- Amazon.co.jp ・本 (520ページ)
- / ISBN・EAN: 9784865281385
作品紹介・あらすじ
現代アメリカでもっとも魅力的な書き手のひとり、レベッカ・ソルニットの代表作、ついに邦訳!
広大な人類史のあらゆるジャンルをフィールドに、〈歩くこと〉が思考と文化に深く結びつき、
創造力の源泉であることを解き明かす。
アリストテレスは歩きながら哲学し、彼の弟子たちは逍遥学派と呼ばれた。
活動家たちはワシントンを行進し、不正と抑圧を告発した。
彼岸への祈りを込めて、聖地を目指した歩みが、世界各地で連綿と続く巡礼となった。
歴史上の出来事に、科学や文学などの文化に、なによりもわたしたち自身の自己認識に、歩くことがどのように影を落しているのか、自在な語り口でソルニットは語る。人類学、宗教、哲学、文学、芸術、政治、社会、レジャー、エコロジー、フェミニズム、アメリカ、都市へ。歩くことがもたらしたものを語った歴史的傑作。
感想・レビュー・書評
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歩くこと。歩きながら考えること。それが人類をいつも前に進ませてきた。人類の精神を形作ってきた歩行の歴史を、自身の経験も交えながら縦横無尽に語りつくすノンフィクション。
私は歩くのが好きなほうで、時間が許せば二駅分くらいの距離は歩いていく。交通費をケチってると思われたりもするが、私は一人でものを考える時間が好きだから歩くのが好きなのだなと本書を読んで気づいた。歩くことについて考えたことがなかったから、そんな単純なこともわからないままにしていた。
本書でソルニットが俎上にあげたトピックは多岐に及ぶ。そもそもヒトを猿から隔てたのが二足歩行だから、人類史のほとんどが歩行と結びついてしまうのだ。ひとまずは「なぜ人類は二足歩行を始めたのか」を過去・現在の科学者が唱えるさまざまな仮説をならべて考えるところから始まる。結論はでないが、前時代の女性差別的な仮説をイジりにイジり倒すのが楽しい。
その後、歩行が文学のテーマになったのはソローから、ということで時代は一気に下って18世紀へ。ロマン派、ワーズワース、安全な庭からピクチャレスクな〈自然〉へ、というベタな流れを辿るのだが、歴史的な記述からシームレスに個人的なエピソードへ繋がっていく語りがとにかく気さくで読みやすい。最初は本書の厚みにビビった私も夢中で読み進めていた。
とはいえ、私は自然が好きな歩行者ではないので、都市の歩行者に視線を移した後半部のほうが興味深かった。ソルニットが実際に滞在したことのある世界の都市を比較しているところを読むと、同じように「東京や札幌や福岡を歩くこと」を語る本があってほしいと思う。
ソルニットの口調が特にアツくなるのは民衆が集会の自由を行使し、歩くことの力を発揮するパレードやデモについて語る場面だ。市民が道路を私的空間とみなして寛いでいる街と語られたパリが、それだからこそ革命が起き今もデモの盛んな都市なのだと言われると、ニュースで見る火炎瓶飛ぶパリの印象も違ってくる。
ソルニット自身もそうした行列・行進に参加してきた一方で、歴史的に女性の一人歩きは危険視されてきた。ただ一人で自由に歩きたいと思うだけで、男性の欲望や憎悪から身を守る術をつけろと強要される〈歩く女たちの歴史〉を記した「夜歩く」の章は、ソルニットの内面も吐露されフェミニズムのエッセイとして素晴らしい。夜間に歩いていただけで警察に拘束され、処女か非処女かの"検査"をされたというおぞましい話も、そう遠い昔ではないのである。
結末部は人間の身体性が疎外されている現代社会に対する批判になっていくが、なかでもルームランナーを使ったウォーキングについての「かつて使役動物の地位にあった身体は現在愛玩動物の地位におかれている。往時の馬のような実際的な輸送手段とはなっていない代わりに、犬の散歩のような運動を課されている。つまり、実用ではなく娯楽のための存在となった身体は、労働[ワーク]ではなく運動[ワークアウト]している」というくだりはキレ味がよすぎる。
