森は考える――人間的なるものを超えた人類学

  • 亜紀書房
3.38
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  • Amazon.co.jp ・本 (494ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784750514628

作品紹介・あらすじ

南米エクアドルのアマゾン河流域に住むルナ人にとっては、森は考
え、イヌは夢を見る。彼らがそう考えているというのではなくて、そう
したものでしかありえない世界を彼らは生きている。「森が考える」
とき、人間と動物、人間と世界、生者と死者は新たな関係を結ぶ。
発表と同時に欧米の人類学会でセンセーションを巻き起こしグレ
ゴリー・ベイトソン賞を受賞した注目のエスノグラフィー、ついに翻
訳なる。
人類学、哲学、文学、言語学、環境学、生態学、生命論などの諸領域
を縦横に接続し、インゴルド、ヴィヴェイロス・デ・カストロを凌ぐ、
来たるべき知の衝撃!

感想・レビュー・書評

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  • マゾン河上流域の森に住むルナ族のもとでの調査を、長年にわたり捉えなおし続けてきた成果としての民族誌。哲学、文学、言語学、環境学、生態学、生命論を縦横に接続し、独自の概念を駆使して語られる、来たるべき知。【「TRC MARC」の商品解説】

    関西外大図書館OPACのURLはこちら↓
    https://opac1.kansaigaidai.ac.jp/iwjs0015opc/BB40241342

  • これは唸った。素晴らしい書籍。
    世界の根源主体である「森」の「意志」を、都度、人間・非人間を含む総体が、その生態学的ネットワークを編みなおすことで汲みとり、それにより生命は継続され、形式化されるというイメージを得た。

    制作についてのモチーフとしては、人間が形成している「植民地化された言語体系」によっては見逃してしまう、「記号」を聴き取り、それを「表象」することを、「書の造形」においてしてみたいなということを感じた。文芸の「詩」というよりは、もう少し「図的」な形での表出を試みたいとおそらく思っている。


    ◎以下引用とメモ

    いかに他なるたぐいの存在が私たちのことを見るのか。他なるたぐいの存在が私たちを見るということが、物事を変えるのだ

    狩猟、漁業、最終、栽培。様々な生態学的な組み合わせを統制し、食料を得ることで、世界のもっとも複雑な生態系、相互作用し、互いに構成的である異なるたぐいの存在を引き込む

    人間の言語が働くありようの想定に従って、表象が働く仕方を考えてしまう傾向にあるという意味で、私たちは表象と言語をひとつにしてしまっている

    記号もまた、人間的なるものをはるかに超えて存在する。
    →人間によっては知覚されていない「記号」が世界には無数にある

    ★★生命と思考はまったく同一なのである。つまり生命は思考し、思考は生きている

    思考の恒久的な脱植民地化。私たちは関係性について考える、ある特定のやり方によって植民地化されている。

    単語ではないのだが、記号である。「ある人にとって、ある観点もしくはある能力において何かを表すもの」。

    ★★総ての記号が言語のような質をもっているわけではないし、また後に検討するように、記号を使うのがもっぱら人間だけだということもない。この記号の定義は記号が人間的なるものを超えてもつ生命に私たちが慣れ親しんでゆく助けとなる。


    「ツプ(記号ではあるが、単語ではない)」はそれならではの仕方で水に飛び込んでゆく豚について、ある程度何かを捉えている。「それ自体」それを感じることができる。
    →【書】の身体感覚「ぐっと筆を入れる」とかを想起する。

    そこには、タ・タとか、プ・オーのような「単語」が多数ある。これらは、行動が世界の中で展開するイメージを音響的に伝達するようにして、意味をなし、語りの中に、とりわけ森の話題に現れる。


    ★★ヤシの木が倒壊する音は、モンキーを驚かせ、立ち退かせた。この出来事そのものは一種の記号として受け取ることができる。それは「何らかの側面、能力において、何かが誰かにとって何かを表す」という意味で、記号なのである。この記号は、サルに対して何かを伝える。私たち人間だけが記号を解釈する唯一の存在ではない。意味作用とは人間の領域にあるわけではない。

    他なるたぐいの存在が記号を用いることは、人間の精神および人間的な意味の体系を超えた世界の中に表象がある様相の一例である

    記号はモノ以上である。それは音、出来事、言葉の中にきっちりと収まるものではない。厳密に身体に存在するのでもなく、ましてや精神のうちにさえたしかに存在するものでもない。それは現在進行している関係上の過程であるために、正確にはこのようにして位置づけられるものではないのかもしれない。その感覚的な質は動態の一部をなすだけで、その動きを通じて、記号は世界の中に現れ、成長し、効果を生み出すようになる。

    記号は精神に由来しない。倒壊するヤシを、意味あるものとみなすその「誰か」は、人間であれ非人間であれ、この記号とそれに似た多くのほかのものの「解釈」のための座となる。それは「時間の流れにおいてちょうど生まれたばかりの自己」である。

    それ自体は記号の産物ではない、人間であれ、非人間であれ、単純なものであれ、諸自己はその結果が未来の自己であるような新たな記号解釈の出発点であると同時に、記号過程の効果である。

    これらの諸自己は、「ちょうど生まれたばかりであり」、世界から遮断されていない。精神の「内側」で、生じている記号過程は、複数の精神のあいだで起きるものと本質的に異なるものではない。森の中で倒壊したヤシは、それぞれ異なる偶発的な諸自己が織りなす生態学に埋め込まれたものとして、この生ある世界で起きる記号過程を描き出す。

    種=横断的な意思疎通の試みは、記号過程の生きた現実世界的な本性を明らかにする。すべての記号過程は、世界=内の精神=に起きる。

    避けられなかった失敗に続いて、退屈な忍耐ととみにそのことを実行し、修正し、それが別の結果をもたらすと夢想し、そして最後の夢を事実として公表することによって終える。彼の手法は、言葉や空想の代わりに、実際の物を操作することで開かれた目をもってなされる。新たな推論の概念を示しながら、精神を実験室に持ち込み、文字通り、フラスコから施行の道具をつくりだす

