- Amazon.co.jp ・本 (200ページ)
- / ISBN・EAN: 9784811806662
作品紹介・あらすじ
★「こんな不況でよかったね。
親や先生は将来のためにがんばりなさいと言うけれど、
そんな生き方はみんなカラ手形になりました」
★義務教育から大学院、2年間のオーバードクターを含む24年の学生生活。
そして偏差値四流校から東大までの教師生活。
学校教育の受益者にして被害者という上野千鶴子が直言!
★評価に怯える優等生シンドロームの東大生、
子育てに追い込まれた「音羽の母」。
学校的価値に覆われた息苦しい社会をどう超えるか。
★学校はけっして人生のすべてじゃない。
こちらがダメならあちらがある、会社がつぶれても私は生きられる……
多元的な価値を見いだし、生き抜く「知恵」をつけよう。
これは希望のメッセージです。
【2015.5.22】四六判の紙書籍は品切になりました。筑摩書房より刊行されている文庫版か、電子書籍版をごらんください。
感想・レビュー・書評
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人間教育とかいいから学校は知育に特化すべきって同意すぎる。
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2019/04/15
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2024.02.22 古い本ではあるが、十分に納得かつ共感できる素晴らしい本。たくさんの気づきを得ることができた。上野先生の本は、やはり面白い。
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370
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この本は、私が学群の2年生のときに、とある授業の参考図書として読んだ本です。主な内容は学校教育に関してなのですが、筆者であり大学教授である上野千鶴子は、自身の教授生活を振り返りながら、現在の学校制度が「だれも幸せにしないシステム」(p. 57)であると声高に主張しています。
当時の私はそれまでほとんど教育に関する文献を読んでいませんでしたが、早くして手にしたのがこの本だったこともあり、非常に大きな衝撃を受けました。上野が本書において痛烈に批判しているのは、「学校化社会」です。「学校化社会」とは、「学校的価値が学校空間からあふれ出し、にじみ出し、それ以外の社会にも浸透していった」(p. 50)社会のことを指しており、今の日本社会に広く当てはまる現象だと思われます。そして上野は、これからの教育が目指すべき社会とは、このような学校的価値で一元化された社会ではなく、社会的価値が多元化した、自尊感情が奪われることのない社会であると述べています。
「教育」と「学校」とが強く結びついて語られることの多い昨今ですが、本書は「教育」についてより柔軟に考えることのできるきっかけを与えてくれます。
(ラーニング・アドバイザー/教育 OYAMADA)
▼筑波大学附属図書館の所蔵情報はこちら
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=1260883 -
生涯学習論を学んだ人間にとって、イリッチの「学校化社会」、ブルデューの「階級の再生産」、そして「ヒドゥンカリキュラム」など、本書で取り上げられる数々の生涯教育哲学とも呼べる言説たちは耳障りがよい。
それに加え、上野先生の現場から得た知見、研究から培ってきた独自の考え方が織り成され、本書は教育学関連でも類を見ないバイブルとなったことは言うまでもない。
奇しくも本書が刊行されたのは2002年4月1日であり、私自身が大学に入学した日ではないか。しかし、何故か本書を学生時代一度も読むことはなかった(研究室にもあったのに)。理由は定かではないが、大学卒業から10年が経とうとする今のタイミングで読めたことは何か因果なことなのかもしれない。
思うに、結局のところ、今の社会は「学校化社会」から一向に抜け出す気配すらない。みんなやっぱり学歴、偏差値で序列化されることが好きなんだろう。
あと、本書の内容からは直接的には関係ないのだが、気づいたことがある。
昨今よく感じることは一人ひとりの嗜好や興味があまりにも多様化かつ複雑化しているということ。たぶん本書が刊行された10年以上前よりもそれは顕著になっている。
本書に書いてあったことだが、人はあまりにも異質度の高いものであれば認知的不協和を起こすという。しかし、本来であれば異質度が高く、認知的不協和を引き起こすものであっても、ジャンルの細分化が起きている現代社会においては、それを理解するように振舞うことが一種の作法になっているのではないかと。つまりは細分化され本来ならその道のプロにしかわからないようなこと、特にアートや音楽など様々な分野の中で、人はそれをわかったような気分になっているだけではないだろうか。
これも暗黙のうちに人は予定調和的な同調システムに知らず知らずに組み込まれているようでならない。自分ではオリジナリティ、独自性の追求、ライフスタイルの充実と思っていたとしても。 -
学校の弊害や、それによって生み出された生徒たちが学校化社会を作っていることに対して警鐘を鳴らしている本。学校的価値、業績原理と国民化が諸悪の根源であるとしている。いくつかの非常に有意義な発見があった。近代の学校は、国家が整えた1つの制度で、そこで人間がある規格にはめられ標準化されるーーそれを国民化と言うが、生まれも環境もバラバラな人間を、均質な日本国民に仕立て上げていく授業が行われた。同じような国民化の装置として、国民皆兵による軍隊をあげることができるが、この2つはともに、従順な身体を作る装置だと言うことができる。
学校での競争は決して白紙の状態で、公正・平等に行われているわけではない。初めからゴールで差がつくようになっている。ブルデューは、学校とはもともと階層差のある子供たちを下の階層に再生産するための、ふるい分けの装置だ、と言っている。しかし、学校での成績と社会的な階層とは密接に関係していて、上の階層の出身者は成績上位に、下の階層の出身者は成績下位に落ち着く傾向があり、本人の努力とは言い切れないほどの関連性がある。それが学校での成績によって「あいつはがんばってたから」と納得され、社会的にも正当化されてしまう。
イリイチは、学校に行くということはシャドウワークだと言った。あんなにつまらない、かったるい、ストレスの多い一日を過ごしていることを、労働と言わずしてなんというのか。子どもたちは毎朝、カバンを持って出勤しているのと同じである。賃金を払われないシャドウワーカーが、学校在籍中の子どもたちである。
未来のために今をガマンする生き方はやめよう!偏差値の呪縛から自分を解放し、自分が気持ちいいと思えることを自分で探りあてながら、将来のためではなく現在を精いっぱい楽しく生きる。作者からのメッセージはこれにつきる。 -
読んでて自分が批判されている気分になる本笑