本書を読んでいてストレスフリーだったのは、なんにつけても〈書く〉主体がほとんど男性だった時代を語るときに、では女性はどうだったのだろう、とサイドチェンジする視点が常にあることだ。歴史を書いたものには、男性が当然のように女性を排除して使う「私たち」に曖昧に乗っかって仲間に入れてもらったような気にならないと読めないものもある。本書は、「では女性は」「では同性愛者は」「では金を持たない庶民は」と、〈書く〉特権階級にあとから参入した属性のことを忘れることがない。それが読んでいて本当に安心できる。しいて言えば、義足や車椅子のユーザーのことはどう考えているのか知りたかった。
〈歩くこと〉から放射状に語りが拡散していくようにも、〈歩くこと〉という一つのテーマが多様な語りをギュッとまとめているようにも読める巧みな構成で、ここからまた思考を歩ませることができる開かれた本だと思う。松岡正剛の『ルナティックス』や『フラジャイル』のような遊学の精神とフェミニズムが結びついて、読む者の心を軽くする一冊になっているのがすごい。名著。 -
歩行の歴史を語るなかに作者が散歩をするモノローグが挿入され、まさに思考がふらふらと歩き回るような過程をたどる。
歩く対象としての自然が庭から山まで様々なかたちに変奏・解釈され、果てに歩くことのできない郊外にたどり着くのが特に興味深かった。 -
・歩みが街を離れた孤独なものであるとき、それは社会を出て自然に入ってゆく手立てとなる。歩く者は旅人の孤独を帯びているが、その旅は虚飾のない、ただ自身の肉体のみに頼るものだ。馬や船や車といった、あつらえたり購入したりできる利便性には頼らない。歩くということは、つまるところ、人類の夜明けからほとんど進歩していない活動なのだ。
・歩くことには思考を刺激し、活気づけるものがあるようだ。一所にとどまっているとほとんど考えることができない。精神を動き出させるには体も動かさねばならない。田舎の景色、次々に移りかわってゆく心地よい眺め、開けた空、健全な食欲、健康な身体。歩くことはそうしたものを与えてくれる。そして宿の気楽な雰囲気、あらゆる係累や、身の上を思い出させることが不在であること、そのすべてが我が精神自由にして、大胆に考えるよう促すのだ。思考をつなげ、選び、恐れも束縛もなく、意のままに我が物とすること。
・これは歩行が分析的な行為ではなく、即興的な振舞いだとということを示唆している。ルソーの『夢想』は、こうした思考と歩行の関係をはじめて鮮明に捉えたもののひとつだ。
・姪のひとりによれば、コペンハーゲンの街は彼の「応接間」であり、そこを歩き回ることはキェルケゴールの日々の大きな楽しみだったという。それは人と暮らすことのできない男が人びとに交わる術であり、束の間の出会いや、知人と交わす挨拶や漏れ聞こえる会話から幽かに伝わる人の温もりを浴びる術だった。ひとり歩く者は、居ながらにしてとりまく世界から切り離されている。観衆以上の存在でありながら参加者には満たない。歩行はその疎外を和らげ、ときに正当化する。そのおだやかな懸隔は歩いているからこそであり、関係を結ぶことができないためではない、と。
・つまり、動くのは身体だが変わるのは世界であり、そのことが自他の区別をもたらすのだ、と。移動は流動する世界のなかで自己の連続性を経験する手段となることができ、それゆえ個々が自らを知り、互いとの関係を理解する端緒となる可能性を秘めているということだ。人間がいかに世界を経験するか、このことの考察の重点に感性や精神ではなく歩行という行為をおく点で、フッサールの企図は新しかった。
・一方で、道具が身体を拡張するように歩行は世界へ延びてゆく。歩行の拡張が道をつくる。歩くために確保された場所はその追求のモニュメントであり、歩くことは世界のなかに居るだけでなく、世界をつくりだすひとつの方法なのだ。ゆえに歩く身体はそれがつくりだした場所に追うことができる。小道や公園や歩道は、行為にあらわれた想像力と欲望の軌跡であり、その欲望はさらに杖、靴、地図、水筒、背嚢といった物質的帰結をつくりだす。歩くことが事物の制作や労働と同じように備えている決定的な重要性とは、身体と精神によって世界へ参画することであり、身体を通じて世界を知り、世界を通じて身体を知ることなのだ。