    ★膨らんだガラスである蒸留器と、フラスコ、そして注意深く境界を定められた不在と可能性の空間の中身である混合物からなる、この現れつつある世界でないのなら、彼の精神、未来の自己はどこに存在することになるのだろうか


    構成的な不在は、進化のプロセスの中心。有機体の系統が特定の環境に一層適したものとなるのは、選択的に排除されたすべてのほかの系統の不在の結果である

    ★倒壊するヤシの木のような「単語」を考えるなら、表象が人間の言語よりも一般的であり、さらに広く分布する何かであるとみるようになる。そう考えることで、言語が依拠する象徴性の諸様態により示されるものとは全く異なる特性がほかの表象様式にはあることが見えてくる。つまり、象徴的なるものを超えて出現し広がるそのようなたぐいの記号を考えるならば、言語を「地域化する」必要があることに気づく

    →★つまり、その環境により表象が異なるから、それを救う言語体系にも差異が出てくるということ。標準語では「表象」できない「単語」が、各地域には無数に偏在している。

    言語が地域化されなければならない理由は、明らかに言語や象徴的なるものに頼るときでさえ、理論的な道具のせいで、私たちは言語と表象をひとつに合成してしまっている。

    この表象と言語の合成-すべての表象の現象には象徴的な特性があるとする装丁-は文化的、象徴的、あるいは言語的なるものにアプローチを明白に批判するような企図にさえ確認される。

    ★★パースペクティブが、表象ではないというのは、表象が精神、あるいは魂の性質だからであり、それに対して観点は身体の中に位置づけられる。
    →つまり「身体」の外部にある『表象』は、仮に「表象=言語(パースペクティブ)」となっていたら、見逃してしまうということかな

    「思考を脱植民地化する」こと。考えることは必ずしも言語や象徴的なもの人間的なものによって囲まれていないことをことを理解する

    現在において、未来を表象することにより、未来のために事をなすのは、私たち人間だけではない。総ての生ある諸自己が、何らかのかたちでこのことをする。表象、目的、未来は世界の中にある。しかもそれらは私たちが人間の精神として限定する世界のその部分だけにあるのではない。生ある世界の中に、行為主体性がある。

    挑戦すべきは私たちがその特性をとても自然なものと感じる記号の恣意性を異化することである。なぜなら、その恣意性は人間や人間が知ることを望みうるすべてにともかく浸透しているように思われるためである。キチュア語を知らずとも、「ツプ」は感じられることを踏まえると、私たちが取り扱うすべての記号が象徴なのではないし、非象徴的な記号が言語に似た境界づけられた象徴的な文脈から逃れ出る重要な道がある。

    生命がアマゾニアでにて織りなす多くの層は、これらの人間的な記号過程の網目よりも大きなものを増幅し、はっきりさせる。その森が私たちを通じてそのあるようを思考するのに任せるならば、私たち自身のまた常に何らかの仕方でいかにそのような網目に編み込まれているかを見定めることができる

    旅行者たちの無頓着さと、私の危険の感覚との不一致は、私の中に奇妙な情態を呼び起こした。私の中で休みなく続く「たられば」が、物事をあまり気にしない両公社たちからますます離れていったので、最初はすぐに深い疎外感へと変わっていった。

    ★★私の世界認識と私の周りの人たちのそれとのあいだにある食い違いが、世界とそこに住まう人たちから私を切り離した。私が取り残されたところにあったのは、未来の危険を考えることを制御できずにぐるぐると回り続けてしまう私自身の思考だった。その後、私の考えが、周囲の人たちとの継ぎ目を失っていると感じるや否や、そこにあると私がいつも信頼してきたものに対するつながりを疑い始めたのである。そのものとは、私自身の身体である。別の言い方をすれば、私は所在のない存在という希薄な感覚ー私の存在自体を問題とする根無し草の感覚-を覚えるようになったのである
    →記号過程に接続する前の段階では、たしかにパニック的というか、「つながり」の不在を実感することがあって、人との交流を求めるところが多分にある

    ときどき私は一日の終わりに近づくと、そのことが起きたらいったいどうなっていたのか、このことが起きたらいったいどうなるのかとということを考えて疲れ切ってしまった。それから、それが私自身の考えこそが、私をおかしくしていたのに気づいた

    不安を可能にする象徴的思考の構築的な質である。すなわち、象徴的思考が非常ん多くの仮想世界を生み出すことになるという事実である、めぐは、言語的、社会的、文化的に、言い換えれば象徴的に、パニックの経験を構築するのではなくて、パニックそれ自体が、象徴的構築が暴走する兆候なのだ

    暴走する象徴的思考は、すべてのものから区別されたものとして、「私たち自身」を私たちに経験させる。つまり、私たちの社会的な文脈、私たちが生きている環境、さらには私たちの欲望や夢でさえも。われ思うゆえに、我であることを疑う

    ★★あのフウキンチヨウに焦点があったことが私に教えてくれたのことは、この濃密な生態学に身を浸すことが、すぐれて人間的あるものを超えたより広大な記号過程の領域、つまり、私たちすべてが普通おかれている領域を増幅し、目に見えるものにするやり方なのである。あのフウキンチヨウを見ることがより広いもののうちにあの根本的な分離の情態を位置づけることになったので、私は正気を取り戻したのである。そのことが、人間的なるものを超えたより広い世界に私を位置づけなおすことになった。私の世界につての思考が再び、世界の思考の一部となったのである。人間的なるものを超えた人類学は、このようなつながりの重要性を把握することに努める。
    →意思を持つ≪森=全体≫に身を浸すには、その全体の断片である非人間をも含む生態系の変容にアクセスし、自分自身もその生成過程に同期し、境界を超えることが必要になるということだと思う。「森=全体」は、いつも「見えない」。だからゆえに、それを構成する断片からのアクセスを要する

    倒壊が別の倒壊を思い出させる。こうした倒壊に連合する危険が別の連合を思い出させる。このようにインデックスは、イコンによる連合から創発する

    インデックスは情報を与える。それは直ちに存在するのではない何かについて新たな何かを伝える


    創発する動態とは、可能性の制約の特定の配列がより高次のレベルでこれまでになかった特性を生み出すものである。しかしながら、決定的なことであるが、創発するものは、それが由来し、また入れ子になっていたものからは決して切り離されることはない。なぜならその特性については、これらのより基本的なレベルになおも依存しているからである。

