- Amazon.co.jp ・本 (325ページ)
- / ISBN・EAN: 9784783511953
作品紹介・あらすじ
ニューギニアの部落からサイバネティクスまで、また精神分裂の世界から生物の進化までを今世紀の知の辺境を跋渉した巨人が、深い言葉で綴る。"生きた世界の認識論"。
感想・レビュー・書評
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タイトルはなんとなくカルトっぽいようなスピリチュアルっぽいような雰囲気があるが、中身はそこまでではない。ドーキンスの「利己的な遺伝子」やヴァレーラ/マトゥラーナ「知恵の樹」みたいな本を想像するとわかりやすい(あれはあれで胡散臭いが)。
生物が世界をいかにして認識するのか、あるいはそうした認識はいかなる進化の過程を経て成立したのか、サイバネティクス的な視点でもって考察していく。全体として、ストカスティックなプロセスを重視して、生物の認識過程や進化過程をみていく。
生物学的な正しさについては正直よくわからない。しかし、学際的な現代思想の本、あるいは社会科学本としてはいろいろなヒントが得られる。組織論や戦略論、とくに動態的な変化を伴うそれらを考えるにも、有効な視点を提供してくれる。もともとサイバネティクスは、経営学はじめ社会科学と相性がよさそう。そんなつもりで読むのが面白いだろう。
ただ、決して読みやすい本ではなかった。重要な事項にたどり着くまでに、二重三重の前提条件と事例の提示を経ねばならずかなりまわりくどい。ときどき自分が何を読んでいるのかわからなくなってくる。簡単に全体像を押さえてから読むいいと思う。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
◆きっかけ
YouTube SENSORS公式チャンネルの2018/7/23公開の動画 「落合陽一が今"オススメしたい本"は? 」がきっかけ。
『デジタルネイチャー』執筆にあたって影響を受けた本として、落合氏はデカルトの『精神と自然』をあげていて、その流れで
「『デカルトからベイトソンへ』のオマージュで、世界の再魔術化をテーマに『魔法の世紀』を書いた」
と言っていた。
続けて次のように発言していた。
「精神と自然というと我々の社会ではもはや人間の精神だけではない。
つまりデジタルネイチャーって融合自然をもたらしている…っていうような状態を作ってて、なんかそういうところをフックに、なんかそういう思想本みたいなのを17世紀くらいからポチポチと読み漁るプログラマー がいてもいいかなぁという本なんですけど。
ここで重要なのは、それを読み漁った結果プログラムを書かない奴を作りたいわけじゃなくてですね、なんかそれを読み漁ってプログラムを書く人を作りたいんですけどね。と思いながら書きましたけどね。
売り上げは好調なんですけど恐ろしくなんか不思議な本なんで。」とのこと。
彼の発言から、読みたい本が増えたし、彼の著作も読みたいと思った。読み漁ってプログラム書きたい。2019/2/11 -
「学校の生徒もみんなしっておる」という皮肉めいた名前の章がとてもよかった。常々忘れがちな前提を確認できる。
「精神の生態学」とかぶるところもおおいけれど、こっちの方が読みやすい。(なによりページ数が少ないところがいい)
必要最低限の保守性(両立性、一貫性)をそなえて後は修正可能な部分を持っておく。
時代遅れを修正するとき、過去の遺産と戦っていこうとするときにわれわれを悩ますジレンマは、その古びたものを手放してしまったら一貫性も明晰さも両立性もそして正気までも失ってしまうのではないかという恐れ。
しかし、時代遅れにはもう一つの局面が存在する。文化システムの中に早すぎる部分が在るから、ついていけない部分が生じる。
つまり時代遅れというものは二つの部分の不均衡から起こる。そして、一方の停滞の理由が自然選択の内半分にあるとすれば、あまりにも急速な進歩の根が外的な選択の働きによる、と推測できる。(進化を操縦すべき二つの構成要素の距離があまりに開きすぎてしまったから)
夢とはまさに内的一貫性のチェックを受けない部分。
人間を振り分けるこの対称性が、実は生ある世界を成り立たせる弁証法的な対極性なのだということ、この点を忘れてはならない。
夜なきところに昼は現れない。
ではいかにして両者を組み合わせるのか。問題はそこにある。←個々の熱狂ドグマのレベルから一段高いレベルに上る事(メタ化)
問題の鍵はテンポの調節
社会的変化の選択に個人的な安楽さと不快さという基準しかなく、新たな事態によって新たな不快感が生じるまではメンバー対カテゴリーという論理階型の基本的相違さえ忘れられている。
全面進歩でも全面保守でもだめ。
