東京創元社は作家の短編を集めた短編集を出版しているが、これが独自に編纂されたものがほとんどだ。数十年後、早川書房が村上春樹氏による『長いお別れ』の新訳版『ロング・グッドバイ』を出版した際、時系列に全ての短編を網羅した短編集を出版した。それらについては後日感想を述べる。そこで既に語られた短編については短評にとどめたい。
収録作は「脅迫者は撃たない」、「赤い風」、「金魚」、「山には犯罪なし」の4編が収められている。後日読んだ感想でしかもはや語れないが、ベストは「金魚」、次点で「赤い風」となる。
正直、1作目の「脅迫者は撃たない」は十分に理解できていないほどの複雑さ、というよりもチャンドラー自身も流れに任せて書いているようで、プロット的には破綻しているように思われた。しかしそれ以外は、最後はきちんと収まり、読後なかなか練られたストーリーだと感心する。その流れるようなストーリー展開から非常に粗筋を纏めるのが難しい作者なのだと気付く。しかしそれでいて読みながら物語と設定が説明なしにするすると入ってくるのだから、やはりチャンドラー、巧い、巧すぎる。
「赤い風」の特色はマーロウ自身が自ら事件に乗り出す趣向を取っている。発端はバーでいきなり殺人事件に巻き込まれるが、それ以降は自ら渦中の女を助け、その女に手を貸すといった具合だ。マーロウの視点で語る本作も、プロットは複雑な様相で物語が流れる。物語の終盤、マーロウの口から語られる事件の顛末は実にシンプルな物であることが解り、チャンドラーのストーリーテリングの妙味がはっきりとわかる。
女のために金にもならない危険を冒すところに他の探偵とは一線を画す設定がある。最後、マーロウは真珠を取り戻すが、それが模造真珠だと判明する。そしてその模造真珠を出来のよいボヘミアンガラスのそれから、自腹を切って出来の悪い物に交換する。この真意はなんなのだろう?
マーロウが惚れてしまった彼女の、亡き元恋人の未練を断ち切るために見せた優しさだったのだろうか?
また終盤に俄然存在感を増すイタリア系刑事のイバーラが非常にカッコイイ。この作品の影の主役と云えるだろう。全然動じないその物腰と肝の据わった態度はマーロウをまだ駆け出しの探偵のようにあしらう。そうこの作品のマーロウはまだ若きフィリップなのだ。このイバーラ、確か他の作品では見なかったように記憶しているが、たった一編の短編で終えるには実に惜しいキャラクターである。
「金魚」はこれぞハードボイルドだといわんばかりの作品。大人しい題名に舐めてかかると、かなりショックを与えられるハードな好編だ。この作品については既に『レイディ・イン・ザ・レイク』の感想で存分に述べるのでこれだけにとどめたい。
「山には犯罪なし」はもう典型的なチャンドラー・ハードボイルド・ストーリー。今まで読んできた短編と展開は同じく、探偵は右往左往と迷走しつつ、事件の本質に辿り着く。違いといえば、偽札に関する事件がナチスの隠し資金の生産という規模の大きな犯罪に至るところか。とはいえ、最後の結末はなんなのだろうか?犯人がもう完全に逃げ切れる段になって自殺するなんてのは、ちょっと理解できない。ナチスという狂信的集団に属していたからこそ、選んだ尊厳ある自決ということだろうか?凡人の私には理解の出来ない結末だし、それゆえ、失望させられた。
一つ含蓄溢れた台詞があったので、ここに抜き出しておく。
「主人はあまりにも秘密を持ちすぎます。女性のまわりで秘密を持ちすぎるのは間違いです。」
これらの作品はマーロウの原型となった探偵たち。「赤い風」、「金魚」に出てくるマーロウは後年チャンドラーによって名前を書き換えられた探偵で元々マーロウではない。しかしあまりその造形は長編のマーロウと変わらないように感じた。
しかし短編でこれだけこねくり回したプロットを使うとは思わなかった。ただ中には果たして最初からこんな複雑な構想だったのかと疑問を感じるものがあるが。