    インデックスが、イコン同士の特別な階層関係から生じた
    →イコン=アクター、インデックス(エージェンシー)という理解かな。

    象徴はインデックス同士の特別な関係性の結果であり、同じくインデックスは、イコンを特有の仕方で結ぶ特別な関係性の結果である。象徴的解釈はインデックス的な諸関係の組み合わせと対になることで作動するが、そのインデックス的な諸関係はそのあいだにイコン性を認めることで、最終的な解釈に至る。

    パニックとその霧散は、これらの象徴的な記号過程の特性を示している。それらが指さすのは、制約のない象徴的思考による現実的な危険とそのような思考が再接地される在りようである。

    トリを見つめることが、象徴的指示が入れ子になっている記号過程的な環境を再創造することで、私の思考を、私の創発する自己を再び接地させる。持っていた双眼鏡というよくできた装置を通して、ちょうど私の前で鮮明に焦点が合うようになったそのイメージを見定めることができたことで、私はインデックス的に一羽の鳥と一直線でつながった

    ソファの上で、ひとりで考えにふけっているメグが、簡単には見つけられそうもなかった何かの中に私を再び浸すことになった。すなわち、知りうる環境、そして私自身を超えて広がるが私もまたその一部になることができた今ここに、たしかに位置づけられていたというある種の根本的な実存の確信である

    パニックが消え去るときは、二元論に向かう特定の人間的な傾向がほかのものに解消されることに対する感覚を得ることができる。

    あの朝、テナの川岸にいたトリを見ることで、私はたしかに話ことば的な意味合いにおいて、頭から抜け出すことができたのであるが、ではいったい何に踏み込んだのだろう。その行動が巻き込む、関わることのより基礎的な記号過程の様式により、私は文字通り、自らの感覚を取り戻すことができたし、またその過程で私自身を超えた―私の精神を超え、規約を超え、人間的なるものを超えた―世界の中に私を再び接地させることになったのだけれども、この経験は象徴的なるもののかなたにあるものとはいかなる世界なのかを問うように、私を導いているのではないだろうか。言い換えると、この経験は、私がここで発展させようとしている人間的なるものを超えた人類学の分脈の中で理解される限りにおいて、実在ということで、何を言わんとするのかを再考するように迫っている
    →【実在】は、非人間を含む生態系の断片として、全体の生成のさなかに常に触手していることにより保障されるということだと思う

    ★★私たちは一般に、実在するものを現存するものとして考える。森で倒壊するヤシの木は実在する。落下の結果として残った、せん断された絵だと押しつぶされた植物は、そのすさまじい事実性の証である。しかし、実在するものを起きた物事として限定的に特徴づけることでは、自然発生性、成長に向かう生命の傾向を説明できない。またそれは、生きているものにより、共有される記号過程-も説明できない。さらに、そう特徴づけてすまえば、私たちが人間的な精神として境界付ける切り離された存在のまとまりに対して、あらゆる可能性を二元論に刻銘してしまう。
    →可視化される、倒壊するヤシの木は、目の前にあるが、しかし「実在」はそこの客体的に備わっているわけではないという理解かな。

    世界は「習慣を形成しようとする万物の傾向」により、特徴づけられる。つまり、エントロピーの増加へと向かう宇宙の一般的傾向は、ひとつの習慣である。河川の中の環状の渦や結晶の分子構造の形成のように、自己組織的な過程に見られる規則性の増加へと向かう、より共通性が低い傾向もまた習慣である。そしてこれらの規則性を予知し利用し、その過程において、新奇な規則性の葉入れるを創造するその能力をもって、生命は習慣獲得に向かうこの傾向を増幅する。

    実在

    するものについての拡張されたこの見方を通じて、双眼
    鏡の中にフウキンチヨウが焦点を結んだときに、私が抜け出したものが何であったのか、また私が踏み入れたあの過程において実在するものは何であったのかを私たちは考えることができる。パニックの周囲にあって大いに心かき乱されるものとは、他者と同調できなくなるという情態である。思考を生み出すより広い習慣の領域からますます切り離されるような思考のために、孤独になる。言い換えれば習慣を作り出す象徴的思考のたぐいまれなる能力ゆえに、私たちが組み込まれている習慣から私たちを引きづりだしかねない、危険が常に存在する。


    しかし、生ある精神は、このようにして根から断ち切られることはない。成長し、生きている思考は、たとえその何かが潜在的な未来の結果であったとしても、常に世界の中の何かに関わっている。

    ★思考の一般性の一部は、単一の安定的な自己の内だけに位置づけられるのではない。むしろ、それは複数の身体にわたって分布する、ひとつの創発する自己の構成要素である。

    ある者は、ひとりである限りにおいては全体ではない。社会のありうる成員である。とりわけ孤立しているときには、ひとりの経験とは何者でもない。もしほかの人がみることができないものを見るのであれば、それは幻覚と呼ばれている。私の経験ではなく、私たちの経験こそが、考えられなければならない。そして、この私たちというものは無限の可能性を有している

    ★パニックになると、習慣を獲得する私の精神、習慣を獲得する他者たちの精神、および私たちが世界の習慣を見つける経験を共有する能力を結び付けていた三項関係が崩れてしまう。さらに私的になっていく精神をそれ自体、独我論的に包み込むことは、恐るべきことへと帰結する。すなわち自己の内破である。パニック時は、残りの世界から切り離されたモナド的な第一となる。

    私の双眼鏡の中でフウキンチヨウが焦点を結んだ瞬間、私を世界へと連れ戻したのは、まさにこのようなイコン的で、インデックス的な一列線である

    私たちの思考と精神のように、トリと草木は創発する実在である。生命形態は世界の諸習慣を表象し、また増幅させるので、新たな諸々の習慣を創造し、またそれとほかの有機体との相互作用がさらなる諸々の習慣をも創造する

