怠ける権利 (平凡社ライブラリー)

  • 平凡社
3.53
  • (6)
  • (13)
  • (11)
  • (6)
  • (0)
本棚登録 : 285
感想 : 15
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (234ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784582766479

作品紹介・あらすじ

ブルジョワ革命の屁理屈屋が捏ねあげた人間の権利などより何千倍も高貴で神聖な怠ける権利を宣言しなければならぬ-フランスの社会主義者にしてマルクスの娘婿が発した「労働=神聖」思想に対する徹底的な批判の矢が、一二〇年以上の時を超え"今"を深々と突き刺す。「売られた貪欲」「資本教」も収録。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 19世紀フランスの社会主義者でありマルクスの娘婿でもあるポール・ラファルグ(1842-1911)による政治的パンフレット三篇。1848年のフランス二月革命にて掲げられた「労働権」を批判し、「反-労働」の思想を展開する。「怠ける権利」は1880年、1883年。「資本教」「売られた食欲」の執筆年は記載なし。

    □ なぜ労働は悪か

    「資本主義分明が支配する国々の労働者階級は、いまや一種奇妙な狂気にとりつかれている。・・・。その狂気とは、労働への愛、すなわち各人およびその子孫の活力を枯渇に追いこむ労働に対する命懸けの情熱である」

    「ところで一方、プロレタリアートときたら、文明諸国の全生産者を内に含む巨大な階級、すなわち、みずからを解放することにより、人類を奴隷的労働から解放し、人間動物を自由人に高めるべき階級、プロレタリアートは、自分の本能を偽り、自己の歴史的使命を顧みず、労働の教義で堕落させられるがままになっている。天罰はてきめんだった。ありとあらゆる個人的また社会的悲惨は労働にたいするこのような熱狂から生れたのである」

    「[プロレタリアートは、キリスト教的、経済的、自由思想的道徳から生じた偏見を克服し]自然の本能に復し、ブルジョワ革命の屁理屈屋が捏ねあげた、肺病やみの人間の権利などより何千倍も高貴で神聖な、怠ける権利を宣言しなければならぬ。一日三時間しか働かず、残りの昼夜は旨いものを食べ、怠けて暮らすように努めなければならない」

    「もしも労働者階級が、彼らを支配し、その本性を堕落させている悪癖を心の中から根絶し、資本主義開発の権利にほかならぬ人間の権利を要求するためではなく、悲惨になる権利にほかならぬ働く権利を要求するためではなく、すべての人間が一日三時間以上労働することを禁じる賃金鉄則を築くために、すさまじい力を揮って立ち上がるなら、大地は、老いたる大地は歓喜にふるえ、新しい世界が胎内で躍動するのを感じるだろう……」

    では、なぜラファルグは労働を悪としたのか。以下の三点にまとめてみる。

    ①【疎外としての労働】

    労働はそれ自体として労働者の精神と肉体に有害であるから。労働者はさまざまな形態の労働力を供給する一つの機能として断片化され、人間存在としての全体性を喪失するから。

    「彼ら[労働者]は他人のために働く器官そのものに徹して、はじめて生活手段が得られるのです。労働者というのは、鉄を鍛え、雌ねじを截り、ハンマーを打ち、鉋をかけ、鶴嘴をふるい、機を織る腕なのです。歌手は、音符で発声練習をやり、甘く囀り、余韻をつける咽頭であり、技師は計算し設計図をひく脳味噌であり、娼婦は成功の快楽を切り売りする性器です。わたしの事務所の見習い書生たちが、証文を写しながら知性を駆使して、思考しているとでもお考えか。絶対にそうではない。考えることが彼らの務めではない、彼らは粗書する手の指にすぎぬのです」

    現代では、19世紀的な肉体労働だけでなく、頭脳労働や感情労働など精神活動の全域が労働力として動員を求められている状況にあって、疎外の度合いはますます深甚になっていると云える。

    ②【搾取としての労働】

    労働をすればするほど労働者は自らを貧しくし、いっそう労働へと縛りつけられるから。労働者が労働力を投入して生み出した新たな価値のうち労働者が労賃として受け取るのは、そのごく一部(労働力を再生産するのに必要な最低限度)でのみであり、残りは剰余価値として資本家が詐取する。資本主義経済とは、マルクスが『賃労働と資本』『賃金・価格および利潤』などで明らかにしたように、一種の壮大なピンハネ体制である。

