ことばの創りかた: 現代演劇ひろい文

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  • 論創社
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  • Amazon.co.jp ・本 (345ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784846011895

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  • ベケット空間
    「形象と形象の相互性による抽象体」ではなく、「フォルムとフォルムの融合による具象体

    形象演劇 vs 状況演劇
    「形象演劇」においては、あらゆる行為はその「形象」の論理性のために制御されるのであるから、当然行為の連続性が問題にされるのであるが、「状況演劇」においては、その「状況」の構造解明が問題になるのであるから、「形象」というのは役者の「現れ方」に過ぎない。こちらから見ればこう見え、あちらから見ればこう見えて構わないのである

    それぞれの科白は、全く一方的にそれぞれのフォルムのために奉仕され、それぞれはそれぞれの拠って立つフォルムにおけるルールによってのみ自己正当化をする。従って科白のやりとりは、論理的な発展を遂げず、むしろ、その科白の拠って立つ根拠をうがって、それを無力化しようとするのである。「ここは戦場で危険だから帰れ」という科白に対して「心配するな、私は戦場のつもりではなく、ピクニックのつもりできているのだ」という科白が連続しなければならないのは、ここでは、「帰れ」というザポ君の主意に個別的に対応するテパン氏が問題なのではなく、そう言わざるを得ない事情の中に在るザポ君に、総合的に対応するテパン氏の事情が問題だからである。つまりテパン氏は、戦場にいるという事を絶対的な拠り所として発言されているザポ君の意見に対して、意見として反応する事をせずに、絶対的であるかに見える戦場そのものの根拠を否定しようとしているのだ。「状況演劇」におけるフォルムとフォルムの葛藤はこの様にして成立する

    『善意」による侵入と「悪意」による侵入というパターンがある。しかし、その侵入のメカニズムは全く異なるのである。例えば、脱獄囚がいきなりドヤドヤと侵入して、その日常的な家庭生活を破壊するという映画があった。この場合は「侵入者」と「被侵入者」の心理的な対応関係は前提として成立している。「泥棒」と『サラリーマン」、「脱獄囚」と「日常人」という対応関係は虚構構造の中では心理的に全く安定しているのである。従って、侵入者たる「脱獄囚」の侵入は、ひとまず物理的な空間へ侵入するための「技術的巧妙さ」を以って語られる。

    「侵入者」が異質のものである限りにおいて、つまりサラリーマン家庭の中に混入された「脱獄囚」たる事情を失わない限り、舞台空間は、そこでかなり異様な事が行われたとしても、心理的には安定しており日常生活は破壊されない。「脱獄囚」と「日常人」という心理的な安定さが失われて、日常生活の深部に潜在する「人間」と「人間」の関係が見えてきた時、その舞台空間は変質し、同時にその日常性も破滅するのである。つまり「脱獄囚」が異様でなく見えてきた時の危機がそこで語られるのである

    実に物理的空間の異様さが心理的空間の異様さに転化し、もしくは心理的空間の異様さが物理的空間の異様さに転化する過程に、「不条理劇」と云うものの演劇的ダイナミズムが潜んでいるのであり、それが一つの文体の法則性に関わる基準になり得ることを、発見できたのである
    戯曲の文体というものは、法則的である事によって対象化できなければならない。舞台空間において役者が、それを全く客観視した時、その肉体が、もしくはそれを含む舞台空間が、言語化されるのである。これが、言ってみれば私の演劇観である

    8人家族が心理的空間への侵入に成功したのだとすれば、男が物理的にそれを安定させようとすればするほど、舞台空間は心理的に不安定な事情の中に追い込まれる。逆に8人家族が、物理的空間への侵入に成功したのだとすれば、彼が心理的に安定させようとすればするほど舞台空間は物理てkに不安定な事情の中に追い込まれる。
    つまり、アラバールの「戦場のピクニック」においては、ピクニックは「戦場」というフォルムに心理的に侵入を果たしたのであり、だからザポ君が「戦場」に居るという自覚を無視して舞台上でピクニックごっこに熱中すればするほど、観客の意識に閉ざされた舞台空間は異様な不協和音を奏で始めるのである

    ある長屋のおかみさんが「不条理」という言葉を使ったとする、この場合「不条理」という言葉の持つ本来の意味よりも、彼女がそういう言葉を使ったという事実の方に、舞台空間におけるダイナミズムがある

    「君は不条理についてどう思うかね」「さあ、それは何ですか、食べ物ですか?」→言葉という平面上の差に過ぎない

    「君は不条理についてどう思うかね」「さぁ、私、それをまだ食べたことがありませんので」→それぞれの言葉を律する法則性、もしくは位相が異なっているのであり、これがおかしいのは、その言葉を「食物」と断定してテンとして恥じない、男の事情がおかしいのである

    言葉自体が重要であるべく機能する科白と、その人間がそれを言うこと自体が重要であるべく機能する科白とが衝突した場合、その落差は、その言葉の正確な意味を基準としてしか測れない。つまり、その場合、言葉が理性を担うのであり、言語的な論理構造のうちに、それに対応した人間の事情は閉ざされてしまう

    「君は不条理についてどう思うかね」「さぁ、私、それをまだ食べたことがありませんので」「そうかね、まあ、余りうまいものじゃないさ」
    この2人の男の、別のやりとりが、つまり2人にそれぞれそうした言葉を吐かせた事情が、真の文体を形成しているのであり、演劇的ダイナミズムは、実はそこに作用しているのである。この場合、この文体が作用する心理空間というものは、極めて奥行きが深いのであり、同時に自立的である。双方の誤解に基づく交流という、反理性的な、反自然的なメカニズムが、文体を律しているのであり、これは明らかに一つの虚構構造を成している。フィクションというのは、こうした意味に違いない

