- Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480437037
作品紹介・あらすじ
アメリカで黒人女性はどのように差別と闘い、生きてきたか。名翻訳者が女性達のもとへ出かけ、耳をすまして聞く。新たに1篇を増補。解説 斎藤真理子
感想・レビュー・書評
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歴史の授業で何の思い入れもなく習った事柄が、個人の語りによって生々しく押し寄せてくる。昔の本だけど、外国の話だけど、全然他人事じゃない。
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遠い国のちょっと昔の話しではない。
彼女たちの苦しみは続いている。
時を経てもなおまだ叫び続けなければならないほどに。
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アメリカに暮らす一般黒人女性たちへのインタビュー。様々な人たちの暮らしのリアルは不思議と親近感と安心感を得られるので、心が不安定な時に読むといい。
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リチャード・ブローティガンの訳者・藤本和子によるアメリカ黒人女性への聞き書き集。彼女たちは、アメリカで、黒人であること、女性であることにより二重にしたゲラれているという。ウィスコンシン州の刑務所でカウンセラーをしているジュリエット・マーティンを中心に、その同僚や受刑者たちに聞いた話がまとめられてる。どの話も個人的で、かつ普遍性があった。公民権運動などを経て黒人の状況も改善されているのではという質問にジュリエットが答えた「戦いなんて、まだ始まってもいない」という言葉が印象的だ。
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これはもうタイトルにやられた。かなり前(1980)に出た作品みたいなのだが最近になって文庫化されたようで店頭でタイトル見たら読んでみたくなった。翻訳を生業とし当時アメリカで暮らしていた作者が何人かの黒人女性にインタビューを行ったもの。黒人であり女性であるということは二重に抑圧された存在である、という切り口で刑務所の心理学者、ケーブルテレビ局のオーナー、ソーシャルワーカー、囚人、街で暮らす百歳を超えた老婆、などに対する聞き書き。どういう生い立ちでどういう酷い目にあってそれをどう跳ね返したのか、または、跳ね返せなかったのか、が綴られている。特定の人種と性別にのみ焦点を当てた作品で今なら逆に世に出せないのでは、とも思った。自分たちが少し前までは奴隷であったために劣った存在と思っていたのだがジェームス・ブラウンに代表されるムーブメントでいかに勇気をもらったか、など非常に興味深く読んだ。タイトルにもなっているフレーズは心理学者が昔たまたま耳にして忘れられない言葉ということで少し長いけども引用する。果たしてこんな逞しさが自分にはあるだろうか。非常に興味深い作品。おすすめです。
「ブルースなんてただの唄。かわいそうなあたし、みじめなあたし。いつでも、そう歌っていたら、気がすむ? こんな目にあわされたあたし、おいてきぼりのあたし。ちがう。わたしたちはわたしたち自身のもので、ちがう唄だってうたえる。ちがう唄うたってよみがえる。」 -
教育は歓迎するが、白人文化への同化は望まない、という女性の言葉が印象的だった。
国や地域に文化があるなら、女独自の文化を保ったままでいいんじゃないのか?ことさらに男性への同化を自他に求めなくとも、やっていけるんじゃないのか?男たちが勝手に作ったヒエラルキーを内面化してあげなくても、もう、いいんじゃないのか?