    労働を通して労働者階級はますます窮乏化し、搾取を通して資本家階級はますます剰余価値を蓄積していく。窮乏化した労働者階級は失業と飢えへの恐怖からますます不利な条件下での奴隷的賃労働に"自発的に"依存せざるを得なくなり、資本家階級は"合法的に"労働力を安く買い叩くことができる。ここには、労働者が一方的にそして永続的に不利益を被り続けることを強いられる、構造的な不公正がある。これが資本主義国家の「豊かさ」ということになる。現代日本の保守政権が推し進めている政策(労働法制の改定、消費増税=法人減税など)は、この点で純粋に資本主義の論理をなぞっていると云える。

    「貧しい国家とは、とりもなおさず国民が裕福な国家である。富んだ国家とは、国民が一般に貧しい国家である」

    「労働者みずから生産資本の蓄積に協力することによって、遅かれ早かれ、彼らの給料の一部を奪いとるはずの事態に、貢献しているのだ」

    「働け、働け、昼夜を問わず。働くことによって、おまえたちは貧乏を深める、そしておまえたちが貧乏すれば、われわれは法の力をふりかざしておまえたちに仕事を強制しなくてもよい。労働の法的強制は「あまりにも労多く、あまりにも暴力を必要とし、また、暴動を起こしやすい。これに反して、飢えは、平等な、靜かな、絶え間ない圧迫となるばかりでなく、労働と産業の極めて自然な動機として、このうえなく強力な努力を呼び起こす」」

    「労働は人を疲弊させ、あやめ、豊かにすることはない。自分の働きからではなく、他人を働かすことで、富は蓄積される」

    ③【イデオロギーとしての労働】

    疎外と搾取の労働を特定の集団にのみ強いる構造は、差別に基づく不正義であるから。さらに、そうした不正義を糊塗するために様々な虚偽=イデオロギーが動員されているから。

    「ブルジョワジーの大哲学者、オーギュスト・コントが高らかに言っているように、十九世紀は愛他主義の世紀です。事実、他のどんな時代でも、これほどまでに完璧に、他人を利用できたためしがない。資本家の人間搾取は高度に進み、人間のもつきわめて個人的で先天的な才能でさえ、他人のために利用されることが可能だ。資本家は自分の所有財産を守るために、自分の勇気を頼みにせず、兵隊の姿を借りたプロレタリアートの勇気をあてにします。銀行家は会計係の誠実を使い捨て、遊び人が辻君の性を弄ぶように、実業家は労働者の生命力を濫費します」

    「宗教は労働する者に、おとなしく従うこと、虚を負って実を捨てること、地上の悲惨に耐え忍び天上の悦楽に憧れること……を教えてきました」「特権階級にとどまり、働く者の犠牲のうえで生きつづけたいと願うなら、われわれは、大衆の馬鹿どもの空想力を、別世界の伝説やお伽噺で刺激してやらねばなりません。キリスト教は見事なまでにこの役割を果たしました」

    資本主義経済は、こうした構造的差別を必須の装置として組み込んでいる。その上で、それを資本家階級のみを利し労働者階級のみに窮乏を強いる差別であり不公正であるとは思わせないように様々なイデオロギー=虚偽意識を動員し、以て労働者階級を政治的に無力化しようと企てる。持ち出されるイデオロギーの例として「国民意識の捏造(「自分たちは何者か」という問いへの回答として、階級対立を超えた普遍的な国民概念を捏造することで、階級意識を無効化する)」「公共性の改竄(「自分たちの利益とは何か」という問いへの回答として、特定他者の私益を普遍的な公益と偽称することで、公共性を私物化する)」「普遍性の捏造(「自分たちの立ち位置は何処か」という問いへの回答として、政治的対立のない中立点を捏造することで、政治性を不可視化する)」などが挙げられる。いずれも、恣意性(歴史性)を隠蔽して普遍性(永遠性)を僭称することで政治性を無化し以てヨリ大きな政治性へと回収しようとするイデオロギーの典型的な詐術と云える。労働者は、媒体に流通する虚偽のレトリックを、さも自分の意思で為した思考であるかのように思い込まされてしまっている。そして、「何が労働者階級たる自分にとっての利益なのか」という根本的な政治的認識それ自体を、労働者は支配層によって予め奪われてしまっていると云える、支配層にとって都合よく改竄されてしまっていると云える。