    演劇的なるものと非演劇的なるものの屈折

    アンチテアトル
    3人の役者と「これはポストです」
    ポストを指差し、「これはポストです」 
    一人の役者がポストを指差し、もう一人の役者の目を見て「これはポストです」
    →観客の関心は、その場の事情に向かい、ポストという言葉はその事情を解読するための一つの手がかりに過ぎなくなる
    役者が一人現れ、誰をも見ることなく「これがポストです」
    →この場合の観客の主たる関心は、役者と観客が果たして同一地平上にいるのかいないのか、地平を違えているのならば、どのようにして違えているのか、という点に集中するはずである。その不安が持続されなければならない。その不安の中でこそ、あらゆる地平を通じて浸透力を持つ。「これはポストです」という言葉と、ポストである「物」が、確実な手応えをもって、せまってくるはずだからである

    会話というものは、それ自体としては会話に過ぎないが、それが食い違い始めると、そさせつつあるものを、現出させ始めるのである
    話の辻褄を食い違わせるべく意図するのではなく、むしろ、話し手それぞれの次元が、前提として食い違っていなければならない。それぞれの話し手は、話の辻褄はむしろ合わせようと努力するのである

    アンチテアトル的空間においては、どのような登場人物も全て、一つの総合なのであり、何かを代表する「一つの例」としては登場し得ない

    戦場に人々がピクニック的に対応しようとすればするほど、戦場である事の具体性が舞台を支配する「戦場のピクニック」

    意味の二重性はそこにエネルギーを充填させるためには有効であるが「線」を「フォルム」に変える事はしないのである

    サミュエルベケット
    近代演劇においては「行為」であったものが、ベケット空間においては「関係」であるという違いがあらわれてくる

    これはポストです
    ①観客を見て「これはポストです」
    ②Bを見て「これはポストです」→観客に対しては「これはポストです」ということばはフォルムとして通用する
    ③「これはポストかな」→観客にはポストということが分かっているから、ポストより遠ざかる。遠ざかれば遠ざかるほど、このポストということばというのはフォルムとして定着する
    ④ポストも見ずに「ポスト」ということばを言う。これが、フィジカルに舞台上に定着する方法があれば最も純粋な形でフォルムとなる

    役者が絶句した時が最も演劇的だ
    役者が絶句した時、それまでスムーズに流れていた「演劇」の構造内的時間が一瞬停止され、「演劇」を「演劇」たらしめている構造外的事情が逆にあらわとなり、我々は異様な緊張に包まれる。つまり奇妙なことだが、「演劇」は、それが破綻することにより、より「演劇的」的となる事情を内包しているのであり、ベケットはその種の「演劇」に有効性を見出しつつあったというわけである

    動くことによって「行為停止」が、しゃべることによって「沈黙」が、その構造の背後に提示される

    「待つもの」への関心から「待つこと」への関心に移行することにより、奇妙な話だが「待つもの」それ自体が変質する。変質させてまでも、自分自身の「待つこと」を正当化しようと考え始める。この逆転が、我々の待つという行為における、最も奇妙な点と言えよう。そしてここから、それを待っていると言えば万人が納得する、万能の「持つもの」はないだろうか、と考え始める。この点に基づいてウラジミールとエストラゴンの考えだしたのが、「ゴトー」に他ならない


    男1 こんばんは
    男2 こんばんは
    男1 涼しくなりました
    男2 そうですか
    男1 あなた、涼しくないんですか? →分かりやすい決着をつけようとしている、失速

    男1 涼しくなりました
    男2 ええ、涼しくなりました
    男1 秋ですね
    男2 秋です → 未分化のまま探り合っている、しかし、続けると決着の先延ばしになってこれも失速する

    男1 あなた、失礼ですが、お金を持ってますか
    男1 いやいや、こんなことを聞いたからって、私があなたに借りようって言うんじゃありませんよ。その証拠に、ほら、この通りに持ってます」

    男1の自分の発言を正当化しようとすればするほど、自分自身を見失っていくという台詞のありおうが、論理化されない男1の実体をあきらかにしていく

    ハロルド・ピンター
    局所的リアリズム

    アラバール
    数学的発想

  • 別役実のエッセンスが詰まってそうです!

    論創社のPR
    「つかこうへい、井上ひさし、安部公房、三島由紀夫、田中千禾夫、ベケット、ピンター、アラバール。現代演劇史に残る記念碑的な論を含めて、彼らの代表作が別役的視点よって解読される。」

  • [要旨]
    安部公房の『友達』の読解から不条理演劇とはなにかを問うた記念碑的な論をはじめ、後期ベケットの諸作の読解、つかこうへいの『熱海殺人事件』、井上ひさしの『薮原検校』、三島由紀夫の『サド侯爵夫人』、『わが友ヒットラー』など、名だたる作品を分析。
    [目次]
    1 つかこうへい;2 井上ひさし;3 安部公房;4 三島由紀夫;5 田中千禾夫;6 サミュエル・ベケット;7 ハロルド・ピンター;8 フェルナンド・アラバール

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著者プロフィール

1937年、旧満州生まれ。早稲田大学政治経済学部中退。東京土建一般労組書記を経て、1967年、劇作家になる。岸田國士戯曲賞、紀伊國屋演劇賞、鶴屋南北戯曲賞、朝日賞など受賞多数。2020年3月3日逝去。

「2024年 『増補版 言葉への戦術』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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