- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784815612313
作品紹介・あらすじ
歴史から教訓を得て、いまに活かす。「歴史に学べ」とはよく言われるが、それはいったいどういうことなのか。本書は日本史における六つのターニングポイントをたどりなら、歴史を学ぶ上で、重要な理論や視点が身につけられるように構成されている。歴史を読み解く目、歴史を考える頭、歴史を語る言葉。東大教授が教える歴史の本質がわかる一冊。
感想・レビュー・書評
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歴史を学ぶモチベーションになればと思って読んだが、そこまでの刺激はなかった。
歴史学者がどのように史実から史像を、そして史観(歴史観)を導き出しているのかというイメージはついた。 -
内乱が時代の区切りをつける。
戦争が歴史を作る。かなしいですが、過去からの事実のようです。 -
■中世史専門の著者による日本史の学び方論。日本史の学び方には、講談のような物語を通じて学ぶ方法、学校の日本史のような暗記科目のように学ぶ方法があるとし、筆者はその間の方法を模索している。
■この本では、壬申の乱や関ヶ原の戦いなど日本史における6つのターニングポイントから、日本史を見ることを提案している。
■日本は歴史資料が世界で最も多く残っている国とのこと。歴史を読み解く目、歴史を考える頭、歴史を語る言葉を身につけると、自分の「来し方行く末」を考えるようになる。個人的にも日本の歴史を探求していきたい。 -
ここ数年はこの本の著者である本郷氏の本を追いかけています、今年(令和4年)の1月上旬に出版された本で、すぐに読みましたが、レビューを書くのが今になってしましました。
本郷氏の本の特徴は、単なる歴史的な事件の解説にとどまらず、なぜ現代人は歴史を学ぶべきなのか、それがどう活かせるかについても書かれていることです。私が歴史を学校で勉強した40年程前は、歴史とは単なる暗記科目というイメージでしたが、受験から解放された今、楽しむだけではなく、自分の今後の生活になんらか役に立たせたい、という思いで歴史に取り組みたく思っています。
以下は気になったポイントです。
・筆者(私)は因果の関係をきちんと説明して、物語性のある読み物として面白い教科書作りを心がけることで、学生達に歴史とは何かを考えてもらうかと思った。しかし、そのような教科書は受験では使えないからダメ、ということになった(p24)
・日本では、外圧が起因となった「白村江の戦い」「元寇」「幕末・明治維新」では、いずれもその後、国内の改革が進みました。言い方を変えれば外圧がなければ何も変わらないほど、日本は「ぬるい」のである(p31)
・キリスト教では唯一の存在である神を信じ善行を積めば神がいる天国に行くことができるとしている、それは一向宗も似ている。阿弥陀仏に帰依することで、阿弥陀仏がいる西方浄土に往生できると一向宗は解いている、なのでキリシタンも一向宗も一度弾圧されれば、甚大な被害あるいは全滅したりするまで抵抗を止めなかった。一神教を奉じる国の戦いが殲滅戦になるのは、多神教を信じる日本人にとっては考え難いことなのかもしれない(p33)
・史実から史像を組み立てるときには、どんな論理的な基準が必要か、これには帰納法(史実のさまざまな個別なデータを分析し、それぞれに共通するものや傾向を導き出して、史像を組み立ていく方法)と、演繹法(例えば、仮説をたててその歴史像から発送して、個別の史実を一つ一つ解釈すること)がある(p43)
・奈良は西の玄関口である九州からある程度距離をおいた安全な場所だった、古代日本において奈良は東の外れに位置していた。奈良に置かれた都に対する奥の院は、伊勢だったと考えられる、そこには天皇の祖先である天照大神を祀る伊勢神宮が置かれた(p57)
・663年、白村江の戦いに大敗を喫した中大兄皇子は、唐・新羅の侵攻に備えて、飛鳥から近江大津京に都を移し、668年に天智天皇となった(p59)
