大海軍を想う その興亡と遺産 (光人社ノンフィクション文庫 1080)

著者 :
  • 潮書房光人新社
4.50
  • (1)
  • (1)
  • (0)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 9
感想 : 1
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (546ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784769830801

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 戦中、戦後の軍事関連書籍の執筆者である伊藤正徳氏による海軍史とその想いを綴ったもの。35年ぶりに読んだが、あらためて当時の人々が、いかに帝国海軍に熱い思いを持ち、大きな期待を抱いていたかが伝わってきた。大海軍を築き上げるには長い年月と多大な投資が必要であるが、崩壊するのはあっという間であることも理解した。軍事力の大きな特徴だと思う。帝国海軍のことをよく知る人が、昭和31年に書かれた本であるから価値があるのだと感じた。

    「大海軍、大艦隊は結局亡びたけれども、その興隆は真に感銘的であった。その亡びるに当っても無為には亡びなかった。威海衛の清国艦隊や、旅順港のロシア艦隊や、キール軍港のドイツ艦隊とは明らかに選を異にした。よく戦って後に亡びた。そこには直接間接に多くの教訓があった」p1
    「明治初年、国を開いて世界舞台の末席に列なったときは、先ず五等国であったろう。二十余年後に、三等国まで成長して日清戦争を戦い、勝って二等国となり、十年後にロシアを破って一等国に昇進し、第一次世界大戦後には世界五大国の1つに位するようになった有史未曾有の大発展は、海軍を離れては語ることが出来ないのだ。そうしてその海軍は、国民の汗と気概とによって築き上げられたものであった」p14
    「(快速艦「吉野」)このような快速艦は造れるはずがないと言われた時代に、どうして「吉野」が突如として出現したかの物語は感銘的である。有名なるイギリスの造艦技師ペレットが、日本流にいえば斎戒沐浴、魂を打ち込んで設計した一代の傑作となって現れたのだ。ペレットは親日の英人ではあったが、貧しい国民が二百万円の大金を拠出して建艦するという精神に感激し、「神と相談しながら」、一艦よく数艦と戦う「神出鬼没」の新鋭艦を造ることを誓い、経験と創造力とを動員して作り上げたものである。20ノットは出るが、それ以上はどうか疑問であった。試運転で全速力を出したら速度計は24ノット近くを指した。ペレット技師長は監督官坂本大佐を顧みて成功を祝し、「これは貴国の国民が造ったものだ。ここに青年日本の姿を見る」と固く手を握った。自分の設計工夫を一言も自慢しないイギリス技師の奥床しさを感ずると同時に、ペレットの表現が正鵠を射たことを偲ぶのであった」p62
    「(黄海海戦の掛け率は、清国に七、日本に三の中、日本海軍の勝利を予言した米国ベルナップ提督)「日本の艦隊運動は実に見事に指揮されている。将兵の規律は厳しく、その責任に赴く勇気は驚くべきものがある。小国なりといえども彼等は優れた素質と勇気とをもって他のアジア諸人種を遥かに凌いでいる。もしも、同等の艦隊をもってイギリスの提督と戦わしめたなら、余はその勝敗を予断するに苦しむものである。いずれにしても日本は、東洋において英国の最も恐るべき競争相手になることは明らかだ。日本の海軍はやがて恐るべき海軍になろう」。が、これは本当の例外であって、戦前の海戦予想は、大部分が「定遠」「鎮遠」の二大装甲艦を中軸とする清国艦隊の優勢を認め、日本の無鋼装快速艦「吉野」がどんな太刀撃ちをするかが見物である、といった程度であった」p72
    「艦隊運動と共に、世界の戦評を賑わしたのは、日本艦隊の「速射砲」とその命中率であった。「定遠」「鎮遠」の有名な12インチ巨砲は勿論日本艦隊を苦しめた。「鎮遠」の放った一発は、旗艦「松島」に命中して、一挙に96名の死傷者を生じた。他の11艦の死傷者合計185名に比べてその痛撃の大なるを知るわけだが、我が三景艦の12インチ半砲はほとんど効果を奏さなかった。実践中に発射した弾数は「松島」0、「橋立」1、「厳島」1という嘘のような少数であり、しかも、それが命中して被害を与えたという記録は残っていない。「定遠」に命中している我が砲弾は159発の多きに達したが(驚くべき集弾である)しかも、鋼板を4インチ以上貫徹したものは1発もない。だからこの二大艦は200発という砲弾を被りながら旅順港に帰り得たわけだ。ただ、両艦とも度々火災を起こして戦闘力を中断されたのは、命中率のよい我が速射砲の威力によるもので、それが敵将兵の戦意を挫く上に大きい作用を演じたことは争われない。就中、「定遠」の火災は容易に鎮火せず、完全に消えたのは旅順港に逃入した後であった。敵艦「来遠」の如きは225発も被弾した。これでは大砲を撃っているいとまがない。そこで「速射砲」が世界海軍界の論題になったのである」p82