    生きていること―生命の流れのなかにあること―には、増加し続ける創発する習慣を私たちが後押しすることが含まれている。しかし生きていることは、習慣の中にいること以上のことである。記号的な動態の生き生きとした繁栄の原因と結果を私は自己と呼ぶが、それはまた崩壊と衝撃から生じたものである。新たな習慣を形成したり、古い習慣を失ったりする力を喪失してしまって精神として特徴づけた動かない物質とは対立するものとして、精神は著しく、諸々の習慣を獲得し、そして諸々の習慣を捨てるという習慣を手に入れた

    特定の習慣を選択し手捨てるというこの習慣から、より高位のまた別の習慣が創発することになる。言い換えれば、成長は、周囲の習慣の何かを習得することを私たちに求めているが、しかし他方で、私たちには習慣となっている世界のあるようへの期待が崩壊してしまうこともある。

    世界の習慣は、そのような「衝撃」という契機において、顕わになる。つまり、私たちはそのうちに住まう習慣に普通気づかない。世界の諸習慣と私たちの期待が衝突するときにだけ、他性としてある世界と、私たちが現在そうである以外の何かとしての現存する事実性があらわになる。この崩壊に続く試練は、成長することである、このなじみのない習慣を包含する新しい習慣を創造すること、またそのプロセスにおいて、どれほど瞬間的であろうと、私たちを取り巻く世界共にあるものとして私たち自身を新しく作り変えることがその試練。熱帯林の中でそこに接して生きるには、その諸習慣の多くの層を理解する能力が欠かせない。

    際立った広い骨皮だけの羽をもち、どちらかと言えば静かで反応が鈍いと記述している。わたしたちがトリに対して抱く想念を崩壊させるので、その習慣は興味を集める

    部分に先立つ全体

    私たちの道を遮る切株が突然現れること。私たちがそれになんとかして気づこうとするとき-あるいはマキシのイノシシが突如として生き返ることといった予期せぬ出来事は、世界のありようについて私たちが抱く想念を崩壊させる。そしてまさにこの崩壊、古い習慣の失調として新しい習慣の構築こそが、世界の中にあり、また生きているという私たちの情態を構成する

    世界がわたしたちの前に現れるのは、私たちが習慣を持つようになるという事実によってではなく、古い習慣を捨てるよう強いられて、私たちが新たな習慣を受け入れるようになる契機においてのことである。ここで私たちもまた寄与することになる創発する現実のほのかな光-どのように媒介されようともーを垣間見ることができる

    いかに記号過程が象徴的なるものよりも広いのかを認識すれば、私たちは人間的なるものを超えて絶えず創発する世界に住まう方法を理解することができるようになる。私たちがそうであると信じている例外的な存在に自らを仕立て上げるようなひとつの習慣-象徴的なるもの―の限界を超えたところに達することを目指している。目的はこの習慣が持つ独特の効果を最小化することではなく、象徴的なものである全体が私たちを超えた世界において増殖することができ、多くの異なる習慣に対して開かれた異なる道を示すこと。

    私たちは、開かれた全体となる道に向かう感覚をとり戻ることが大切

    自らを新奇なもの、イメージと情態へと開くこと。

    フネスはあらゆる森のあらゆる木の、あらゆる葉を記憶しているばかりか、それを知覚したか想像した場合のひとつひとうを記憶していたが、彼には大して思考の能力はなかったように思う。考えるということは、様々な差異を忘れること

    人間のみならず、あらゆる生ある存在は思考する

    あらゆる思考は生きている

    思考が人間的なるものを超えて存在するならば、私たち人間はこの世界に住まう唯一の自己ではないことになる。要するに、私たちは唯一の私たちというたぐいではない。

    森にいるいくつもの存在を創造し、つなげ、維持する関係性の論理をうまく見通すことができるのだとすれば、彼らはこの基礎となる活力ある状態をどうにしかして認識しているに違いない

    ルナのアニミズムは、世界における生ある思考に注意を向ける方法のことであり、それが生命と思考の重要な特性を増幅し、明かすのである。ルナのアニミズムは、世界を思考するひとつの形式であり、世界内思考の独特な属性のいくつかを可視化するようにして、特定の状況でその思考に親密に関与することから生じる

    生命とは、記号過程である。パースによる記号の定義にあるように、何らかの側面、能力において、何かが、、、誰かにとって何かを表すあらゆる動態が、生きているのだろう。

    何かが別の何かを表すことを記号とするような、に公的な理解のかなたに、記号過程における還元不可能な要素がある。記号は、誰かにとって、何かを表すのである。

    生き物が雪の結晶とは異なるのは、生命は本来、記号論的であり、常に記号過程は自己を表すからである。個々のアリクイがとる形態が、その形態の未来における例化へと向かい、その系統が、進化の時間にわたって、適応してきた環境を表象する。

    自己とは個々の形態を維持し、永続させる、生命に固有な過程の産物であり、その形態が、数世代にわたって反復されるにしたがい、周りの世界に適合するようになり、同時にそれではないものとの関連において築かれた自己同一性を維持する。

    記号過程は、身体化されたものであるが、身体時用の何かをつねに含んでいる。記号過程が関連するのは、不在の何かである。すなわち、過去の世代が適合した環境に似ているはずである、記号論的に媒介された未来の環境である。

    ひとつの生ある記号は、パースが習慣と呼ぶものの述語である。言い換えれば、規則性、まだ現存していないがいずれは存在するようになるであろうものに対する期待である。それではないもの、それは期待-未来が含むものに対する大いに身体化された「推量」から生じたものである。このことはもうひとつの重要な不在の帰結である。先に述べたように、突き出た鼻、アリクイが周りの世界に適合するやり方は、これまですべての間違った「推量」の結果、アリの巣穴の世界に比較的似ていない鼻をした過去の諸世代である。このアリクイの祖先の花は、ほかの鼻ほどアリの巣穴のかたちに適していなかったために、その形態は見たいにまで生き残らなかった。

    あらゆるたぐいの生命は、人間的であれあ、生物学的にであれb、いつの日にか現れるかもしれない無機的な生命でさえも、身体化され、局在化され、そして表象的である未来を予測する動態をおのづから示すだろう。そうした動態は、未来におけるその冷夏のうちに習慣獲得をする傾向をとらえ、増幅させ、広げる

