- Amazon.co.jp ・本 (109ページ)
- / ISBN・EAN: 9784634546905
作品紹介・あらすじ
中世の人びとはどのようにして書物を利用し、「知」を紡ぎ出したのでしょうか。数多くの書物の中から、規範となる古典が選別されると、引用され分類され注釈され、新たな書物が生まれました。この間、多種多様で無秩序にも見える書物の世界にも、中国の学術に強い影響を受けながら、少しずつ学問の体系が構築されていきました。本書では、各時代における古典研究の展開を辿りながら、中世の学問の一端に触れることにします。
感想・レビュー・書評
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書物がどのように扱われてきたか、注釈書がどのように作られてきたかに着目し、当時の学問がどのようなものであったかを紐解いている。どうにかしてうまく書物を活用できないか、という試行錯誤がそこにあり、その結果が現代に受け継がれているということが見て取れる。注釈はそれだけで書物になるほどの量があるが、その原因が、その文章の基になるもの、意味の基になるものが「必ず」存在しているという考え方に由来していることは興味深い。つまり、作者はある書物からその内容や表現を取り入れたものなので原典が存在している、作者はその原典からこのように感じたから、このように書いている、というものである。「必ず存在している」ことから、捏造も含めた無理やりな解釈をすべての語句、場合によっては一文字ごとに付けられていたため、本文を超える量にもなっていた。その後、注釈は時代背景などの補足や、現代語訳を付けるだけのシンプルなものへと変化し今に至るの。しかし変化により失われるはずだった、作者の考えを捏造する注釈のやり方は、「作者はそこまで考えていない」のに評論家が勝手に元ネタや作者の心情を決めつけて、挙句の果てに作者が否定すると怒り出す現代の評論家へ受け継がれてしまったようだ。
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Twitterなどで、どんどん書き手と読み手が融合していくという傾向があるとされているが、それは昔もそうだった。源氏物語も色々な異本がある。というのも、読者も参加して編集して行ったからだ。そこに正しいバージョンがあるという思想が入ることによって神聖なる書き手と、それを犯してはならない読み手という分離が起きた。ふたたび読み手にいじる権利が戻ってきているだけなのかもしれない。
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学問は仏教、儒学、和学の3つが柱だった。
書目の編纂で、仏書や漢籍の書目は単なる一覧表でない。個別の作品につき経、伝、法の内容を吟味し、歴史的な空間に位置づけた書物であり、学問的研鑽の最高の成果である。