    「資本家は言わねばならない。――社会とはわたしであり、道徳とはわたしの好みとわたしの煩悩であり、掟とは、わたしの利益である、と」

    □ なぜ科学技術が発展しても労働者は労働から解放されないか

    「機械が改良され、段々高度になる速度と精密さの点で、人間の仕事に機械が打ち勝つにつれて、労働者は閑暇を相応に伸ばすことをせず、まるで機械と張り合うように、刻苦勉励の度を加えていく。なんと馬鹿馬鹿しい、殺人的な競争であることか」

    「アリストテレスの見た夢は実現されている。火の息を吐き、鋼鉄の四肢をもち、疲れを知らず汲めどもつきぬすばらしい生産性をもつ機械が、従順に自分から進んで聖なる労働を遂行している。それなのに、資本主義のお偉い哲学者たちの頭は、最悪の奴隷身分である賃金制度の偏見にとらわれたままだ。機械というのは、人類の贖主であり、人間を卑しき業と賃金労働から買い戻し、人間に自由と暇を与える《神》であるということが、奴らにはまだわかっていない」

    昨今AIの登場を前にして、「労働者の職が奪われる」とその脅威を煽る声ばかりが喧しいが、どうしてそれは労働者に休暇を与える福音として見做されないのか。労働をより生産的・効率的に代行しているはずの科学技術の発達と普及が、労働者を労働の軛から解放する契機とならないのは何故なのか。そこにはなにか大きな欺瞞が隠されているような気がしてならない。本来は公共的なものであるはずの科学技術の諸成果が、生産手段として資本家階級に私物化され独占されてしまっているということか。それならば、資本家階級によって私物化されている公共性の概念を奪い返さねばならない。

    □ 芸術的前衛との共鳴

    ラファルグのパンフレットは、正統的な社会主義の理論家たちからは殆ど黙殺されてきたようだが、その代わりに詩人や芸術家らが注目してきた。ラファルグの「反-労働」の思想と芸術の前衛たちのアナキズム的感性とは互いに親和的であると云える。

    「集合的な意味での現代意識にしみついているいちばん愚かしい偏見は、おそらく労働に関するものである。・・・。労働者たちは、ほとんど宗教的なやり方で、労働の思想を栽培している」(ブルトン『シュルレアリスム革命』)

    「だが、労働を信じろだの、自分の労働や他人の労働を敬えだのと要求されるのはごめんである。・・・。働いているあいだは生きていたってしかたがない。だれしも自分自身の生活の意味の啓示を権利として期待できる出来事、・・・、それをめざす途上で自分を探している出来事、そういう出来事は、労働とひきかえに与えられるものではない」(ブルトン『ナジャ』)



    「おお、《怠惰》よ、われらの長き悲惨をあわれみたまえ! おお、《怠惰》よ、芸術と高貴な美徳の母、《怠惰》よ、人間の苦悩のいやしとなりたまえ!」

  • 労働を神聖視する連中が引きずりおろされるようになってきた今だからこそ読むべき本。
    タイトルが非常に気に入っている
    「怠ける権利」「資本教」「売られた食欲」の3篇。
    「資本教」はキリスト教の教義や問答をもじった皮肉で、「売られた食欲」は寓話かな?

  • 流し読み。
    題と装丁がいい。
    他のマルクス主義者たちが、怠ける権利をあまり提唱してこなかったのは興味深い。

  • 最高

  • 第9回(古典ビブリオバトル)

  •  偏頭痛が酷くて自室から動けず、暇潰しに書棚から久々に探り出して読破。
     表題作「怠ける権利」の他、宗教としてパロディ化した「資本教」、小説「売られた貪欲」を所収。無論、どれも資本主義に対する痛烈な批判であるが、134年前の風刺と現代がほぼ変わらぬ辺りが、いささか遣る瀬ない。
     著者のラファルグと言えば、『資本論』を記したカール・マルクスの娘婿であり、晩年は妻と共に70歳目前にして自死を選びし男。彼が「近い将来」「勝利の確信」を抱いた「共産主義と第二インターナショナル」は、果たして到来したのか否か…。

  • 過剰労働のために生産物が余る。労働者は怠けるべきだ。
    生産力を高めるには労働時間を短縮し祭日を増やすこと。

    アテナイで公民とは、防衛と行政管理を行う貴族のこと。そのために全時間の自由をもたねばならぬので、一切の労働を奴隷に担わせた。スパルタでは、女でも紡ぎも織りもしてはならなかった。ローマ人は国庫のまかないで暮らした。