・人は赦しや癒やしや真実へ至ろうと迷いつづけることが運命づけられているのだが、わたしたちは、いかに険しい旅路であったとしても、「ここ」から「そこ」まで歩いてゆく方法は知っているのだ。また、わたしたちはよく人生を旅のように思い描く。本当の遠征へと踏みだすことはそのイメージを手の先にとらえ、実体を与えてゆくことでもある。肉体と想像力によって、霊化された地理世界のなかにその姿を描き出してゆくこと。遠方へ向かって重い歩みをすすめる人の姿は、人間の生を表現するもっとも普遍的で説得力のあるイメージのひとつだろう。広い世界の只中で、己の心身のみを頼りにする小さく孤独な姿。具体的な目的地に到達すれば、そこには精神的な恩恵も待っているに違いない、という希望が巡礼の旅路を輝かせる。巡礼者はそれぞれの物語をなし遂げ、それが同時に、旅と変容の物語がつくりあげる宗教そのものへ折り込まれてゆく。
・1974年の11月下旬に、友人がパリから電話をかけてきて、ロッテ・アイスナー(映画研究者)が重病だ、おそらく助からないだろう、といった。ぼくはいってやった、そんなことがあってたまるか、こんなときに、ドイツの映画界にとって、それもいまのいまこそ、かけがえのないひとじゃないか、あのひとを死なせるわけにはいかない。ぼくはヤッケとコンパス、それに最低限必要なものをつめこんだリュックサックを用意した。ブーツはとても頑丈で新しかったので、大丈夫だと思った。そしてまっすぐパリに向かった。ぼくが自分の足で歩いていけば、あの人は助かるんだ、と固く信じて。それに、ぼくはひとりになりたかった。
・物語がすこしずつ明かされてゆくように、道は旅する者に徐々に開かれてゆく。ヘアピンカーブは筋書きの急展開に似て、登り坂は高まるサスペンスのように頂へ向かい、分かれ道では見たことのない筋書きが顔をのぞかせ、おわりゆく物語のように臭着地がみえてくる。書かれたものが不在の誰かの言葉を読ませるように、道はそこにいない誰かの行路を辿らせる。道々はかつて通りすぎた者たちの記録であり、それをたどるということは、もうそこにはいない者を追ってゆくことなのだ。それはもはや聖人でも神々でもなく、羊飼いや狩人、技術者、移民、市場へ向かう農民であり、あるいは、ただの通勤者の群れかもしれない。迷宮のように象徴性にみちた建造物は,すべての道や旅路がもつ、こうした本性に目を開かせてくれる。
・したがって、風景のなかを歩くことの歴史においてワーズワースは変革者であり、?子の支点か触媒のような存在だったと考える方が正確だ。ワーズワース以前に街道を歩く者が少なかったことは疑いない。(ついでにいえば、自動車によって道路がふたたび危険で悲惨な場所になってしまった現代人もほとんど同じ境遇にある)。やむを得ず徒歩で移動する者は少なくなかったが、楽しみとする者はほとんどいなかった。それゆえに先の歴史家たちは徒歩旅行の楽しみを新しい現象だと結論しているが、本当のところは旅の手段とは別の場面で、すでに歩くことが重要な活動になっていた。歩行の歴史におけるワーズワースの先達は街道の旅人ではなく、庭や公園の散歩者だった。
・歩くことが与えてくれる社会的、空間的な余裕は大きかった。彼女たちは、そこに身体と想像力を目一杯に働かせるチャンスを発見したのだ。ついにふたりが互いを理解しあうことができたのは、道連れがいなくなって、エリザベスが「思いきって彼とふたりきりで歩いた」ときだった。その幸福な時間が過ぎるのは早く、「『リジーったら、いったいどこまで歩いてらしたの?』という質問を、エリザベスは部屋に入るなりジェーンに、それに食卓についたときにほかのみなから受けたのだった。ふたりで歩きまわって、自分でもわからないところへ行ってしまったの、と答えるほかなかった」。風景と心の区別はなくなり、エリザベスは文字通りに「自分でもわからない」新しい可能性へ足を踏み出している。それが、疲れを知らぬこの小説の主人公に歩行が果たした最後の役割だった。
