沈黙の子どもたち──軍はなぜ市民を大量殺害したか

著者 :
  • 晶文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784794970923

作品紹介・あらすじ

アウシュヴィッツ、南京、ゲルニカ、沖縄、広島・長崎……。軍による市民の大量殺害はなぜ起きたのか。戦争や紛争による市民の犠牲者をなくすことはできるのか。様々な資料と現地取材をもとに、市民の大量殺害を引き起こす軍事組織の「内在的論理」を明らかにし、悲劇の原因と構造を読み解くノンフィクション。未来を戦争に奪われる子どもたちをこれ以上生み出さないために、いまわたしたちにできること。

感想・レビュー・書評

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  • 本書で取り扱われるのは、アウシュヴィッツや南京、広島・長崎といった、いずれも二〇世紀に起こった大量殺戮(ホロコースト)である。ただし、ここで問題にされているのはその数字的インパクトではなく、これらを貫徹している「合理性」である。
    合理的という表現は、通常肯定的な意味で使われる。しかし、企業によるリストラを「合理化」と呼ぶことがあるが、これは経営者にとっての合理性であって、解雇される労働者にとっては非合理性に他ならない。もちろんこれは戦争とは次元の異なる問題であるが、合理性が非合理性へと反転しうること、それが本書の主題である。
    アイヒマンをはじめとして、アウシュヴィッツに代表される強制収容所での大量虐殺に関与した戦犯の多くは、それが人道的に許されないと自覚しつつも、みずからは命令に従い職務を遂行したに過ぎないとして、その正当性を主張した。命令への服従と職務への忠実は一般に美徳とされるが、まさにその合理性こそがアウシュビッツの野蛮を可能にしたのである。
    南京では多くの民間人がスパイや偽装兵と疑われ、正当な手続きもなく予断によって殺されていった。それを歴史に残るほどの規模に拡大させてしまったのは、戦時におけるやむを得ぬ行為という論理が、残虐性に対する不感症を引き起こしたからである。沖縄戦での集団自決を含む県民の大量被害も、この論理の延長線上にある。
    現代も紛争やテロは絶えないが、二つの世界大戦の反動から国家間の戦争はしだいに影を潜めていった。しかし、合理性が非合理性を生み、多くの犠牲をもたらすという観点から見ると、まだわれわれはこの問題を解決したとは言いがたい。
    ミヒャエル・エンデはしばしば、「第三次世界大戦は始まっている。それは領土をめぐる戦争ではなく、時間に対する戦争である」と言っていた。それは、われわれが自分たちの子孫に対して戦争を仕掛けているという意味である。これは、直接的には貧困問題を指している。
    かつて貧困は発展途上国における問題であり、現在でもこれは解決済みではない。しかし、先進国においても一部の人間に富が集中し、もう一方に大量の貧困層が存在するという問題、そしてその溝は埋まるどころかますます広がってゆくという問題が顕著になっているのはご存知の通りである。
    この傾向を大きく後押ししているのが、他ならぬ経済的合理性である。新自由主義が下火になっても、利潤の追求のみを第一とする風潮は、衰えるどころか勢いを増している。富は努力の結果であり正当な権利であるという考えは、貧しさは努力不足の証拠という理屈へと反転し、やがて貧しい者は滅んでも仕方ない、むしろ滅べという自己責任論に帰着する。
    しかし、「社会のお荷物」を切り捨てたところで、残った人間の中の底辺が再び「お荷物」とみなされるだけで、このような考え方は際限なく人間を切り捨てていく。そして、目の前の人間がどれほど惨めな状況にあっても、それを「自己責任」と片付けてしまう冷酷さは、アウシュヴィッツや南京に見られた冷酷さの相似形と言えないだろうか。
    もちろん、貧困問題を「戦争」と捉えるのはあくまでもメタファーであり、突如として経済の話題を持ち出すのは、著者の目論見からすれば逸脱もいいところである。本書の最終章では、戦時において非道を遂行させる合理性に対峙するために、どのような論理を持ちうるかが議論される。しかし、どの合理性を採用するかではなく、合理性一般が問題なのだとしたら、その射程はもっと広大である。
    人間とは決して合理的な存在ではなく、合理化とは合理的なものに変えることではなくて合理的な部分のみを切り取っているに過ぎない。合理性がもたらす恩恵と引き換えに、われわれは自分自身を切りつけている。そして、もっとも沈黙なる子どもたちは、まだ生まれていないわれわれの子孫である。

  • 主に戦時下において軍が一般市民を殺害した事例が7つ(ナチスの仕業と日本軍の仕業3例ずつ+広島・長崎への原爆投下)紹介されている。どの事例も読むだに、戦争的なもの、軍隊的なものって人を狂わせるなと思う。軍隊って国民を守るためでなく「国防」の名のとおり国を守るためにあるのか。そして国体を守るために、国民の命はないがしろにされる。
    紹介されている事例のなかに、綿密に計画されたものというより偶然や予定外のことに端を発して起こっているのがけっこうあるのも何ともむなしい。ちょっとしたタイミングやいた場所の違いによって人の力……暴力で命が左右されるなんて。
    巻末のまとめの論考では、ドイツと日本の戦後の反省の違いが述べられている。ドイツに比べ、何の省察も謝罪もしていない日本というのは確かだけど、ドイツをほめ過ぎな気も。ドイツはきっと自らまだ不十分であることを自覚しているだろうから。
    それから、蛮行に至った理由を「命令されたから」「組織系統上、服従せざるをえなかった」などと言い訳することについても断じている。この点でもドイツ軍は理不尽な命令、人倫にもとる命令は拒否しなければいけないことになっているとか。そう確かに、命令を拒否することができたら、この本で紹介されているような事例だって起こらなかったかも。
    「命令されたから」的なことって自分の日常でも、それらしきことあるよね。ちゃんとおかしなことにはおかしいと言えないといけない……のだけど……自分もまだまだ弱い。

  • 世界で行われてきたホロスコープを俯瞰的に知ることできる。このタイミングで読んで、とてもクリティカルで、深く考えさせられ、胸が痛んだ。

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著者プロフィール

山崎雅弘(やまざき・まさひろ) 1967年生まれ。戦史・紛争史研究家。

「2020年 『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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