- Amazon.co.jp ・本 (416ページ)
- / ISBN・EAN: 9784622076537
作品紹介・あらすじ
言語をつくるのはほんとうに本能か?数がない、「右と左」の概念も、色名もない、神もいない-あらゆる西欧的な普遍幻想を揺さぶる、ピダハンの認知世界。
感想・レビュー・書評
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【感想】
「言語が人の認知に影響を与える」という学説は、今や広く知られている。
では、「右」と「左」の概念が無い人々は、いったい世界をどのように見ているのか?
本書は、言語学者であり宣教師でもある筆者が、アマゾンに住む民族「ピダハン」と生活し、彼らの特異な文法から生活様式と価値観を紐解いていった一冊である。
ピダハンは非常に原始的であり、実際に見たものしか信じない。それは「論より証拠」の範疇を超えており、文法と思考そのものが「実際に見た」ことしか語れなくなっているのだ。そのため、ピダハン語に未来完了形はなく、「左右」「数字」「色」といった、原風景を抽象化する概念も存在しない。
人間の歴史は空想と物語によって発展してきた。神、王、国、人権、生存権、貨幣と信用などのように、物質的には存在しない概念に言葉と定義をつけることによって、個人が集団に、集団が国に、国が世界に統合することが可能になった。こうした名づけがなければ、人間が自分の手の届く範囲以上に発展することは不可能だったであろう。
ピダハンは、そうした人類の進歩の初期段階に位置する手つかずの人間達である。
では、彼らはわれわれに比べて劣った民族なのだろうか?
筆者はこれにNOと答える。「文法が有限だからといって、その言語が乏しいとかつまらないものであるとは言えないのだ。」
私たちは自然と、原始的民族は私たちより劣った人間であるとみなす。その思いは物質的豊かさの違いから来るものだけではなく、知識の多寡と文化的な重層感から来るものでもある。早い話が、「われわれは複雑な社会だからエライのだ」という感覚を持っているからである。
しかし、社会の複雑さを捨て去って、抽象的概念、つまり「未来についての心配」を思考そのものから取り払っている彼らは、周りまわって幸福な人々ではないだろうか。これ以上進歩しない代わりに、これ以上未来を知ろうとする必要もない。身の周りのことのみを考えて、一瞬一瞬を懸命に暮らすというのは、盲目ではなく一種の諦観だと言えるだろう。
言語とはなにか、文化は言語に規定されうるか。
ピダハンの価値観の珍しさに触れながら、筆者のフィールドワークの結晶を楽しんでいただきたい。
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【本書のまとめ】
1 ピダハン語の特異性とピダハン語話者による認知
ピダハン語:ブラジル・アマゾンの少数民族ピダハンの人々岳が使用している言語で、現在4,500人しか使用者がなく、消滅の危機にさらされている。
ピダハン語は現存するどの言語とも類縁関係がない。
ピダハン語には、言語学で言う「交感的言語使用」が見られない。交感的言語使用とは、こんにちは、さようなら、ご機嫌いかが、といった、新しい情報を提供するものではなく、人間関係の維持や対話の相手を和ませるものだ。ピダハン語にはありがとう、ごめんなさいに相当する言葉はなく、気持ちを態度で表現する。
同様にピダハン語には、多くの言語に見られる要素が欠けている。比較級、色、数字を表す言葉もないのだ。それでいて文章のつなげ方が恐ろしく難しい。
極めつけは方角である。ピダハンには右や左という概念がなく、方向を「上流」と「下流」で表す。ピダハンは常に自分と川との位置関係を把握しているのだ。
環境をどう感知するかということさえも、自分の先入観や文化、そして経験によって、異文化間で単純に比較できないほど違ってくる場合がありうるのだ。
ピダハンの言語は、世界についてわたしたちとは異なる視点を使い手に要求している。では、我々とは違った世界の見方をしている「ピダハン」の文化とはどういうものなのか?