・壬申の乱において、大海人皇子(後の天武天皇)は東国精力を味方につけ、不破関をはじめとする東西を結ぶ要所を押さえることで勝利を得た、この不破のせきは戦国時代末期に行われた関ヶ原として知られる土地である(p63)天武天皇は、壬申の乱後に、北陸から都に至る北陸道には「愛発関」東山道には不破関、東海道には鈴鹿関を整備した。この3つの関所を結ぶラインは、日本列島をちょうど東西半分に分ける形になる、この関のラインから西が大和政権にとっての「こちら側=内側」反対に関の東側は関の外、すなわち「関東」である。古来、関東とは中部地方も含む広大な領域を指していた(p64)
・聖武天皇の時代には、全国に国分寺・国分尼寺が造営され、観念的には日本は一つであると意識されるようになったと言える。桓武天皇の頃には征夷大将軍として坂上田村麻呂を東北地方へ派遣し、中部地方は西国の勢力へと組み込まれたので、関東は箱根の関から東側、つまり現在の関東地方の姿を形作るようになった(p66)
・天武天皇以降、列島各地に国が置かれたが、これは今でいう県のようなもの。朝廷の出先機関として国衙(県庁)が置かれた。国衙には中央から派遣された地方官(国司)が赴任する、国司には、守・介・掾(じょう)目(さかん)という4つの等級がある、これらの中から私営田を開墾した在地領主になっていった(p80)
・関東には源氏よりも先に平氏が土着していた、鎌倉時代の有力な三浦氏(相模)上総氏(上総)千葉氏(下総)、畠山氏(武蔵)は、いずれも平氏である(p82)
・江戸の三大祭は、日枝神社の山王祭、富岡八幡宮の深川祭、神田神社の神田祭であるが、神田神社は平将門を祀っている(p85)
・中世に限らず現代においてもそうだが、クーデターを起こして権力の座についた新たな政権の正当性を、何が保証してくれるかという問題がある(p93)
・中世日本の国家に対する考え方は2つある、権門体制論と東国国家論である。権門体制論は、天皇という精力を、公家(貴族)・武家(武士)・寺家(僧)が支える体制、東国国家論は、西国の天皇を中心とする政権とは別に、東国には別の政権があったとする説である、どちらの立場を取るかで鎌倉幕府の成立年代は変わってくる(p113)
・承久の乱を境に明治維新に至るまで、約650年に渡って、日本の政治は武士が司るようになった。日本史最大のターニングポイントであったと言っても過言ではない(p118)
・戦場にルールがあることが常であった時代、その掟を破って仕舞えば、たとえ勝ったとしてもその他の武士からは認められなかった。だからこそ武士達は一定のルールに則って戦をした。だからこそ、義経は源平の合戦での活躍にもかかわらず大した恩賞には与えられず、兄頼朝と対立した際には付き従う武士はいなかった(p120)
・京都にいた守護大名の多くは、応仁の乱後、領国に戻り戦国大名に転身することができずに没落した、これとは逆に京都に常勤する義務のなかった関東、東北、九州の守護大名(関東東北は鎌倉公方、九州は九州探題)の多くは、もともと地元に張り付いていたので、そのまま戦国大名になることができた(p151、152)
・江戸時代を通じて天皇はあまり重視されてこなかったという実例として、江戸時代に女性天皇がいたという事実、明正天皇、後桜町天皇(p174)
2022年2月6日作成 -
歴史を学び考えることを事例を用いて分かりやすく解説しており非常に面白い。0,1の両極端な議論ではなく、両者が併存してバランスを取っているというモノの捉え方が本書を通じて垣間見え、納得感がある論として読むことができた。大河に関連する箇所もありそれもGood。
どこかの先生がどう言っていたという所はうまく頭に入らず飛ばしながら読んでしまった。 -
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本郷和人さんとか井沢元彦さんに出会ってから日本史面白いと思うようになった。本郷さんは視点とか因果関係とかを明確にしてる所とか、日本史に珍しく固有名詞に囚われない所が面白い。 -
筆者の作品はいくつも読んでいるが、重複感は否めない。
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ブルーバックス的な立ち位置なのか。研究と会社勤めやった自分には、著者が言う歴史を学ぶ意味がちょっと弱い気がした。
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人間の感情と行動は、必ずしも一致しない。
日本は、血縁よりも家格を重視してきたようだ。
様々に想像して歴史を学ぶ。