大本襲撃―出口すみとその時代

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  • 毎日新聞社
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  • Amazon.co.jp ・本 (396ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784620318141

作品紹介・あらすじ

1000人検挙!二代教主すみと王仁三郎に国家が襲いかかる昭和史の闇を徹底検証。拷問死、自殺も相次いだ未曾有の弾圧は何故起きたのか!?昭和10年12月8日、国家の威信をかけ、特高警察は遂に大本に踏み込んだ。第二次大本事件のはじまりである。二代教主すみはこの後、6年を超す獄中生活を余儀なくされる。夫で教祖の出口王仁三郎にくらべ、一般に知られることの少なかったすみの生涯を追いながら、事件の核心に迫る大宅賞作家渾身の一作。

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  • 京都の西の果て老いの坂を越えて行くと亀岡、さらに由良川を下って綾部という町がある。この二つの町を本拠とするのが「大本教」だ。この「大本教」は戦前、二度の大弾圧を受けた。この本は、その第二次の弾圧事件と二代目の教主、出口すみを主に描いている。
    私にとっての「大本教」は、高橋和巳の「邪宗門」の「ひのもと救霊会」と重ねて感じている部分がある。今ではなかなか手に入らなくなっているが、初めは1960年代の朝日ジャーナルに連載された。毎号が待ち遠しかった記憶がある。京都に勤務したことも、大本をどこか身近なものに感じさせた。さらに、この著者と一時期、一緒に仕事をしたことも、この本を手にとらせた。
    開祖、出口なお(でぐち なお=1837年1月22日(天保7年12月16日) - 1918(大正)7年11月6日)と、なおを支えた出口 王仁三郎(でぐち おにさぶろう=1871年8月27日(明治4年7月12日) - 1948年1月19日)については、かなり紹介もされ、書かれているがなおの三男五女の末娘であり、 王仁三郎の妻となる二代目のすみ(1883(明治16)年2月3日 -1952(昭和27)年3月31日) については、まとまったものがなかったことから、綾部出身の筆者の先輩に、その伝記を書かないかと勧められるたのが、この本執筆のきっかけであったという。
    第一章は「国家の影」と、昭和9年の内務省の動きから始まる。愛知県警察部特高課長の杭迫軍二という人物が京都の特高課長に異動を発令される。そこに第二次大本弾圧の始点があった。松本清張が「粗い網版」という短編小説に、このあたりの事実関係を書いていることへの不思議さを書いているが、それについては解明されていない。筆者がこのあたりの下敷きにしたのは、杭迫が昭和46年に刊行したとして主要参考文献に挙げている『白日の下に』なのだろうか。
    先を急ごう。そもそも開祖のなおの話から。明治25年のはじめ、綾部の町はずれで半農半行商を世すぎとして一家の生計を支えてきた57歳の老婆・出口なおは、名人肌で腕は良いが無欲、酒飲みの宮大工の夫とのくらしの中、借金を抱えながらも身を粉にして生活していたが、夫の死後、帰神・開教する。帰神とは、神がかりである。「われは艮(うしとら)の金神(こんじん)であるぞよ。元の国常立之命(くにとこたちのみこと)、今より汝の身体を守るぞよ」。霊夢であり、艮の金神が地上に再現した日を迎える。そのなおと寝起きを伴にしていたのが、すみであった。すみの著書『おさながたり』などから、そのあたりの情景がいきいきと描かれている。