    キケロ「金のために労働をくれてやるものはだれでも自分自身を売って奴隷の位置に身を落とす」

    古代は戦争が常態であった。自由人はそのための備えが必要。奴隷が生産をしなければ、自由人はその務めを果たせなかった。

    資本教という教義。資本は商品が売れる値段で評価を定める。職業の中で、性の商売以上に金になる肉体労働や知識労働はない。

    売られた食欲。他人を利用することが進んでも、懐妊能力と消化能力だけは、商品化できない。

  • // memo
    機械の生産性が上がったら、その分人間の余暇が増えたっていいわけだ。それは機械の成果をどのように人々に分けるか、という問題に尽きる。

    実はこれを言っていたのが、ある意味でマルクスなんかで、生産手段(つまり機械)を労働者がちゃんと握って生産しようぜ、というマルクス主義の教えはつまり機械の力で得られる価値が労働者にもまわるようにしようぜ、ってことでもある。それを明確に述べたのがポール・ラファルグ『怠ける権利』(平凡社ライブラリー)。

    ラファルグは実はマルクスの娘婿で、フランスに社会主義を広めるのに尽力した人だ。機械が女工百人分の仕事をするんなら、女工はそれだけ休暇がもらえればいいはずだ。人は一日三時間以上働かなくてもいいはずだ、という本。

  • 「怠ける権利」は皆が信じる「資本教」の世界でこそ威力を発揮するものであって、皆が怠けだしたら権利の行使ができなくなるので意味がない。だから資本家になるか奴隷になるかフリーライダーになるかを各々が選択し、あとは感情のコントロールをするしかないのかと。奴隷を選択してくれる人が多い社会が最も安定的ではある。奴隷が騙され続けて、爆発しない限りにおいてはだけど。
    よって世界平和や人類幸福などのユートピアを考えて社会運動して奴隷の爆発を引き起こすよりも、資本家への敵意や嫉妬を持たずに「資本教」の世界に折り合いをつけて、フリーライダーとして如何に生きていくかを考えるほうが懸命に思えるのだが。が、「資本教」の世界がその強欲により自壊した時が厄介かな。その兆候も無きにしも非ずだけど。
    「売られた食欲」はよくできた話で、ブラックユーモアがきいてとても面白かった。

  • プロレタリアート諸君。金のために働くのは奴隷になるということだ。労働は一日3時間で十分。怠ける権利を主張しよう。

    「働かざるもの食うべからず」というフレーズは現代でも当たり前のこととして受け入れられている。著者のラファルグは、その常識を真っ向から否定する。労働は最悪の奴隷的束縛だと。

    最初は、何を言い出すのか、と思った。

    働き口が無くて生活に困っている人からすれば、腹が立つことですらあるだろう。しかし、色々考えてみると、確かに今の社会がおかしいのかも知れないと思うところもある。テクノロジーは着実に発展しているはずなのに、どうして人間は未だにあくせく働いているのだろうか。ましてや、働き過ぎで死んでしまう人が出てくるとは、どういうことだろう。少なくとも僕が夢描いていた21世紀は、こんなものでは無かった。

    労働を素晴らしいものとする価値観の裏で、過剰な労働が人を疲弊させ、時には死に追いやっている現実がある。擦り減っていく労働者の陰で、資本家は富を増大させていく。これは、構造として見た場合、違うとは言えないだろう。

    仕事が趣味という人もいる。確かに仕事にはおもしろい面があることも間違いない。一方で、生きていくために、仕方なく過酷な(残酷な)労働条件を受け入れてしまう人々もいることを忘れるわけにはいかない。ひたすら労働を美徳とし奨励することは、場合によっては悪魔の所業となり得るのだ。

    『怠ける権利』の初版原文が発表されたのは1880年ごろのことだ。この100年以上も前の文章が、今なお過激であり続けることは、反省に値することではないだろうか。いかに実現が難しかろうと、働かなければ生きられない世界より、働かなくても生きられる世界の方が、より望ましいだろう。だとしたら、とっくの昔にそれが理想に掲げられ、労働は人類が克服すべき忌まわしいものである、と考えられていても良かったはずだ。

    みんなが怠惰を第一として行動しだしたら、それはそれで困る事も出てくるだろう。しかし、度を越した勤勉さが、時として死者を生むことに問題があることも確かだ。僕たちは労働や資本とうまく付き合ってきたと言えるのか、今一度反省してみる必要があるのではないだろうか。

全15件中 1 - 10件を表示

ポール・ラファルグの作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×