    関連性の座を表すいかなる要素も、未来へと広がることが潜在的に可能であるそうした座の系統において、生きているといえる。生命の諸々の源は、どのようなたぐいいの生命で有れ、森羅万象のどこにあっても、必然的に記号過程と自己の源のしるしとなる

    あらゆるたぐいの命でさえも、身体化され、局在化され、表象的である未来を=予測する動態をおのずから示すだろう

    アリが非行する正確なタイミングは記号論的に構造化された生態学の帰結である、アリは、夜行性と昼行性の捕食者からもっとも見つかりにくい時間帯である夜明けに姿を見せる

    表象にかんする私たちの考えがどれほど言語によって植民地化されてきたのかを考慮すると、表象とは、私たちが念頭におくものとは異なり、さらに広がりのあるものとなる。言語的な関係性を非人間に拡張することは、人間的なるものを超えて広がるものに対して自己陶酔的に人間的なるものを投影することである

    ★★記号論的ではあるが、必ずしも言語のようなものではないものとして、関係性を理解することによって、人間的なるものを超えた人類学は関係性という概念を再考できるだろう
    →自分がやりたいのはここなんだろうなと思う。表象は「必ずしも言語ではな」くてもよいわけで。広義の「詩」にこだわる必要がまったくないんだと思う

    ダニは、数ある哺乳動物のあいだに区別を設けない。見境なく哺乳動物の血を吸い、それらを区別できずにいることのおかげで、寄生虫は、ある種から別の種へと移動する。(中略)このイコンによる混同は生産的である。

    昆虫が彼に教えたのは、昆虫、樹木、葉、自然といった一般名詞は、細部に対する感受性を損なうということ。私たちを概念的にも物理的にも乱暴にする

    類似性と際は、解釈を行う上での位置取りになる。類似性と際は、直接的に明らかなような本来的な特徴ではない(ダニが哺乳類を混同しないように)

    あらゆる思考と知識は記号によるものである

    彼の考えとは、彼自身に語りかけていることである

    昨日の赤色の見え方が今日の見え方のようであったのかどうか確信はあるのか

    ★ルナは案山子を入念に張り付けるが、それが人間の観点から「写実的に」猛獣を描いているわけではない。むしろ、インコのパースペクティブから、いかに猛獣に見えるかを想像する試み

    ★インコであるとはいかなることなのかについて、何かをしることができる、インコの考え方についての私たちの推量がインコに対して及ぼす効果を通して、そのことを知る

    私たちは記号の媒介を通してのみ、私たち自身や他者を理解することができる。解釈する自己がまた別の身体のうちにあろうが、時間の流れの中で今まさに生まれそうとしている別の自己-。

    思考、精神そして自己としての存在そのものが出現する記号過程において、新しい記号によって解釈されるものが、ひとつの記号だからである

    赤色は盲目の人によっていかに経験されるのか、蝙蝠になるとはいかなることなのか、あるいは犬たちが襲われる前に何を考えていたのか、これらについて、私たちはいかにその理解が媒介され、暫定的で、誤りやすく、根拠の薄いものだったとしても、何かを知ることができる。思考が関わり合う道程に諸自己も関わり合う。つまり、私たちは成長続ける生ある思考なのだ

    非人間の行為主体性。生ある物が自己であることを見過ごしている。自己として、それらは表象されるだけでなく、表象することもできる。そして、そうするのに、話す必要はない。なぜなら、表象は象徴的なるものを超え出ており、ゆえに人間の言語を超え出ているから

    まなざし返すことによって、私たちはジャガーに私たちを自己として扱う可能性を与えようとしている

    ★アリクイがありを食べる方法、インコを怖がらせる方法、ナマズに気づかれずに捉える方法を了解するという生態学的な課題をやりとげることに必要なのは、ほかの有機体はもつ観点に対する深い注意である→あらゆる生命体は自己であるから

    ジャガーを罠にかける神話では、より高位にある観点が「突然・・生じ」て、より大きなものの構成要素として、内側と外側のパースペクティブをつなぐ。

    ★★生命と思考は、別個のたぐいではない。思考がほかの思考との連関により成長するあるようは諸自己が「互いに関わり合うありょうと、異なるところはない。
    →【全体=森】を共に促進させる「生態学的共同体」として、あらゆる生命を思考、対話を絡ませ合うということ

    諸自己が関わり合う仕方は、私たちが言語と呼ぶ体系において、単語が互いに関わり合う仕方とは必ずしも似ていない。関わり合うことは、本来的な際に基づいているわけでもなければ、類似性に基づくわけでもない。

    生命が潜在的に存在できるのは、何らかの記号論的な系統のうちであって、後続の自己を左右するような仕方で諸自己がほかの諸自己を表象するありようのおかげ

    私たちが自己であるために必要とするものを構成するその独特の布地の痕跡には、皮膚により、境界付けられた死を免れない私たちの身体を超え出る力がある

    「魂の座」は常に身体に結びついているが、必ずしもある身体のうちに位置するわけではなく、間主観的である記号論的な解釈項の効果と位置付けている

    ★存在の連続性は、個々の有機体の人格よりも高い位置との関連において、緩やかに手を結んだある種の自己を創造する。この創発する自己は必ずしも平等な配分を必要としない。


    種=横断的な相互作用が、ほかの存在が事故であることを認識する能力によっているのであれば、この能力を失うことは、森に宿る、この事故の生態学を構造化する補色の網目にとられる悲惨な結果をもたらす

    ★特定の状況下で、この宇宙に棲む精神、人格、自己といったほかの諸存在を認識するよう強いられる。ほかの諸自己と交流するために、諸自己は、それらの霊質を認識しなければならない

    ★★つまり、諸自己の生態学では、自己にとどまるために、すべての自己はこの宇宙に住む魂を持つほかの諸自己を認識しなければならない。この諸自己の生態学において、魂を所有するほかの自己に気づき、またそれらと関わり合うことのできない状態に陥る、魂の喪失という衰弱している形式を記述するために、私は「魂=盲」という言葉を選んだ。この語は、ある者が、他者を人間としてみることがかなわないかもしれない状況を思い描くために使用した。