2 民族的ふるまい
ピダハンは俗にいう「部族」らしい部族ではない。儀式やボディペインティングをせず、アマゾンの他の部族のように、目に見える形で文化を誇示しない。
ピダハンの生活は物質とは無縁だ。家は天候から身を守るための簡素な小屋である。彼らは道具類をほとんど作らず、芸術品はほぼ皆無。あるとすれば弓などの狩猟道具だ。
ピダハンは、われわれほど「食べ物」を重要視していない。
まず彼らは3食も食べない。たいていは日に一食であり、食べられるものがあるときは無くなるまで食べつくす。それは食べ物が無いわけではなく、食べるという行為の優先順位が低いから、食べ物を口にしていないのだ。
ピダハンは食品を保存する方法を知らない。それどころか、道具を軽視し、使い捨ての籠しか作らない。
将来を気に病んだりしないことがピダハンの文化的な価値なのだ。
加えて、彼らは儀式も行わない。何らかの価値を一定の記号に置き換えるのを嫌い、その代わりに価値や情報を、実際に経験した人物が行動や言葉といった「生の形」で伝えようとするのがピダハンなのだ。
3 家族と集団
ピダハンは穏やかで平和的な人々だ。ピダハンはどんなことにも笑い、いつも幸福な顔をしている。
ピダハンは他の社会にはないほど家族関係が親密であり、集団意識がとても強い。一方、隣人と気軽に性交渉をしてもそれを善悪の基準として見ておらず、血縁を基準とした社会的基盤は薄い。浮気も普通にする。浮気したふたりは村を離れ、そのあいだ元の配偶者は彼らを探す。村を出たふたりは戻ってきて一緒に暮らしはじめる場合もあれば、元の鞘に収まろうとする場合もある。
ピダハンは平穏を大切にしているが、仲間内の規範を破らないというわけではない。ただピダハンは、互いに助け合い、ときに他者の野蛮なふるまいにも忍耐強く愛情たっぷりに理解しようとするだけだ。
ピダハンは、子どもを大人と対等に扱い、庇護する対象とは見ていない。乳離れすれば大人と同様に小食を強いられ、自分の力で狩りをすることを求められる。
その背後には、「適者生存」のダーウィニズムがあるのだ。
4 自然と直接体験
ピギー:ピダハンが考えている地球の階層のこと。ピダハンは、この宇宙と地球がサンドイッチのように複数の階層になっていると信じている。
ピダハンには数字の概念が無い。また、色の概念もない。
それは、ピダハンは「語られるほとんどのことを、実際に目撃されたか、直接の目撃者から聞いたことに限定する」という価値観の中生きているからだ。
ピダハンの言語と文化は、「直接的な体験ではないことを話してはならない」という文化の制約を受けている。ピダハンたちは、自分たちが話している時間の範疇に収まりきることについてのみ言及し、時間の埒外には言及しないのだ。
これがピダハンを取り巻く「直接体験の法則」である。だから彼らには歴史や創世神話も無く、血縁関係も単純(自分が直接触れ合える範囲より外に広がらない)であり、数字という抽象的な記号の概念もないのだ。
それでいて、ピダハンはよく「精霊と会った」と言う。彼らの言う精霊とは現代人の論じるスピリチュアルな存在ではなく、実際に「いる」ものとして、接触し、話し、自らに降霊させるものである。
彼らは体験したものしか語らない。そのため、夢は彼らにとって「現実の体験」のように語られるのだ。
5 ピダハン語の言語構造
ピダハン語に音素が少ない(母音3種類、子音8種類)のは、口笛語り、ハミング語り、音楽語り、普通の語りなど、ディスコースのチャンネル(伝達の回路)がたくさんあり、子音も母音もさほど重要ではないからだ。
言語とは、構成部分(単語、音声、文)の総和ではない。純然たる言語だけでは――その言語を成り立たせている文化の知識なしでは――十分なコミュニケーションや理解には不足なのだ。
ピダハンは外国の思想や哲学、技術などを取り入れようとはしない。自分たちの文化に位置づけられていないもの、例えば他の宗教の神々や西洋的なバイキンといったものを話題にするということは、彼らに生き方やものの考え方の変革を迫る。ピダハンはそれを拒んできたため、話法が外部からわかりにくくなっているのだ。