    「国民義金の建艦も、艦隊運動も、砲撃の精度も、大いに勝因に相違なかったが、燃え立った愛国心と勇気とが、兵術思想の未だ若かった時代には、特に大きい勝因に数えられるのであった(近接戦闘での勝利)」p88
    「(触雷によるマカロフの戦死)興味があるのは、それが、日本海軍の使用した最初の機雷であったことだ」p171
    「軍艦「清輝」の時代から、営々として骨肉を削った先人の細胞が積まれ、洗練され、集成された結果でしかない。一千トン未満の巡洋艦「清輝」を造り、それに試乗して欧米を巡行した人々の国産魂が、やがて七万トンの戦艦「大和」に帰結したのであって、今の人が直ちに造船の誇りを自分の専有と勘違いするようなら、その民族の将来は決して望み多いものではなかろう」p306
    「ひとり戦艦ばかりではなく、巡洋艦では「天龍」型と呼ばれた高速軽巡が世界の注目を惹き、それを改良した5500トン型が長く軽巡の王座を占めていた。駆逐艦「島風」は大正9年においてすでに40ノットを超える公試速力を出し、世界の最速軍艦の記録を作った。かかる輝かしい造艦の進歩は、当事者の天分と努力の成果であるが、ここに特記すべきは、造艦の中心人物が、例外なく英国のグリニッジ海軍大学校で三か年の造艦術の課程をふみ、その天分に基本的の磨きをかけたことである」p312
    「(世界一流機の国産)三菱内燃機が技師をフランスに派したのは大正8年であった。9年には海軍は英のショート会社の技師を招いて飛行艇製作を教わり、そのまま製作権を愛知時計に引継いだ。10年には三菱、住友の技師一行がドイツのロールバッハに習いに行った。一方に三菱は英の有名な技師スミス一行に招聘して指導を受け、そこで10式艦上機の製作に成功し、それから引続き、愛知時計はドイツからハインケル博士、三菱はバウマン博士、中島飛行機は仏国ブレゲー会社の技師団を呼んで教わるといった風に、鋭意良機の生産に邁進したのであった」p347
    「(友鶴事件と第四艦隊事件)一方において「大自然の力」が測り知るべからざる威力を揮うという事実を考察しなければならないであろう。言い換えれば「大自然と人間との争い」においては、往々にして人間が負けるという現象の一面を正視する必要があることだ」p424
    「(「大和」「武蔵」の最大の自慢)有史最大最重の砲塔(1基2200トン)を、あたかも己が手足を動かすように、軽々と、スムースに動かす動力の施設であった。「長門」のレシプロ600馬力で動かすためには、機関が24基も必要になる計算であり、そのスペースは、軍艦の中に大きい工場を別に作るようなものである。現れたのは、実に6000馬力のタービン機関4基であった。世界最初の砲塔用タービンだ。その力は戦艦「三笠」をらくに走らせてなお余力がある。これにより、火薬と砲弾を塔下15mの弾火薬庫から揚げて装填発射するまでの操作を、僅か30秒から40秒の間隔で実施することも出来た。どの見地からも、砲塔を操作する水圧ポンプは驚異的のものであった。アメリカ海軍の「大和」研究の最高技術官は調査の研究感想を述べて、「「大和」を造れと命じられれば我々もそれを造ったであろう。ただ18インチ砲塔を旋回する水圧ポンプだけは確信が持てなかった。この点は正直に頭を下げる」と直言した。これは菱川萬三郎造兵中将の手柄の1つであるが、このタービン利用方式は、前年戦艦「比叡」を改造するに際し、、造機の権威中将渋谷隆太郎、同技師長井安式等と、菱川、秦等の技術陣とが考究実施し、今後の大戦艦の為に用意を済ませておいたものであった。要するに大砲塔施設と超高力水圧ポンプとは古来人間が軍艦の上に構築した最高の技術であったことに疑いない」p460
    「「海軍はいい所であった」というのが、海軍を去った人々の合言葉であることは注目すべき現象である。大佐止まりで予備役に落とされた連中から、海軍の悪口を聞いたことは、筆者の知る限りにおいては絶無であった。首になった者が、後までその会社を褒めるのは、余程いい会社であるに相違ないのである」p499

全1件中 1 - 1件を表示

伊藤正徳の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×