    ★魂なき狩猟者は、「魂=盲」となる。こうした者は、餌食となる存在を自己としてみなす能力を失うために。身の回りの環境から動物を識別することがもはやできない

    ★餌食が魂を喪失することで、狩猟は容易となる。しかし、それは獲物が既に魂のない状態であり、「魂=盲」になったから。
    →好感のない果実と、好感の結果としての果実かということかな。

    他者の動機のような概念は、意思をもつ存在が住まう世界で生き延びていくために必要。私たちの生は、ほかの諸自己の動機について暫定的に行う憶測を信じ、それに基づいて行動する能力によっている。この諸自己の生態学の中で、森にくらす無数の存在を活力にあふれた生き物とみなさない限りは、それらを狩猟し、関わり合うことができない

    こおろぎとしてのアリや、甘味としての腐ったコンドルを食べるとき、私たちは自らの進退を出て、他なる諸存在の身体へと足を踏み入れる。そのようにして、私たちは別のたぐいの身体化に備わる視点、主格である「私」から異なる世界を見るのである

    ★★他なる存在の観点を受け入れることは、諸自己のたぐいを分け隔てる境界をあいまいなものにする。一緒に生き、互いを理解しようとする試みの中で、種横断的な慣習行動を分かち合うようになる

    種=横断的な意思疎通は、危険な取引である。一方では、人間的な自己の完全な変化は避けるようにして、誰も永遠に犬になることは望まないー他方では、魂=盲と呼んだような、モナド的な孤立を避けるようにして、種横断的な意思疎通を行わなければならない

    私たち自身ではないこれらの自己の多くは、人間的であはない。これらの他者は、自分たちに耳を傾ける新しい方法を見つけるように、私たちに迫る。言い換えれば、他者性を持つ存在は、より公平で、よりよい諸世界を創造し、実現する助けとなる

    他なる諸自己が住まう世界にいかに生きるのかを見出すことに最新の注意を向ける、より射程の広い倫理的実践は、他なる諸存在とともに、生み出そうと、私たちが想像し、そのように務めるありうる世界のひとつの特徴となる

    その雰囲気を感じ取ることができるのは、僧堂の外にいる者たちだけだ。実践するものは、何も感じ取ることはない。

    この経験と夢見との反響は、森の存在に個人的な親しみを抱く契機についての何かとそうした存在を狩ることに含まれる矛盾をとらえていた

    動物が、私たちのように自己であることを思い出させる知らせとなった。つまり、動物は何らかの仕方で世界を表象し、その表象に基づいて行動する。

    ★世界に住まう異なるたぐいの存在の身体に基づく配置から、生み出される多くの異なる自然がある。しかし、唯一の文化、人間も非人間も同様に、あらゆる自己がそこに身を置く、「私」の観点がある。この意味で、それぞれの「私」の視点からあらゆる存在は、彼らが生きる文化とは異なる自然を文化として見ている


    それぞれの「私」の観点から、あらゆる存在は彼らが生きる異なる自然を文化として見ている。

    ★これまでに議論してきたように、人間の言語が、非人間の生きる世界において出現し、そこで流通する記号的な過程から形成されるより広範な表象の領域のうちに収まることを考慮にいれると、この非人間的な世界に言語を投影することは、これらの別の表象の様式とその特徴を見えなくする
    →世界に遍在する記号は、人間の言語によってはすくいきれない

    人間的なるもののかなたにあるこれらの記号的な様式が示す重要な特徴もまた、形式的な特性を備えている。象徴的な表象と同じく、これらの記号的な様態も、特定の型に帰着する可能性がある

    非象徴的で非言語的な使用域において、ある者が、「するな「と「言う」ことを試みることができる限定的な方法と、可能性に対するこの形式的な制約の論理が、動物の「遊び」のうちに可視化される非人間的な意思疎通の型-ある形式-のうちに現れる仕方を議論売る中で、このことを示唆した

    ★★多くの異なる種のうちに、そして種の分割線を交差する意思疎通の試みのうちにも、幾度も繰り返されるということは、人間的なるものを超えた世界において形式が出現し、流布することを例証している
    →★★異種的な「交感」において、そこに記号的な交流が成立していたとして、それは必ずしも狭義の人間による「言語」のみで果たされているわけではなく、その異種間においてのみ成立する、独自の言語外の「形式」があるということ


    ★記号過程が、人間の精神と人間の精神が創造する文脈を超えて存在するということは、習慣や規則性が実在すするとの証。記号過程は、人間的なるものを超えた生ある世界の中にあり、それに属する一方で、形式も同様に、生なき世界の不可欠な一部であり、かつそれから創発する
    →★★つまり、「全体=森」の中で、一つの種に過ぎない人間が生命を生成発展させていくには、人間間で展開される言語交流のみでは不十分で、多種間との、非言語的な「形式」における好感、またその「形式」の取得が生存条件になるということを示唆しているのだろう

    形式を、それがなければ型や範疇、一般性を欠くことになる世界に対して人間が押し付ける何かとしてしか思考しないことになろう。しかしこうした立場に立つことは、思考が人間的な言語に植民地化されるに任せるに等しい。これまでに議論してきたように、人間の言語が、非人間の生きる世界において出現し、そこで流通する記号的な過程から形成されるより広範な表象の領域の内に収まることを考慮に入れると、この非人間的な世界に言語を投影することは、これらの別の表象の形式とその特徴を見えなくする。

    ★人間的なるものは、形式のひとつの源泉でしかない
    →人間の「世界=言語」はあくまでも、全体を切り取るひとつのパースペクティブにすぎない

    人間的なるもののかなたにあるこれらの記号的な様式が示す重要な特徴もまた、形式的な特性を備えている。象徴的な表象と同じく、イコンとインデックスからなるこれらの記号的な様態も、特定の型に帰着する可能性の制約を見せる

    非象徴的で非言語的な使用域において、ある者が、「するな」「言う」ことを試みることができる限定的な方法と、可能性に対するこの形式的な制約の論理が動物の「遊び」のうちに可視化される非人間的な意思疎通の型-ある形式-のうちに現れる仕方を議論してきた。この型が多くの異なる種のうちに、そして種の分割線を交差する意思疎通の試みのうちにも幾度も繰り返されるということは、人間的なるものを超えた世界において形式が出現し、流布することを例証している。

