- Amazon.co.jp ・本 (169ページ)
- / ISBN・EAN: 9784877143275
作品紹介・あらすじ
戦争が絶えず、シニシズムが蔓廷し、知性や理性、道徳性への信頼が脅かされている現代-この時代をいかに生きるべきか。東京経済大学21世紀教養プログラム発足記念講演会の内容を収録。
感想・レビュー・書評
-
爺さんのお説教だと思うのなら仕方ない。
17年前に加藤周一が心配していたことが、加速度的に現実化していると感じるから、昔のレビューを再録したい。
老若男女含めて、人々から急速に「教養」が失われている。何故そう思うか?
あるお母さんとの会話。
「小学四年生の男の子はもうテレビなんか見ない。一日中YouTubeばかり見てる」
「チャンネル登録を順次見るんですか」
「そんなんじゃない。芋づる式に見てるだけ」
「そんなんじゃ、細切れの情報しか入らないじゃないですか」
選挙時、ある老年男性の意見
「わしは意見をかえたよ。あんたの言うことは理想論だよ。中国の怖さをマスコミはひとつも報道せんけど、インターネットを見ていたらよくわかる。9条改憲大賛成だね。日本はもっと軍拡せにゃおえん」
この20年の小説やドラマの傾向
「伏線回収」が上手くできている物語は賞賛される。
右か左か、上か下か。短い「真相」ほど喜ばれる。
倍速で視聴し乗り遅れない様にコンテンツを消費する。
グーグル先生がいつも答えを用意してくれている。
もちろん、インターネットが全て悪いということを言っているわけではない。昔はテレビやマンガが、国民の頭を「白痴化」すると言われた。さらに言えば大量印刷出版時代は、「読書百遍意自ずから通ず」の江戸時代からすると、教養が無くなったと嘆かれたかもしれない。ただ最近は時代の変化があまりにも早く、急速に国民が道を失っている、みんなが道を示してくれと欲している様に思える。
加藤周一は17年前に警笛を鳴らした。此処に云う「教養」の具体的姿は読んでもらうしかない。「教養の再生」「それしかないし、それに賭けるしかない」と私も思う。
「教養の再生のために」加藤周一 ノーマ・フィールド 徐京植
2005年読了
大学生に向け、教養過程が縮小していく御時勢の中、『教養』の大切さを訴えるために企画した講演会、特別講義、インタビューの記録である。加藤周一の『教養に何が出来るか、それは分からないのですけど、それしかないし、それに賭けるしかないと思います。希望はそこにしかない。』という言葉が印象的である。
加藤によると教養は死につつあるのだそうだ。理由は二つ。『職業の技術には役がたたない』『高等教育の大衆化』。
しかし「車を動かして遠くに行くにはテクノロジーと技術が必要ではあるが、その目的を決めるためには『教養』が必要なのです。教養の中からは『自由』と『想像力』を引き出すことが出来る。教養の再生が必要です。しかも新しい形で。」それは例えば渡辺一夫が戦中に戦争非協力者になった力にもなった。「当時(戦前)日本の中で「反戦」は少数派だった。しかし世界の中では多数派であった。そのことを知るには『教養』が無くてはならない。」
この本、大学新入生や高校生にぜひ読んで欲しいのだが、いかんせん高すぎる。玉に瑕(きず)である詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
見つけたのはたまたまやったけど、本当に本当に読んで良かった本。
私がずっと、漠然と「賢くなりたい」と言ってきた、思ってきたことの中身と意味がこの本にあった。教養。
私は、私のなりたい人物像に1mmでも近づくために、それが具体的にどういう道に今後進むことを指すのかはいまはまだわからないけれども、これからもちゃんと頑張っていかないといけないと、想いを新たにしました。
やはり徐京植さんは私にすごい衝撃をもたらしてくれる。 -
プリーモレーヴィーが「教養は私にとってアウシュビッツを生き延びることに役立った」と言ってたそうだ。
教養がない者はサバイバルすることも困難なのだ。教養があれば生きていけるのだ。 -
大学院進学にあたってもう一度リベラルアーツの意味を考えたくて、読んでみた。
何をもって「リベラル」というのか、今まで感覚的にしか考えたことがなかったが、「機械的・奴隷的である状態」ーつまり特定の目的に縛られた状態ーから「自由」であるために「リベラル」な学問と呼ばれるのだ、という定義を読んで、納得がいった。
専門領域の境界を柔軟に行き来できるような「自由人」でありたいという自分の思いを確認しつつ、そのためにはまず専門領域をしっかりと学びそこから生まれた疑問を大切にしなければならないと思った。
自分の立ち位置を見失ったときに読み返したい一冊。 -
740
「教養は、私にとってアウシュヴィッツを生き延びることに役立った」と
書いています。教養は、いまのこの強制労働を逃れるために、あるいは一匙でも多く人よ
り物を食べるためには役立たない。しかし自分がいまここで受けている苦難というものを、
より広い世界と歴史のなかで見る、つまり「外」の存在を認識する、そして歴史のなかで、
ギリシャ神話の昔からそのような苦難のなかで人間は徳と知を求める存在であることを認
識し苦難に立ち向かってきたのだ、ということに思いをいたす。そして、トロイア戦争の
経験を語るために苦難の航海を続けたオデュッセウスと同じように、自分もやがてはこの
帰還してこの地獄の経験を語るのだ、証言するのだ、証人として生き
うことが、彼に強制収容所を生き延びる力を与えたということなのです。
文庫で読みました。ある時期、高等学校の一年か二年のときだったか、「一日一冊主義」
という目標を立てたんです。手当たり次第にとにかく一日一冊何かを読むことにしたんで
すね。日本語だからできないことはない。だからそのころは外国語の本は読みませんでし
た。外国語の本は時間がかかって、とてもじゃないけど一日一冊主義なんてできませんか
ら。それでいくらか読んで応急手当をして、それが私の教養の出発点になったのかな、と
思いますね。
から、最後にもう一つ、私は文学、芸術の世界には差別を乗り越える可能
と思います。文学的教養が必ず差別を廃止するとはいえません。ただ、詩人や芸術家のな
かには文学・芸術をテコとして差別を乗り越えている人がたくさんいる。だからそういう
能性があると私は思うのです。私は差別というものは孤立していないと考え -
「近代国家は経済が危うくなると戦争をする」、「リベラル・アーツは目的のためではなくただ知りたい、学びたいという欲求、好奇心のためだけに学ぶ」、アウシュビッツに関する話など、学ぶことがたくさんあった。逆に閉塞感に満ち溢れた戦争状態の中ではどうなるのか、加藤周一さんの「羊の歌」やプリーモ・レーヴィの「これが人間か(アウシュビッツは終わらない)」も読んでみたくなった。
-
想像力は訓練で高められる
-
読みたい