    「艮の金神」は、地元の俗信、それに天理教、金光教の教説をおりまぜて、独自の経文を口にし、病者に対しての手当てが、次第に人々の口によって広まっていく。なおは文字を知らなかった。しかし、神が「おまえが書くのではない。神が書かすのであるから、疑わずに筆を持て」と命じるので、近くにあった一本の古釘を手にとってみると、ひとりでに手が動き、文字を書きはじめた。紙に筆をおろすと、ひらがなで、スラスラと文字が書けだした。これが「お筆先」のはじまり、という。これはすべてひらがなで書かれ、大正7年に死ぬまで26年間にわたって、膨大な「お筆先」が書かれていて、意味が判明しやすいように漢字をあて、まとめたといわれるのが出口王仁三郎である。 王仁三郎の『大本神論』などで発表された「お筆先」で一貫しているのは、世の立替え、立直しの予言警告が率直に語られていたところから反響は大きかったという。
    大正に入るころから、海軍機関学校教官で英文学者の浅野和三郎や兄の海軍中将浅野正恭らの陸海軍の幹部クラスや、岡田茂吉(後の世界救世教の主宰者)、谷口雅春(後の「生長の家」の主宰者)などが相次いで大本に入った。これらのインテリが 王仁三郎と意気投合することで、大本の教団も変化し始める。日露戦争で海軍参謀として有名な秋山真之も綾部を訪れたりしている。これらの軍人たちの入信が当局に警戒心を強めた。小山内薫や尾上菊五郎、中村吉右衛門なども大正9年ころ、大本に入信した。
    そして、第一次の弾圧が大正10年2月12日、不敬罪と新聞紙法違反で 王仁三郎と浅野和三郎が逮捕される。裁判が進行している中で大正天皇の崩御による大赦令で免訴となる。
    第二次弾圧は昭和10年(1935年)12月8日から行われた。「大本は、いわゆる宗教ではない。大本は神意を実行する団体である。単に教をしていて、人にいわゆる信仰心を起こさせるだけのところでなくして、神示(教典)をその機に応じて実地に活用する団体である」。これが杭迫らが達した治安維持法違反容疑の判断であった。この当時の治安維持法では国体の変革を目的とする結社をつくれば2年以上の懲役・禁固に処せられる。
    綾部の大本総本部は300人の警官で包囲し、松江の大本別院にいた王仁三郎をはじめ、すみも逮捕された。大本教の幹部44人が検挙され、信徒1500人が取り調べを受け、うち300人が身柄を拘束され、昭和11年(1936年)の暮れまでに987人が検挙され、318人が送検された。その1年間に及ぶ取調べの中で、取り調べは京都府警特高課があたったが、竹刀(しない)、焼けヒバシ、水責めなど、あらゆる拷問の道具と手段が使われ、なおの娘直日の夫である日出麿が精神に異常をきたすなど、自殺1人、拷問のあげく衰弱死2人、自殺未遂2人を出した。筆者は、2年前に東京の築地署で小林多喜二が受けたのと同じ拷問だった、と多喜二の責め苦を援用している。
    そんな中、綾部地方では、ゴキブリのことをボッカブリと呼ぶが、独房に入れられていた教祖すみが、夫婦者のゴキブリを見つけて詠んだ歌。「三年ぶり 慣れなじめたるボッカブリ、妻は無事なか、子らはふえたか」。つらい獄中とも思えぬ平常心を思わせるなおの素顔をしのばせるものとして、特筆されている。
    昭和12年、裁判が始まり、大本は清瀬一郎ほか、18人の弁護団を結成した。1審では、「出口 王仁三郎に国体を変革する目的ありや否や」と「結社は何時何処で、いかなる方法で組織されたか」が審理の中心となった。 王仁三郎は1審の裁判長は、宗教について理解がない、とばかにしたような問答もしている。この当時から、自白調書の任意性が問われ、取調べ官の証拠調べで拷問が問われている。裁判の内容としては控訴審の方が、理論としての反論がみられたという。結局、大審院公判を経て、昭和20年の敗戦を越して、9月8日に「上告棄却し原審確定」の判決が出る。つまり治安維持法違反に対する上告(原審無罪で検事上告)、不敬に対する 王仁三郎以下6名の上告、不敬、出版および新聞紙法違反に対する桜井重雄の上告、不敬および新聞紙法違反に対する浜中の上告(原審有罪で被告人上告)はいずれも之を棄却とす、というものだった。そして 王仁三郎は大本弁護団による国家賠償補償提起を拒否している。

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