    記号過程が、人間の精神と人間の精神が創造する文脈を超えて実在するということは、「一般」、つまり習慣や規則性、すなわちパースの用語でいう「第三」が「実在する」ことの証である。しかしながら、記号過程は、人間的なるものを超えた生ある世界の中にあり、それに属する一方で形式も同様に、生なき世界の不可欠な一部であり、かつそれから創発する。

    アマゾニアのゴム経済は、この二つの型が共有する類似性を搾取し、それに依存した。ゴム経済は、ゴムを見つけるために水系を遡り、そしてゴムを下流に流すことで、存在する共有された形式的な類似性につけこむ経済システムにおいて、物理的な領域と生物学的な領域を統合するよう、これらの型を連結した

    人間だけが、植生と水路の分布の型を連結するわけではない。ある魚は木の実が川に落ちると、その実を食べる。実際、この魚はこの資源にありつくための経済として川を利用する。そうすることで、その魚は植生と水路の分布が共有する類似性-形式-を潜在的に増やし広げる。これらの実を食べることによって、魚がその趣旨を川の流れに従うように散布すると、この植物の分布は川の分布とさらにいっそう、一致する
    →人間がその環境において、アクターを組み合わせ「生存」する術を模索し、形式を獲得しているように、魚たちも、同様のことをしていることを示唆している

    ★★ゴムの樹や河川、経済を互いに関係づける型などいくつもの形式が創発する。「創発的」という語は、新しさ、未決定であること、複合的であることだけを意味するためのものではない。むしろ、それらを引き起こした基本的な構成要素に還元しえない、新奇な関係による特性が現れ出ることを、ここでは意味する

    自らが由来し、また依存するところのものとは異なるのだけれども連続しているという点で、渦は象徴的指示のような別の創発現象に似ている。第一章を想い越してほしいのだが、象徴的指示は、それが収められたほかのより基本的な記号の様式から創発する。渦と川のなかのりゅすいに対するその関係のように、象徴的指示は、それが依存し、由来するイコンとインデックスとの関係において新たな創発的な特性を示す。

    形式の生=社会的な効力は部分的に、その構成部分を超出しながらもそれと連続するあり方に宿っている。創発する形式は、低位のエネルギーの流れと物質性に常に接続されるという意味で連続的である。

    形式を利用することは、いかに形式に備わる労なき効力-過去の現在に対する効果がそこで働く唯一の因果的な様態ではなくなる、ある種類の効力-という奇妙な様式によって改められることと切り離せない

    森の霊的な主たちの領域に注意を向けることで、連続性が何を意味するかを、そして連続性を脅かすものと向き合う最良の方法をよりよく理解できる。連続性や成長、繁栄についてこの森の精霊たちが教えてくれるものを注意し開くことで、生ある未来に生きるより良い方法を私たちがいかに見出すのかを考える別の道祈りを切り開く余地が残されている

    自己とは、いかに束の間であったとしても、記号解釈のための座である。先行する諸記号とも連続する新奇の記号を算出する座である。人間であれ、非人間であれ、単純なものであれ、複雑なものであれ、自己は記号論的家庭医の中継点。記号過程の帰結であり、未来の自己として結実するような新しい記号解釈の出発点。自己は揺るがなく現在に存在しているわけではない、それを解釈するようになる来る解釈の座-未来の記号論的自己-に依存しているために、「時間の流れのなかで、今まさに生まれようとしている」

    この未来にあることの論理を、あらゆる記号論的生命の中心にあり、同時に人間的な象徴的記号過程によって別のものにも変えられてしまうものを、霊的な主たちの領域が増幅する。生ある記号としてとどめるためには、こうした潜伏的だが実在する主たちの領域、彼が生き残るためには、ひとつの「それ」ではなく、ひとりの「私」として扱われる必要がある領域-によって解釈可能なものでいなければならない。要するに彼は主によって、ひとりの「あなた」として呼びかけられる能力を備えていなければならない

    主たちの潜伏的な領域は、物理的には森の奥深くに位置する。それは森に宿る生ある諸自己の生態学-未来に関わる増え広がるネットワークをみずから創造する生態学から創発する。増え続けるこれらのネットワークは、主たちの未来の領域を形作るようになる。そのために、この霊的な領域は、その領域に参画する人間の言語や文化によっては説明できない仕方で、「生ある未来」の論理をとらえるようになる。

    この霊的な領域は、その領域に参画する人間の言語や文化によっては説明できない仕方で、「生ある未来」の論理をとらえるようになる。そして、このことがこうした領域を、象徴的でない人間の世界に対する象徴的な虚飾以上のものにする

    私たち諸自己がすべて聖人であるかもしれないという可能性さえも探求しようではないか。そのためには、創発する潜在的な「未来にある」主たちの領域とのあいだに、ローサのような自己が有する関係に注意を向けることが必要である。この領域は、多くのたぐいの死者、その多くのたぐいの身体、そしてその多くの死それぞれの歴史によって、ある「私」、自己である何かが形作られる未来の可能性の領域である。しかしながら、実際に主として、おそらく聖人として存在し続けていることは、単にこれらの他者からの直接的な影響によるのではない。なぜなら、彼女の連続性は、それらとの否定的な関係を通じてのみ、可能であるから。

    ★魂はただ死ぬのではない。それは生者が創造する潜伏的な未来の領域に存続する。

    私たちは、一般的にイコンを類似の観点から考えるが、イコン性質は、実際のところ気づかれなかったものの産物。

    生ある、私の連続性にある、有機体であるものとは、そうではないものから産出される、それは生き残らなかった多くの不在の系統と密接にかかわっており、そうした系統は、その周りの世界に適した形式を明らかにするために選別された。生者は、ある意味では、小枝に見間違えられたナナフシのように、気づかれなかったものたちである。自らではない者との関係のおかげで、潜伏的に形式にとどまり続け、時間の外部にある続けるものたちである。

