先日「暮しの手帖」の元副編集長二井康雄さんの本の中に出てきたので読んでみた。
さすが沢木耕太郎という内容。 まずはタイトルからしてオシャレで、まさか映画評だとは思わない。
”不意に「使われなかった人生」という言葉が降ってきた”ということだが、本書の中で淀川長治、吉永小百合との対談で、両者とも今の職業に就いてなかったら?という沢木からの問いに「教師」と答えるエピソードが紹介されている。この「if」の問いの選ばなかった先にあるのが「使われなかった人生」ということらしい。
そして、映画にはその「使われなかった人生」、自分が選ばなかった人生が存在し、それを疑似体験できる。だから素晴らしい!という主旨で話が進んでいく。
20世紀も終わりの頃、「暮しの手帖」誌上の連載「映画時評」70回の中からの30作品選り抜きとのこと。90年代後半は、確かにあまり映画を観に行ったりしてなかった頃。本書の30作の中で観たのは『バツダットカフェ』『スピード』『黄昏に燃えて』『ダンス・ウィズ・ウルヴズ』『フォーリングダウン』の5作のみ。知っていたけど見に行けなかったというのも少なく(『タクシーブルース』『フェイク』くらいか)、かなり初見の作品も多かった。当時はあまり見なかったハリウッド以外、いわゆる単館ものも多そうな感じ。今なら、けっこうカブってるんじゃないかと思うのだけど、ちょっと残念だ。
さて、二井副編集長のたっての頼みということで寄稿を受けた沢木だが、巷の映画評とは一線を画し、広告のない「暮しの手帖」ならではというか、配給元等に気遣うことなく自由に書いたと述べている。だからと言ってこき下ろしているものもなく、どの作品にもそこはかとなく愛情が注がれている。というか、自分がいいなと思ったものしか書いてないのだろう。その選択の自由度が「暮しの手帖」ならでは、ということなのだろう。
また、読んだ人が、その映画を観てみようと思えるように書いたとのクダリもある。それゆえかネタバレまでしないまでも、かなり詳細に映画のプログラムのイントロダクション以上に筋書、展開については詳しく書いてある(というのが鑑賞した映画の章を読んでみるとよく解る)。なので沢木の映画評をを読んで、もういいかもと思える作品もなきしもあらずだった。
本書を読んで見に行きたいなと思った作品は、『マダム・スザーツカ』『タクシーブルース』だな。どちらもロシア絡みの作品だ。
観た映画のツッコミどころが似ているのも嬉しいところ。
『黄昏に燃えて』、これは本書の中では厳しい評価の作品だが、自分の評価も高くない。ひとつにタイトル。これはこの作品に限らず当時多くの作品に見られた傾向だけど、この作品のタイトルもヒドイなと思った覚えがる。心優しい著者は「見終わって、これは困ったなと思ってしまった」とやんわりと書いている もうひとうが、主演の二人の熱演について、
「ニコルソンもストリープも、『心乱れて』よりはるかに濃厚な演技をしている。そのために、観ているあいだ中、優れた俳優たちが難しい役を巧みに演じている、という意識をなかなか排除できないのだ。」
と書く。 私はストリープが落ちぶれた感じを出すために付け歯をして臨んだ姿に「いくらなんでも」と悲しくなった。当時の映画評では、下品さを表現するのにストリープは、身なりでもなく、減量でもなく(もちろんそれらも工夫した上で)、口許(歯並び)でそれを表した、さすがである的なコメントを見たが、あこがれの女優がそこまでする姿にイタタマレナサを感じて、映画にのめりこめなかった。沢木が「役を巧みに演じている、という意識を排除できない」という感覚に似ている。 当時、デ・ニーロアプローチじゃないけど、なんかそういうのが流行ってたなあ、とそんなことを想い出したりもした。
『ダンス・ウィズ・ウルヴズ』は、
「この『ダンス・・・』には、私などにはとうてい作りようもないと思わせてしまう雄大さがあったのだ。」
という。この感覚、非常によく解る。沢木自身も自分が映画を撮ろうとは思わないがと前置きしながらの上記感想だけど、似た感覚を持った。とにかく圧倒された映画だった。これはエポックメイキングな作品になるだろなと思ったもの。 この作品的なプロットが繰り返されるたび(例えば『ラストサムライ』『アバター』etc.)、『ダンス・・・』の偉大さが思い出されるのだった。
そんなこんなの、愛情溢れる映画評だが、どの作品に対しても、直接作品に入って行くのでなく、導入部分とも言える、少し映画から離れたところから書き始めるエッセイ的な文章に実は味わいがある(これは本書全体を通しても言える。選り抜き30本の前後に追記された文章が、実はいちばん印象深かったりする)。
導入部分は「使われなかった人生」として自分の若かりし日々を語り、映画の中には、そんな自分が選ばなかった人生に溢れていると我々をいざない、おわりは「そこには銀の街につづく細い道があった」という章題で、
「スクリーンの向こうには、いくつもの街があり、人が居た。そこでさまざまな街と出会い、人に出会うことができた。映画を観ることで、確実に「もう一つの旅」ができる。」
と、お得意の”旅”というキーワードで更に映画への魅力を喚起する。
「銀の街」は、銀幕という言葉にちなんだ造語だとおもうが、〆の言葉も、極めて沢木耕太郎らしく、ダンディでオシャレなのであった。
「そう、スクリーンの向こうには、映画を介して知らなければ永遠に知らなかったような世界としての銀の街がある。」