モンゴル襲来と神国日本 ~「神風伝説」誕生の謎を解く (歴史新書y 4)

著者 :
  • 洋泉社
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  • Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784862485830

作品紹介・あらすじ

敗北が決定的といわれた2度にわたるモンゴル襲来は、暴風雨と台風によって敵軍は壊滅し、「国難」を救った。その後、日本は「神国」だからこそ「神風」が吹いたという伝説が生成した。遠征軍は確かに暴風雨と台風により大被害を受けたが、日本軍が戦争に勝利したわけではなかった。一時的に幕府北条氏や「調伏祈祷」した寺社勢力が「神風伝説」を喧伝して力を持つが、皮肉なことに鎌倉幕府の崩壊を早める原因にもなった。

感想・レビュー・書評

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  • なんだ文永の役って台風じゃなかったんだなっw面白かったです

  • 当時世界最強の帝国であった元が日本に二度も攻めてきたのに対して、征服されずに元を追い返したというのが歴史的事実です。2回とも台風がきたお陰で助かったと学校で習いましたが、子供心に、なぜ台風のシーズンを避けて来なかったのだろうと思ったものです。

    そう言えば、年号は覚えても何月にやってきたかは詳しくやらなかった(2回目は7月)と記憶しています。但し、最近の研究では、一度目は偵察のために来たので予定行動として自主的に引き上げた、2度目は日本側の準備が周到にされていたので彼らが上陸できないで膠着状態に陥った数カ月の間に台風のシーズンに突入してしまったということらしいです。

    この本では、それらの事実を踏まえて、二回の元寇軍はどのような構成になっていたのか、日本側の武士は何のために戦ったのか、幕府や朝廷は何をしていたのか、3回目はなぜ中止になっていたのかが詳しく解説されています。

    戦死者といえば戦って亡くなった人というイメージですが、実際には、疫病や台風に巻き込まれたの事故死がメインのようですね。

    またとてもショックだったのは、無力であった朝廷が加持祈祷をしていたことですが、これが幕府の命令であったということ、1301年に薩摩に来襲したときも同様の対応しか取れなかったという事実でした、この事件は小さいせいか歴史では学びませんでしたが、私にとっては印象に残りました。

    以下は気になったポイントです。

    ・南宋の経済力を支えていた貿易相手国のひとつが日本であった、日本は南宋から銅銭、香薬、唐織物、白檀などの竹木類、書籍類を輸入する代わりに、大量の真珠、金銀、刀剣類を輸出していた(p40)

    ・幕府は元朝に強硬な態度をとったわりには、実際にやったことは、モンゴル退散の祈祷を主要な寺社に行わせること、九州の在地武士と九州に所領を持ちながら関東にいる御家人を所領の地に帰して北九州の防衛に当たらせること(p50)

    ・モンゴルの騎馬戦というのは、本来は一人で何頭もの馬を使い、それを次々と乗りつぶしていくものであったが、兵士より多い馬を海上輸送できなかった、モングル軍は指揮官以外は騎兵ではなく軽装の歩兵であった(p67)

    ・文永の役で日本軍の大将、少弐景資が射ぬいたモンゴル軍の兵士は、モンゴル軍の副総司令官であった(p70)

    ・文永の役でモンゴル軍に撤退を決めさせたのは、暴風雨ではなく、戦闘を続けるための食糧・武器の不足と、属軍高麗軍とモンゴル軍との間に横たわる不信感による団結の乱れ(p95)

    ・幕府は将来の元の襲来に備えて、北条時宗をはじめとする執権北条氏とその一族に、九州筑後、豊前、肥後、長門、周防、石見の守護を任せた、それまで鎌倉幕府の手の届きにくかった地域で、これにより幕府の権力拡大となった(p102)

    ・二度目の遠征の目的のひとつとして、国内負担の軽減として旧南宋の弱兵たちを日本に移民させることとし、彼らには農機具を持たせている(p123)

    ・東路軍は江南軍:10万と合流するため6日から13日まで(現在の7月中旬)戦闘した後、6月13日には引き上げたが、この時には戦闘と疫病あわせて3000人(全体の1割)を失っていた(p145)

    ・海底から発見された船からは、モンゴル軍船は40メートル以上(300トン)の巨大な戦艦と推定されていて、遠征軍は最新の武器と最大級の戦艦によって武装されていた、新造大型船は無事帰還している(p152、212)

    ・7月30日に襲った台風は、屋久杉の年輪研究から、瞬間風速:55メートル、中心気圧:950ミリバールの超大型台風であるとされている、これにより壊滅した(p155)

    ・日本再遠征の失敗の根本原因は、台風という自然条件のみが招いたのではなく、フビライが出発の際に勅の中で戒めた「諸将の不和」が複雑にからみ合って引き起こされた人災である(p167)

    ・日本側の武士にとって恩賞が唯一期待できるのは、九州現地にいる武士たちか、九州に所領をもつ武士のみであり、それが日本中の武士たちに意識をモンゴルに向けさせることができなかった大きな原因(p193)

    ・幕府は北条氏嫡流の執権の地位を守り伸長することを、朝廷は亀山上皇が後深草天皇との抗争に勝つことを、武士たちは恩賞を第一義としてモンゴル軍に挑んだ(p197)

    ・中国江南や現在のベトナム、モンゴルの北方、東部モンゴルが反乱を始めていて日本遠征を行う余裕がなくなってきた、1285年にフビライは、日本遠征を断念した(p213)

    ・1301年に薩摩国にモンゴルが再び来襲したが、鎌倉幕府は「異国調伏」の祈祷を全国社寺に命令して、博多の鎮西探題を通して現地対応をさせた(p216)

  • 「神風」が吹いたという記録はどの文献にもない。蒙古が攻撃をやめたのは、むしろ蒙古側のほうの事情に原因があったというのが本書の趣旨。重要な部分を推論に頼らざるをえなかった弱みはあり、納得しきれない読者も一部にはいるだろう。だが著しい論理飛躍や都合よい解釈は見られず、これも妥当な説とみてよいのではないか。

  • モンゴルが来たときに、台風が来て、モンゴルが撤退した。そこから日本は神国だという大きな勘違いが始まった。
    しかしどうしてその後、モンゴルは徹底的に日本を攻撃して来なかったのか、フビライハンがどのような統治をしていたのかはどのような記録にも残っていないのか不明瞭なことは多いが、面白い。

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著者プロフィール

歴史作家。戦国期の歴史の現場を精力的に踏査し、現場からの視点で歴史の定説を見直す作業をすすめている。主な著書に「真説・川中島合戦」「真説・千房の一族真田三代」など

「2017年 『天秀尼の生涯 豊臣家最後の姫』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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