わたしたちは往々にして、自分たちが価値を認める事柄や、その事柄について言葉にするやり方はあくまでも「自然発生的」なものだと思いがちだが、そうではない。むしろ、ある特定の文化、特定の社会にたまたま生まれついたことによる、いわば偶発的なモノなのだ。
ピダハン語には関係節がない。
例えば、「ダンが買ってきた針を持ってきてくれ」と話したいとする。通常の言語では「ダンが買ってきた針」と「針を持ってきてくれ」の2つの文を並列にしたり入れ子にしたりして、一つの文として結合させる。
しかし、ピダハン語では「針を持ってきてくれ。ダンがその針を買った。同じ針だ」と言う。形の上では関係節とは言えないが、短文を並べることで関係節の表現を作っているのだ。
ひとつの文や句が別の文のなかに入ってくる入れ子構造のことを「リカージョン」と呼ぶ。リカージョンは言語の豊かさのカギであり、リカージョンによって際限なく続く無数の文を作ることができる。かつてはリカージョンが人間の言語に不可欠の本質的機能だと考えられていた。
しかし、ピダハン語にはリカージョンがないのだ。つまり、リカージョンは頭脳が利用できる道具の一つであるが、必ずしも使われるとは限らないということが分かったのだ。
それはなぜなら、ピダハンの文化がIEP(直接体験)にもとづいているからだ。
「ダンが買ってきた針を持ってきてくれ」は2つに分解できる。「針を持ってきてくれ」と「ダンが買ってきた針」だ。そのうち、前者は断定であるが、後者に断定はない。ダンが本当にその針を購入したことを前提にできない以上、入れ子構造で文を作れない。だから、「針を持ってきてくれ。ダンがその針を買った。同じ針だ」と断定文を続けるしかなくなる。ピダハンの文法はIEPによって制限を受けているのだ。
リカージョンがないとは、文法上生成しうる文の数には上限があるということだ。
だからといって、言語そのものが有限なわけでは無い。なぜなら、ピダハンが紡ぐ「物語」にはリカージョンが見られる――伏線や登場人物やさまざまな出来事が折り重なり、入り組み、絡み合ってできているからだ。文法が有限だからといって、その言語が乏しいとかつまらないものであるとは言えないのだ。
言語や情報伝達の本質を理解するうえでは、文法だけが頼りではない。言語とはもっと広い人間の認知の所産であり、人間固有の特殊な文法などではない。
わたしたちは誰しも、自分たちの育った文化が教えたやり方で世界を見る。けれどももし、文化に引きずられてわたしたちの視野が制限されるとするなら、その視野が役に立たない環境においては、文化が世界の見方をゆがめ、わたしたちを不利な状況に追いやることになる。
ピダハンに出会った筆者は、長い間当然と思い、依拠してきた真実に疑問を持つようになった。ピダハンとともに生活していくうちに、自分が信仰と真実という幻想の中に生きていることに気づいたのだ。
ピダハンは宣教師のように深遠なる真実を望まない。そのような考え方は彼らの価値観に入る余地がないのだ。ピダハンにとって真実とは、魚をとること、カヌーを漕ぐこと、兄弟を愛することであり、そういう不安のない文化こそ、洗練の極みにあると言えるのではないだろうか。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ボスのお薦めにて読了。ビジネス書ではなく言語学ノンフィクション。なかなかこの本をお薦めしてくれる人はいないなぁ。。貴重な読書経験でした。
本著、アマゾンの奥地に暮らすビダハンという少数民族の言語研究を30年以上してきた著者によるエピソードから、ピダハンの文化論、言語学からの考察等々、少し学術的なくだりもありますが、概ね読みやすく、楽しく読めました。
読了して強く感じたのは「言語を解明していく大変さと面白さ」「『幸せ』の定義の難しさ」の2点です。
前者「言語を解明していく大変さと面白さ」について、全世界で400人ほどの話者しかいない、現存するどんな言語にも似ていないピダハン語を、現地で暮らしながら手探りで少しずつ解明していくことの面白さ。これを著者自身の視点から臨場感を持って味わうコトができるのは本著の素晴らしいポイントだと思います。