    それゆえ、すべての生命には、これらの構成的な不在のおかげでそれに先行するもののすべての痕跡-そうではないものの痕跡-が宿る。

    主たちの領域は、森が創造する数多くの未来から生まれた。しかし、それは森以上のものである。ある単語はその意味を、それを解釈することになるであろう広大な象徴体系の創発に依っている。

    ★主たちの領域は、森の中の人間的ではない記号過程と、関わり合おうとする際に創発する、広大な潜伏的な体系である。つまり、主たちの領域は、言語のようである。ただし言語よりも、肉体的である。実際には、人間的ではない記号過程を通り抜ける、より広大な一帯の中にとらわれている。同時にそれは、より霊妙なものでもある。森の中にある領域なのだが、自然と人間的なるものをともども超出する。一言でいえば「超自然」である。

    人間であれ、非人間であれ、厳密に他者である存在を指示する場合でも、別の主体として理解されたこの別の名-その声がいかに弱かろうとも、未来にある「私」なるもののうちのひとつの潜伏する響きであるものを、呼び出すためなのだ。この呼びかけの過程において、対象になってしまうのを避けることが試練なのだ。

    その「私」にとって、「あなた」になることは、あなたを生者の領域から永遠に
    運び去ってしまうだろうから、。それでも絶えず、顔を合わせる諸々の「それ」や諸々の「あなた」に揺るがされることのない自己、つまりこうしたものをより広い「私たち」へと取り込むように成長しない事故は、生きた「わたし」ではないく、死んだ「わたし」の抜け殻である

    ★あれこれの未来を可能にする多数の死との関係において、生ある未来を思考すること、このことをこの人間的なるものを超えた人類学が習得できるようになる唯一の道は、この思考する森に息づく多くの実在する他者-動物、死者、精霊、と注意深くか関わり合うことなのである

    私自身が、行った民族誌的な黙想とは、私たちの思考を解き放つ試みだった。

    森は考えるといっても、それは結局、「森は考えるのだと人間が考えている」ということに過ぎないのではないか。しかしそうではない。「森が考える」ということは、森が考えていると人間が考えているということと同じではない。思考を、人間を超えて広がるものとして位置づけることもできるからだ。

    ★★思考はイメージを通じて作動する。イメージは、逸話や、夢、写真でもある

  • 思索

  •  人類学者でマギル大学(カナダ)准教授の著者が、南米エクアドル、アマゾン川上流域の森に住むルナ族に対して行ったフィールドワークを元にしたエスノグラフィー(民族誌)である。著者は本作によって、2014年のグレゴリー・ベイトソン賞を受賞している。

     単純に事実を記録した部分は、たいへん面白い。たとえば――。

     ルナ族は著者に対して、“外で寝るときには必ず仰向けに寝ろ!”とアドバイスをする。なぜなら、ジャガーに出くわしたとき、うつぶせに寝ると餌食だと思われるが、仰向けだと視線を合わすことでジャガーは放っておいてくれるから、と……。

     また、ルナ族は森で狩りをするときの獲物を、「森の主」(精霊)の家畜を主が分け与えてくれるものだと考える。だから、ときどき森に対して、木のうろに詰め込むなどして「貢ぎ物」をする。

     ルナ族は、飼い犬にどうしても言うことを聞かせたいとき(家畜の鳥を犬が噛むなどの「悪事」をしたとき)、薬草から抽出した幻覚作用のある汁を無理やり飲ませ、朦朧としたところで言い聞かせる(ドイヒー)。

     ……などという話が随所にあって、興趣尽きない。
     五十嵐大介の連作マンガ『魔女』に、アマゾンの熱帯雨林を舞台にした素晴らしい一編があったが、ちょうどあの作品のような面白さだ。

     ただ、事実をふまえて著者が考察している部分は、原文のせいなのか訳のせいなのか、非常にわかりにくい。正直なところ、何が言いたいのかさっぱりわからない。
     適当に一節引いてみよう。

    《生命がアマゾニアにて織りなす多くの層は、これらの人間的な記号過程の編み目よりも大きなものを増幅し、はっきりとさせる。その森が私たちを通じてそのありようを思考するのに任せるならば、私たち自身もまた常に何らかの仕方でいかにそのような編み目に編み込まれているのかを、そして、この事実と一緒にいかに概念的な作業をすることになるのかを、見定めることができよう。》

    《私たちをかたちづくるこの〈私たち〉が、いかに到来する布置のうちに多くのたぐいの存在を組み入れることができる創発する自己なのかを考えてみれば、こうしたことにはまさしく真実味があることがわかるだろう。私たち人間は、私たち自身を生み出し永続させるような多様な非人間的存在から、生み出されたものである。》

     著者の思索を記した部分は、全編こんな調子なのである。
     優れた作品なのかもしれないが、私の手には余った。

  •  アマゾニア(エクアドルの森林)の中で生きる人(ルナ)の民族誌であるが、非常に示唆的である。基本的に、「人間的なものを越えた人類学」を提唱している。ジャガーが人間をどうみるかとか、イヌをどのように説得するのかとか、死後どうなるのかとか、要するに、人間以外のものとの境界を越えていく人類の営みに焦点があたっている。このなかでパースの記号論(記号=思考=生命)がひかれ、それ自体で成立する「形式」(川の渦のようなもの)とか、人間が人間以外のものとの関係のなかで自己を決めていくということが書かれている。
     アニミズムは中国の古典を読むにも大事な要素だと思う。『論語』の「礼」とか「孝」に関する議論はこういうところからでているのだろう。ジャガーに「肉」とみられないために「まなざしを返せる」仰向けで寝るところなどは、『荘子』のカマキリがセミをねらう話しを思いだした。イヌが夢をみたり、嘘をついたりすることは、イヌを飼っている人にはよく分かると思う。
     動物行動学については、道徳を人間独自のものであることを前提としていて、少し不十分ではないかと思う。ドゥ・ヴァールの『共感の時代へ』とか『道徳性の起源』などの成果と組み合わせてほしいと思う。

  • 貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
    http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784750514628

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著者プロフィール

1968年生まれ。マギル大学人類学部准教授。グレゴリー・ベイトソン賞受賞(2014年)。

「2016年 『森は考える』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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