一つの偏った精神が支配するよりは二つの偏った精神が抗争する方がましだと言えるが、抗争システムからは妥当な決定は期待できません。論自体の持つ力ではなく、抗争力の強弱によって決着がつくという性悪な特徴が抗争システムにはつきものだから。
権力が腐敗するのではなく、権力の神話が腐敗する。
チェスで言うところの勝利ではなく一歩一歩最上の打ち手を求めよ。これを持続するのは並大抵の努力ではありません。(より大きなゲシュタルトの中で考えなければなりません) -
今回のテーマは、グレゴリー・ベイトソンの思想です。
グレゴリー・ベイトソンの考えについての理解を深めます。また、社会システム理論やパターン・ランゲージなどの考え方に通じる点について考えます。これらが、自分たちの研究・関心にどうつながっているのかを考えてください。 -
結構しんどい読書だった。こちらの理解度が低いという意味で☆も3つで。本書は「精神」をいかように説明するべきか?という内容なんであって、精神が何であるかという問いに答えるものではないのだろう。説明のために引っ張り出されるのが、パターンと量、形態と機能、ストカスティックやトートロジーというベイトソン流の理論や概念装置なのだが、これらをまず理解することが難しい。。。
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たまたま気づいた。中沢新一の『野生の科学』を読んだあとに本書を読んだ。そしたら、本書が中沢氏の著作のベースの多くの部分を占めているということに気づいた。もっとも、『野生の科学』にはベイトソンは登場しないが。
「ストカスティック」(確率論的)という言葉を初めて知ったが、とてもいい言葉。 -
相変わらずベイトソン、たくさんのジャンルを縦断しつつ、生命=世界=自然=精神、について知を駆使している。その博学ぶりには驚くしかない。
「パターン」と呼ぶものが連結・相互作用しつつさらに大きなパターン(メタ・パターン)を成していく、という詩的は、確かに生物において常に見られることなのかもしれない。「パターン論」は音楽にも適用できるはずなので、ちょっと興味深かった。
第2章「誰もが学校で習うこと」が面白い。どこの国でも、やはり学校の先生はいちばん大事なことを教えてくれない、ということらしい。ベイトソンは「学校で教えるべきなのに教えてくれていないこと」を列挙してゆく。多様な視点からの抽出で、実にベイトソンらしい。
ただ、かつて『精神の生態学』を読んだ際にも感じたことだが、ベイトソンの思考は最終的に収斂してゆく地点がどこなのか、漠然としていてよくわからない。
最後の方は進化論に関する議論なのだが、ここでいう「自然選択」というものが、ダーウィンの「自然淘汰」と同じものなのか違うものなのかという点、はっきりしなかった。進化論は大筋ではたしかだと思うが、具体的に「どのようにして」進化が進んできたのか、私にはよくわからない。ベイトソンが言っていることも、どうもすっきししないのである。
ランダムに生じる遺伝子変化のうち、「自然選択」された環境適応的な遺伝が、最終的にその種の大半を覆い尽くすためには、たぶん何百何千、あるいは何万もの世代交代にわたる繁殖が必要だと素人的には思われる。すると、今こうしているあいだにも、世界のどこかに、「より進化した次世代人類」が存在していなければおかしいのではないか。ランダムな遺伝子変化が常にもっとたくさん見られなければ、永久に「進化」はやってこないような気がしてしまう。
・・・しかし、確か現代進化論も諸説があってすっきりとはしていなかったような記憶がある。もう少し進化論について読んでみるか。 -
精神を物質と分けて考えるのでなく、同一の観点から捉えなおすこと。対象を対象として捉えるのではなく、その差異と相互作用に注目すること。学習というプロセスと進化と呼ばれる変化から、同一のアナロジーを見い出すこと。ベイトソンが目指す地平は、物質や精神、生命と環境といった切り分けられたいったものの関連性を掘り下げ、分断された概念の間に共通の橋を渡そうとするものだったのかもしれない。学習とは"教え""学ぶ"という二元的なものではなく、〈刺激〉〈反応〉〈強化〉という3つの構成要素が必用なのだという主張にはハッとさせられた。
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「対象を見固めるのでなく、対象をこえてつながるパターンをこそ見つめること」
そうあとがきにある通り、差異あるもの間の比較から浮かび上がる、それらをつなぐパターンを見つけだし科学・宗教・社会・美・精神その他世界の様々を包括する規則を探る、知の巨人ベイトソンの思索を味わう本。
引き合いに出される対象が生物の発生から進化論、科学論にサイバネティクスと多岐かつ深く、さらにベイトソンなりの語句の定義が盛り合わさり話題についていくのが大変ではあるが、博学趣味の人ならこのつながるパターンの大局がたまらないのではないだろうか。