ピダハンたちは「経験の直接性を重んじる原則」として、自分たちが実際に見るものしか信じない。このため口承伝承の入る余地がなく、つまり、元々キリスト教をピダハンたちに布教しに来た著者は「お前が実際に見た人や物事の話じゃないんだろ?」と聖書の内容を相手にしない。この布教はしんどいなぁ。。
また、ピダハンの言葉、左右もなければ色も無い。数の概念もちょっと違う。ただ、それには暮らしに根差した必然性があって、例えば左右ではなく上流の方/下流の方といった指し示し方をする。ある意味合理的です。
後者「『幸せ』の定義の難しさ」について、ピダハンたちはジャングルの中に裸足&上半身裸で暮らしていて、平均寿命も短く、危険に囲まれていて、文明的な快適さとは程遠い環境な訳です。
ただ、それでも彼らは幸せそうに笑っていて、「心配する」意味の言葉すらなく、MITの認知科学の研究チームも「これまで出会った中で最も幸せそうな人々だ」と太鼓判を押す。
著者はキリスト教の布教で現地に行ったのに、最後にはピダハンたちの生き方の方に惹かれて、無神論者になってしまう。
うーん…ここまで来ると「人間はどう生きるべきなのか?」という問いすら浮かんできます。
幸せに自然の中で生きて死んでいく姿と、不満の中で都会に住んで長生きする姿。もちろん、短く生きるのが良いコトだとは言わないものの、地球に生きる存在として、どちらが本当にサステイナブルなんだろう?と思ってしまいます。
(かと言って、明日から森の中で自給自足しろ!と言われても能力的にも心情的にも無理ですが…)
上記以外にも、言語と文化との関係に関する考察などもあって、ここは個人的にはちゃんと感想を述べられるレベルではないですが、考えさせられました。
あと、本著のような著作を邦訳するにあたっての訳者さんのご苦労と言ったら並大抵ではないだろうと思いました。(訳者あとがきでも少し触れられていましたが)
これだけ読みやすかったのは翻訳のおかげも大きいと思います。
毛色の違う本を読んでみたい、という際には良い1冊だと思います。良著でした。 -
ピダハンという少数民族のみが用いる言語の研究者の話.ピダハン語には直接体験の原理が有り,ピダハンが実際に見たものしか言語化することはなく,夢や精霊についてもその例外ではなく,彼らの世界は文字通りに見た世界でできている.このような言語に触れることによって著者は自らの信仰の欠点に気づいて,進行を捨てることに鳴る.また,言語学における一大理論であるチョムスキー理論ではこの言語を説明することができていない.科学ではしばしば理論から外れる例外的な存在をそもそも存在しないものとみなしてしまうという事があると感じた.全体的には難しい言語学の比率は少なく,ピダハンの部落に滞在したときの冒険譚や,ノンフィクションとしてサクサク読めた.
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現代社会とはまた違う興味深い価値観や文化が描かれているのだけれど、筆者の書き方が非常にユーモラスで読みやすい。
好きな時に好きな分寝て、好きな時に食べ、好きな時に働くのいいな。
夢と現実に体験したことは同列というのもおもしろい。寝るのがより楽しくなりそう。 -
読み物としては大変面白いです。言語学者としてフィールドワークに行って知られざる言語を採集してくるのって憧れます。
ピダハンの暮らしも、死と隣り合わせなのにいつも笑顔。すごいなぁ。
旅行者として短い間旅したことがあるだけだけど、アマゾンは本当に美しいところなので(虫にさえ襲われなければ…)機会があればこんな風に長く滞在してみたい。
その旅の間だけでもアメリカ人がブラジルで困り果てている姿を何度も目にしました。著者も同じ経験をしていますね。アメリカ人とブラジルは相性が悪いのでしょうか(笑)
それはさておき、
本書ではピダハン語の特殊性をことさらに強調して、従来の言語理論(主にチョムスキーの普遍文法)に反論しているわけですが、
日本語話者として読むとそんなに特殊か??と思ってしまうわけです。
ピダハン語の、単語の意味をイントネーションで区別する、なんてのは日本語では普通にやってますし、埋め込み文が存在しない、という特徴も、チョムスキーの理論でいうところのパラメータにゼロつまり「埋め込まない」ってのも含めちゃえばよくない?
