時代からの逃走: ダダ創立者の日記

  • みすず書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (294ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622015666

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  • ダダは突然あらわれて次の活動に引き継がれていった

  • チューリヒ・ダダの中心人物の一人でありキャバレー・ヴォルテールの主催者でもあるバルの、ダダ運動に携わる直前から離脱するまでの間に綴られた日記、或いはアフォリズム集か。とはいえダダ運動と直接的に関わっていた時期の記述は、「言葉と像」第1,5節及び付録の作品のみ。

    バルの言語観が最もよく現れているのは、かの音響詩を"言語の断念"と表明した第一回ダダ・ソワレでの講演だろう。

    "・・・きみたち[詩人]はいつも言葉で詩作しながら、かつて言葉そのものを詩作したことがないのです。"

    "わたしは、他人が考え出した言葉を用いたくありません。言葉はみんな他人が考え出したものです。わたしは、言葉の不法行為をやりたいのです。"

    "こののろわしい言語には、貨幣をたえずなぶってきた仲買人の手で汚されたように、汚れがこびりついています。わたしは、言葉が言葉であることをやめ、そして言葉が言葉でありはじめる、そういう場所で言葉をもちたいのです。"

    僕も、媒体上に流通する頽落した言葉に対する徹底的な否定感情を、共有する。媒体上に浮遊する言葉の何と虚ろで嘘臭いことか。事物を陳腐化し存在の全体性を断片化する言葉、語られる側を対象化し語る側を超越化することで上下の懸隔を仮構する支配の為の言葉。100年前から何も変わっていなかったのだ。

    バルはそこから、媒体によって毒される前の透明な言葉を求めて、音響詩を作ることになる。無垢なる言葉への志向性も、理解はできる。

    しかし言葉=ロゴスは、その本質たる抽象化・普遍化・概念化・対象化の作用により、不特定多数へ向けて語られるものとして i.e. 媒体に載せられるものとして i.e. 媒介として存在する以上、直接的な透明無垢の言葉など、原理的に不可能なのではないか。言葉は、口から発せられた瞬間に、不可避的にその透明性が失われてしまうものなのではないか。「天国語」は常に断念することが宿命づけられているのではないか。少なくとも、この音響詩が透明無垢な「天国語」だとは、到底思えない。

    この断念を自覚した上で、その上でなお、人が他者と通じ合う為には不透明なる言葉=ロゴスを介するしかない、という事実に向かわねばならないのだ。嗚呼、言葉の頽廃堕落を如何せん。これが問題なのだ。矛盾した、不可能な、問題。ここにもロゴスに於ける超越の内在化という、自己関係的機制がその根底に見え隠れする。

    言葉の真実性とは、畢竟、その発話に発話者の実存が賭けられているのか否かに懸かっているのではないか。

    "言葉、言葉こそ、いままさに現場の苦しみなのです、皆さん、言葉こそ第一級の公の問題です。"

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