・彼の人生に岐路をもたらし、『序曲』の転回点ともなっているのは1790年に学友ロバート・ジョーンズとフランスを縦断してアルプスへ向かった。驚嘆すべき徒歩の旅だ。ふたりにとってはケンブリッジ大学の試験のために勉強をせねばならない時期のことだった。近年刊行されたワーズワース伝の著者ケネス・ジョンストンは「この不服従の身振りによって、彼のロマン派詩人としての人生がはじまっていたといってよいだろう」とも述べている。旅には逸脱、越境、脱走といった無軌道さや反抗的な側面があるが、思いつきの冒険であったこの旅はそれと同じくらいに異なるアイデンティティを模索する道のりとなった。
・ライン河を下って帰路に就く直前に最後の目的地として彼らが立ち寄ったのは、ルソーが『告白』と『孤独な散歩者の夢想』で自然の楽園のひとつとして語っていたサン=ピエール島だった。方法と目的の両方の意味で歩いたーすなわち書くために歩き、歩くことを自らの拠り所にする―という意味で、ルソーがワーズワースの先駆者であったことは明らかだ。
・-「<さまよう>とは、道教において脱自の境地を意味する言葉である」と学者は書いている。一方で、目的地にたどりつくことは時として両義的だった。八世紀の詩人李白に「防載天山道士不遇(載天山に道士を訪ねたけれど会えなかった)」と題する作品があり、この主題は当時ありふれたものだった。山は現実と象徴いずれの領域にも場を占める存在であり、ただ歩くことにもメタファーの倍音が聞かれる。李白と同時代の風狂の僧、寒山はこう詠った。
人問寒山道 人は寒山への道を問うけれど
寒山路不通 寒山への路など通じていない
・・・
以我何由届 わたしをまねただけでたどり入ることなどできようか
輿君心不問 もともとあなたとわたしの心は違うのだから
・歩くことがエクササイズのバリエーションに過ぎないアメリカでは、雑誌『ウォーキング』といえば女性向けの単なる健康とフィットネス雑誌などにすぎないが、イギリスには肉体よりも風景の美を主眼に歩くことを扱うアウトドア誌が5,6誌もある。アウトドア作家のロリー・スミス氏によれば「ほとんどスピリチュアルに近い」。「ほとんど宗教。人との交流として歩いている人も大勢いる。野原には隔てるものはないし、誰にでも挨拶するから。我々の忌々しい英国的遠慮を乗り越えてね。ウォーキングには階級が存在しない。そんなスポーツはそれほど多くはない」。 -
多面的にあるくことを見つめていく哲学書。
サブタイトルの「歩くことの精神史」にじわじととくるものがある。「人」ではなく「こと」であることに。
6年と10日。2201日掛けてようやく。ここまで自分も歩いてきたのだなと感慨。 -
↓貸出状況確認はこちら↓
https://opac2.lib.nara-wu.ac.jp/webopac/BB00277480 -
第1部 思索の足取り The Pace of the Thoughts
/第1章 岬をたどりながら
/第2章 時速3マイルの精神
/第3章 楽園を歩き出て――二足歩行の論者たち
/第4章 恩寵への上り坂――巡礼について
/第5章 迷宮とキャデラック――象徴への旅
第2部 庭園から原野へ From the Garden to the Wild
/第6章 庭園を歩み出て
/第7章 ウィリアム・ワーズワースの脚
/第8章 普段着の1000マイル――歩行の文学について
/第9章 未踏の山とめぐりゆく峰
/第10章 ウォーキング・クラブと大地をめぐる闘争
第3部 街角の人生 Lives of the Streets
/第11章 都市――孤独な散歩者たち
/第12章 パリ――舗道の植物採集家たち
/第13章 市民たちの街角――さわぎ、行進、革命
/第14章 夜歩く――女、性、公共空間 -
◆9/26オンライン企画「まちあるきのすゝめ ―迷える身体に向けて―」で紹介されています。
https://www.youtube.com/watch?v=ighe77gjWX4
本の詳細
http://sayusha.com/catalog/books/nonfiction/p9784865281385