起源論』、取り決めは欺瞞で堕落させる社会状態を生み出す。ルソーは一定の改革は可能とするが、取り決めは外部立法者を前提としていることから、もはや変更不可能であるがゆえに、社会契約が存在する。契約は自然状態ではなく、自然人と関係する。発生の系列、「自然状態→社会状態」、「社会状態→私人(自然人)」自然の法による教育、「自然人→社会秩序」の非発生的意志。
    ホッブズにとって自然状態を抜け出すのは不均衡の解決だが、ルソーにとっては外部からの偶然性、自然の隠された計画。自然状態を抜け出すと、未開状態、能動的になる。欲求を満たす新たな能力は、関係の知覚をもたらし、感覚を比較する観察判断。新たな欲求と利害は、状況を変化させ、自然的個体から道徳的人間への移行が問題になる。精神的な活動が、余暇と怠惰な情念を生む。選り好みや比較が、個人を種から区別する。定住の開始は、所有権の萌芽。人間同士の結びつきが形成され、個人は種としてではなく、他人からの承認を欲する。これこそが不平等と利己愛への第一歩。人間に固有の道徳的存在を発見することが、自由の発見。魂と身体の二元論。自由の自覚は、自然状態では生と一体であるのでできない。自由によってこそ道徳的存在だと発見したとき可能になる。道徳=魂と身体、個人と種、二つの二元性。道徳から美徳に展開されるとき、個人において悪人の利益が展開される。自然的起源に由来する農業と土地所有は、道徳的存在すなわち正義=公正への進化。本来の所有権によって自らに取り戻すという正義の本質。分業の不平等に、富者が戦争状態の終結として欺瞞に満ちた、権力の形成、取り決めを行う。『社会契約論』は契約が欺瞞なしに生じうる条件を探求する。契約条件の四つの論証、他人に依存しないという論理的、隷属性向はないという心理学的、父権的権威ではないという社会学的、自由と道徳の一致という道徳的。我々は騙されたという前提で、欺瞞のない契約はありうるだろうか?ホッブズは社会における従属を結合としたが、ルソーは結合を先行させた。意志の集結、政府も富者のペテンだ。悪人の利益の発見、所有権が不平等を発展させる。ルソーは不平等を、新たな欲求と他人の労働の搾取にみる。正義は、当事者関係とは別。服従は結合を前提しており、不平等な当事者関係の契約とするのは欺瞞である。したがって社会契約は結合。ルソー以前の社会契約は現実の基盤であるが、それゆえ実在の社会は欺瞞に満ちており、自由は存在しない。人間の原理が欺瞞によって堕落させられている。ルソーは人間が社会的存在であることが原罪という。利害心に奉仕する道徳的存在。そこから抜け出すには、革命、それができなければ教育、すなわち利害心の抹消。ジュリのような美徳か、ヴォルマールの英知。個人と道徳的種との積極的客観的和解が可能になるのは、私的教育のあと。『エミール』最後、同国人とエミールの市民的関係、そのために自然状態を考察する。自然状態の人間-社会的人間、自然状態-社会契約の類比がある。この考察により、人間は自然状態で自由であり、契約の可能性が生じ、契約下では正義は譲渡不可能になる。
    →自然状態から社会状態の悪人利益を避けて、自然状態から私的教育で自然人となり、美徳や英知の消極的家庭教育ではなく、同国人との関係で自然状態を考察し、市民となる。
    自由は常に問題であるが、統一の要素ではない。統一しているのは、個人と人類種との関係である(カントの解釈)。①身体的な種と身体的個人、②身体的受動性→身体的能動性→精神的種、③道徳的種と個人の断絶『不平等起源論』の人々の欺きと『新エロイーズ』の自分自身による欺き、④道徳的意志による個人と精神的種の主観的統一『告白』『新エロイーズ』、⑤個人と道徳的種の客観的統一を確立する政治的行為『社会契約論』。
    社会契約は主従の二者間ではない。なぜなら争いを裁く第三の審級が必要になるからだ。結合なしでは服従はありえない。第三篇16章。安全と引き換えに自由を売却することもありえない。なぜなら政府の行為は人民=主権者の法に従属するからだ。一般意志からなることから代表もされない。代議士ができるのは法の提案のみで、法を決定するのは人民のみである。これによりルソーは絶対君主制、代議制を批判する。主権者は個人や集団に帰せず、分割不能な単一で、その目的は法のみ。
    契約は、服従ではなく、第三者の臣民でもなく、代表されえず、当事者間の関係ではない。
    個人=私人、臣民、市民=主権者。臣民になることが中間項となって、個人と主権者をつなぐ二重の関係になる。契約は二項間の関係で、三つの項を発見し、二つの関係で捉えられるのは臣民。臣民が自らの義務に服する。
    譲渡は全面的で各人平等、主権者として即時的に取り戻す。合法的な所有を保証する。共通の利益に関わるものは課税対象の公共財産の預かりにすぎず、即時返還は、私有物、私的な意見、すなわち私的宗教に関わる。共通の利益は臣民の利益。自らを臣民として構成することは各人が立法者であることあり、主権者が欲するものは自由。一般意志とは主権者である各人の意志。共通の利益はたんに一般意志を構成するものではなく、臣民となって共通の利益が見出されることで、主権者が現れることができ、意志が一般的なものとして存在可能になる。
    自由の意志たる一般意志が意志するのは法だけ。主権者より高位なのは神、自然法、名誉。『新エロイーズ』では、自然法(愛)、名誉、神というヒエラルキー。プラトン、アリストテレス、ストア派の古代にとって自然法は正しい理性であり、事物と目的の合致。ルソーはそれは法則という意味で、命令法ではないという。ホッブズら近代人にとって自然法は仮言的命令で、生命保全を目的とした個人同士の互いの契約である。ルソーはそれは自然状態に理性を備えた者を想定しているという。ルソーにとって自然法は自然状態にはなく、自然状態からの潜在性の発展的展開であり、潜在性は社会の中の客観的状況においてのみ有用なものとして実現されるものである。社会契約は主権者の生に対応する運動としての一般意志であり、主権者は契約に規定された形式的な意志である。一般意志が意志するのは平等と自由。法が形式的なのは平等と自由以外の具体的なものを含まないから。しかし、事物との関係、すなわち客観的状況が考慮されてはじめて法が規定されることから、一般意志は、法が作る善の内容を知らない。ゆえに外部からの立法者の知性を要する。
    ・解説
    ドゥルーズの超越論的経験論は、カントとヒュームを結合させ、カント以降の哲学を前進させるために必要と考えられた。カントの法学的区分、認識している事実と、認識が客観的妥当性を持つための権利あるいは基礎を分け、論ずる認識論。ヒュームが論じなかった、カントの基礎論に分があると見ていて、後の立場とはかなり異なる。『カントの批判哲学』は目的を自然由来とする経験論と、超越的なものとした合理論の双方に挑んだ点を強調していた。文化主義的自然主義であったカントに非常に高い地位を与え、ドゥルーズもそこに定位した。
    ルソー講義は、優れた文学の読み手の手腕を発揮し『新エロイーズ』の読解が議論の重要な部分を占め、ルソー研究の中でも珍しい。しぜんの二つの意味、原始的と潜在性で、後者はドゥルーズの代名詞ともなるもので、文化の中で実現するものとして自然の潜在性を捉えている。つまり自然と文化は対立しない。ドゥルーズの自然への関心は、文化主義的発想がある。