(すみません、チョムスキー難しすぎて分かってないんでめっちゃ素人意見なのですが…でもあの論理式みたいなのは好き)
いろんな言語があるんだからそんなのもあるだろう。くらいにしか思わなかったので、やっぱりアメリカ向けなのかな。。
文化が言語/文法に影響を与えるなんてのも、そりゃ多少はありますよね。数量的に測りにくいので言語「理論」にはしにくそうですが。
というわけで、後半の言語学関係の部分に腑に落ちない点があるものの、全体としてはとても楽しく読んだので☆4つです。 -
早いもので、もう4月。新しい年度を迎えて、新社会人、新入生など、新しい生活へと身を転じることになる方も多いのではないだろうか。
新しい環境に入ると、えてして慣れるまでに時間を要するものであるが、この要因の一つに文脈の把握に時間が掛かるということが挙げられる。話している言葉そのものは理解できても、本当の意味で理解できるようになるためには、その組織体の文化を含めた背景がきちんと理解されている必要があるのだ。ほんの些細なことでさえも、異文化間で解釈が大きく異なるということは起こりうるものである。
そんな中、本書の著者の異文化体験のユニークさは、群を抜いている。ブラジルの先住民、ピダハンの人々と30年以上に渡ってともに暮らし、彼らがどのように世界を見て、どのように理解しているのかを観察し続けたのだ。当初の目的はキリスト教の伝道師として、布教活動を行うこと。しかし、そこでの生活は著者の運命を大きく変えるようなものであった。
南アメリカ北部、アマゾン川を河口から南南西へ向かうとアマゾン川はやがてマデイラ川と名前を変え、南へと支流が分かれている。その支流のさらに支流となっているのがピダハンの母なる川、マイシだ。支流とはいえ川幅が200メートルにもなる大河であり、その川辺の約80kmくらいのエリアに棲む400〜500人の部族、それがピダハンだ。
ピダハンは羽毛飾りをつけないし、手の込んだ儀式もしない。ボディ・ペインティングもせず、アマゾンのほかの部族のようにはっきりと目に見える形で文化を誇示しない。いわゆるヤノマミのようなフォトジェニックさに欠けるのだ。しかし、その最大の特徴は、彼らが使用する言語そのものにある。
ピダハン語は、現存するどの言語とも類縁関係がないという。音素は現存する言語のなかで最も少ない11種類しかなく、その他にも多くの言語に見られる要素が欠落しているのだ。
まず数がない。そして物を数えたり、計算をしたりということもしない。また、「すべての」とか「それぞれの」「あらゆる」などの数量詞も存在しない。それだけでなく、左右の概念もない、色を表す単語もない、神もいないという、ないない尽くしなのである。
しかし本当に驚くポイントが、さらに2点ある。一つ目は、きわめて音素が少ないピダハン語だが、声調やアクセント、音節の重みなどを駆使し、口笛や鼻歌、叫び声や歌のようにさえ聞こえる言葉を発生するということだ。
これを著者は、「ディスコースのチャンネル(伝達の回路)」と呼んでいる。ピダハン語には5つのチャンネルがあって、それぞれが特別な文化的役割をもっているのだ。5つとは、口笛語り、ハミング語り、音楽語り、叫び語り、それに通常の語り、つまり子音と母音を用いた語りだ。
口笛語りは狩りの時に使われ、ハミング語りはプライベートな語りの時、音楽語りは新しい情報を伝達する時など、文化的な用途に応じて語りが選択されるのだ。このような手段が存在するということは、文化が言語に多大な影響を与えているということの確固たる証拠とも言える。そして、この文化と音声構造の関係というのは、長らく言語学によって完全に無視されてきた領域であったのだという。
もう1つが、多くの言語学者が普遍的な文法の1つと考えていた「再帰」という形式を持たないということである。例えば、「魚を釣った男が家にいる」というような文を例に見てみよう。