本書を読みながらしきりに「崖」(石垣りん)の一節が思い出されてならなかった。
戦争の終り、
サイパン島の崖の上から
次々に身を投げた女たち。
美徳やら義理やら体裁やら
何やら。
火だの男だのに追いつめられて。
とばなければならないからとびこんだ。
ゆき場のないゆき場所。
(崖はいつも女をまっさかさまにする)
それがねえ
まだ一人も海にとどかないのだ。
十五年もたつというのに
どうしたんだろう。
あの、
女。
女たちが落ちる「崖」に、ここまで、という終わりはない。
20年も経つのに。
そろそろ80年も経とうというのに。
当時インタビューを受けた女性たちは、今、60代、70代を迎えている。アジア人女性が黒人男性に路上で殴り倒される自分たちの国を見て、どんな思いでいるのだろう? -
1980年代前半、アメリカ。著者はウィスコンシン州懲治局の臨床心理医ジュリエットをたずね、彼女が参加する「女性グループ」の会と、仕事で担当する「女たちの家」の受刑者たちの話を聞いた。80年代アメリカの黒人女性たちを取り囲むさまざまな困難を語りながら、それでも語ること、言葉にすることの喜びや力に満ちた〈はじまってもいないたたかい〉の記録。
「普遍性のなかにやすらぎを見出すよりも、他者の固有性と異質性のなかに、わたしたちを撃ち、刺しつらぬくものを見ること。そこから力をくみとることだ、わたしたち自身を名づけ、探しだすというのなら」。本書は黒人女性たちの連帯を語ると同時に、〈黒人女性〉をひとかたまりとする見方をときほぐし、ひとりひとりの言葉に真摯に耳を傾ける。じっさい、ネイティブ・アメリカンの血をひいていたり、親から「白人として生きろ」と言われるほど肌の白い〈黒人女性〉がいる。〈黒さ〉にもさまざまなグラデーションがあるのだ。
第一章では、まず大学を卒業した人たちからなる「女性グループ」がそれぞれの生い立ちを語りはじめる。ここで静かな衝撃だったのは、ジュリエットが語る母の兄と自分への差別教育の違いだ。女のジュリエットは白人に対抗し、進学することを推奨されたが、男である兄は目立たぬことが第一だと教えられていたという。それは母がアメリカのヒエラルキートップである〈白人男性〉から目障りな存在とみなされた〈黒人男性〉の苦難を知っていたからだろうとジュリエットは推察する。創作物にはインテリで優等生の黒人少女と不良の黒人少年の組み合わせがよくでてくるけど、その背景が少し掴めた気がした。
第二章ではジュリエットの職場である〈女たちの家〉へ赴き、そこにいる女性受刑者二人からの聞き書きを収める。〈女たちの家〉は受刑者の社会復帰のために町中に作られた施設で、刑期を務めながらそこから学校や仕事に通えるという試みがまず興味深かった。
麻薬の密輸をしていたブレンダと殺人で捕まったウィルマは、どちらも刑務所に入ってから"自分の言葉を獲得する"ために努力し、その重要性を強く訴える。"以前から今と同じような話し方をしていたか"と問われたブレンダの答えは深く胸を打つ。彼女たちが言語化に見いだす希望を藤本さんはこうまとめる。「なぜなら、『女たちの家』の住人はことばを探している女たちであったから。(略) 自らの生に意味をあたえ、生の輪郭を見せてくれる魔術はないか。混沌や茫洋にかたちをあたえることができるもののひとつがことばであるなら、それは魔術のようなものだ」。語りの力を鋭敏に感じとり、強く信じた人の文章だと思う。藤本さんが彼女たちの言葉を訳すやり方には、上記のような〈魔法〉にも等しいきらめきがあり、個人に対する敬意が溢れている。
エピローグは公民権運動に参加したことのある104歳のアニーへのインタビュー。アニーは政治活動そのものについては多くを語らないが、あからさまな差別が少しずつ減ってきたことについて「愛が勝利するのです。そうでなければおかしい。白人の隣人におはようと挨拶できなければ…」と語る。
斎藤真理子さんが素晴らしい解説で日本と在日コリアンの人びとの関係性に敷衍して考えることを提案されているように、差別との闘いにおける最終目標は、ある人種が別の人種に勝つことではなく、愛の勝利。手にしたいのは隣人に気兼ねなく挨拶できる喜び。〈たたかい〉はいつでもそのためにあるのだ。 自分自身の言葉をたずさえ、隣人を愛するために。 -
美しく率直な文章で、その場(話をしている場)にいるような臨場感もある。知性…。
時代も国も違うとはいえ、実際の生活の様子を聞くとやはり驚くな。