  • 東2法経図・6F開架:135.5A/D55k//K

  • 原書名:Qu'est-ce que fonder?

    1 基礎づけるとは何か―1956‐1957・ルイ=ル=グラン校講義(自然と理性;「基礎すなわち根拠の本質をなすもの」(ハイデガー);基礎と問い;原理の基礎)
    2 ルソー講義―1959‐1960・ソルボンヌ(自然状態についての二つの可能な考え方;『新エロイーズ』について;自然状態;ルソーの著作の統一性;社会契約;ルソーにおける市民の法の観念)
    3 女性の記述―性別をもった他者の哲学のために
    4 口にすることと輪郭
    5 ザッヘル・マゾッホからマゾヒズムへ

    著者:ジル・ドゥルーズ(Deleuze, Gilles, 1925-1995、フランス・パリ、哲学)
    編訳:國分功一郎(1974-、千葉県、哲学)、長門裕介(1967-、倫理学)、西川耕平(1982-、哲学)

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著者プロフィール

(Gilles Deleuze)
1925年生まれ。哲学者。主な著書に、『経験論と主体性:ヒュームにおける人間的自然についての試論』『ベルクソニズム』『ニーチェと哲学』『カントの批判哲学』『スピノザと表現の問題』『意味の論理学』『差異と反復』『ザッヘル゠マゾッホ紹介:冷淡なものと残酷なもの』『フーコー』『襞:ライプニッツとバロック』『フランシス・ベーコン:感覚の論理学』『シネマ1・2』『批評と臨床』など。フェリックス・ガタリとの共著に、『アンチ・オイディプス』『カフカ:マイナー文学のために』『千のプラトー』『哲学とは何か』など。1995年死去。

「2021年 『プルーストとシーニュ〈新訳〉』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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