「魚を釣った人物」という関係節が「これこれの男」という名詞句のなかにあり、それがさらに「男が家にいる」という文のなかに登場している。このような文や句が、別の文や句のなかに現れる入れ子構造は「再帰」と呼ばれ、言語に無限の創造性を与える基本的な道具であると考えられてきた。これがピダハン語には見られないのだ。よってピダハンの文章は、単純な構造の文章のみで構成される。
このことが真に重要なのは、大部分の人の思考のプロセスで当たり前のように行われている「再帰」が、ノーム・チョムスキーが提唱した「普遍文法」、あるいはスティーブン・ピンカーの提唱した「言語本能」であるという定説に真っ向から反する事実であったということだ。文法というものが、遺伝子の一部という先天的なもの依拠しているのではなく、知性の働きの一部という後天的なものに依拠している可能性すら示唆しているのだ。
一体なぜ、ピダハンの言語はかくも特徴的なものとなったのか?著者の更なるフィールドワークにより、このピダハンの言語を規定している決定的な要因が「直接体験」というものにあるということが、導き出されてきた。ピダハンの言語と文化は、直接的でないことを話してはならないという文化の制約を受けているのだ。
この原則に依れば、ピダハンが実際に見ていない出来事に関する定型の言葉や行為を退け、何らかの価値を一定の記号に置き換えるのを嫌うということの説明がつく。数や色がないことも、その一例である。これらは直接体験とは別次元の、普遍化のための技能であるからだ。
その代わりに、実際に経験した人物、あるいは直接聞いた人物が、その価値や情報をできるだけ生の形で言葉を通して伝えようとするのが、ピダハン特有のコミュニケーションということなのである。
このような思考様式を持っているからこそ、ピダハン社会は外の世界の知識や習慣をやすやすと取り入れないようになっているとも言える。実際に、宣教師として訪れたはずの著者は、キリスト教の布教を断念し、なんと最終的には無神論者へと鞍替えしてしまうのだ。
そして本書が問いかけているのは、我々がこのピダハンの特異な文化を、どのように受け止めるべきなのかということでもある。僕は、この「直接経験の法則」に基づく言語を、「言葉の断捨離」と位置付けたら、その捉え方も大きく変わってくるのではないかと感じた。
ピダハンはその法則に基づき、自分たちの思考の範囲を「今、ここ、自分」に絞っている。このことによる機会損失はもちろん否定できないのだが、同時に不安や恐れ、絶望といった西洋社会を席巻している厄災をも、ほとんど取り除いてしまっているのだ。
事実、ピダハンには、抑うつや慢性疲労、極度の不安、パニック発作など、産業界の進んだ社会では日常的な精神疾患の形跡が見られないのだという。また、著者自身、ピダハンが心配だという言葉を発することですら、聞いたことがないそうだ。
これに倣えば、我々が普段口にする発言の内容を「今、ここ、自分」に絞り込むことによって、さまざまな弊害が消え、毎日の気分が軽くなる可能性だって否定はできないと思うのだ。
今日、世界には6500ほどの言語があり、その半数が今後50年から100年の間に消滅する恐れがあるという。すでに400人を割っているとされるピダハン語も、その一つだ。そして、これらの消滅言語が一体なぜ残されなければならないのか?本書は、そんな疑問に対するシンプルな解答も提示している。そこには、消えてしまっては二度と取り戻せない、生きるための智慧があるからなのだ。 -
傑作だが何度も挫折した。冒険譚を期待していたので言語学の部分がミスマッチになっていたと思われる。とはいえ言語学の部分もめちゃくちゃ面白く、なぜ挫折するのか自分でも疑問だった。モチベーションの立て方を間違えなければすんなり読めただろうに。
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著者を伝道師から無神論者へと変えることになったピダハンの人々は実に興味深い。
"西洋人であるわれわれが抱えているようなさまざまな不安こそ、じつは文化を原始的にしているとは言えないだろうか。そういう不安のない文化こそ、洗練の極みにあると言えないだろうか。"
言語学の説明の部分がちょっと難しすぎたかな。