わたしの物語 (創造するラテンアメリカ)

  • 松籟社
3.45
  • (3)
  • (13)
  • (11)
  • (3)
  • (1)
本棚登録 : 162
感想 : 22
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (158ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784879843074

作品紹介・あらすじ

「わたしがどのように修道女になったか、お話しします。」
 ある「少女」が語るこの物語は、読者の展開予想を微妙に、しかしことごとく、そして快く裏切ってゆく―。
 数多のラテンアメリカ作家が崇拝してやまないセサル・アイラの代表作、待望の邦訳。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  •  久しぶりにやばい本に出会った。私史上、川上未映子さんの「わたくし率 イン 歯ー、または世界」に次ぐ衝撃作。いや、「わたくし率〜」を読んだときに感じたのは、衝撃というより圧倒的な意味不明感だった。意味不明すぎて完全に迷子になって、最終的に何が起きたかといえば、作者の意図とか作品のテーマとかいったものを理解する努力をまるっきり放棄してしまった。一方でこちらは、物語の進んでいく先がポンポンと方向転換するものだから、作者の思惑にまんまと振り回された。でも、後述するけれど、理解する手立てはあるから、目を白黒させながらもなんとか読了できた。一回読んだくらいでは、とてもじゃないが吸収し切れない。しばらく経ったらまた手に取ってしまいそう。なんだろう、この奔放な作風はちょっと癖になるのだ。

     前半の掛け合いは「コントか?」と思い、中盤ではどんどん加速する支離滅裂さにオロオロしながら主人公の人格やジェンダーの不確定さに推理力を働かせ、そしてラストはもう唖然。目が点。とにかくタイトルと内容との無関連感が尋常ではない。解説で訳者の方が「かたすかし」という単語を用いてこの作品を表現していたけれど、まさにその通り。原作のタイトルは ”Cómo me hice monja” で、英訳版のタイトルはほぼ直訳で “How I Became A Nun” 。日本語版のこの本も、「わたしの物語、というのは、『わたしどのように修道女になったか』という物語ですが」という書き出しで始まる。なのに主人公はいつまで経っても修道女にはならない。なる気配すらない。そもそもなれないのだ。じゃあなぜこのタイトル。謎でしかない。

     中盤、びっくりして思わず二度見してしまった箇所をちょっと抜粋。

    ---

    「それでも、その年、わたしには友だちがひとりできました。男の子です。隣の子です。わたしはその子とよくいっしょに遊びました。ありきたりの意味での友達です……もっとです。何しろわたしもありきたりな意味(「ありきたり」という言葉のありきたりな意味)でのありきたりな少女になっていったのですから。いいえ。そこまでではありません。わたしがアルトゥーロ・カレーラと友だちになったお話は、他に例を見ないようなものだったのですから。」
    (p.115)

    ---

     いやいやどっちやねんという。散々熱弁しておいて突然「そこまではありません」とは。この突き放し感である。

     作品を通して、数々のナンセンスが堂々とまかり通ってしまう理由について考えを巡らせると、ひとつの結論に至った。主人公の年齢は六歳。腐ったアイスクリームを食わされたせいで入院を余儀なくされ、その結果小学校入学が三ヶ月遅れ(新入生にとっての三ヶ月は致命的だだ!)、友達もいなければ読み書きもままならない。腐ったアイスクリームを無理矢理食わせた張本人であるオワコンな父親と、メンヘラでモンスターペアレントな母親。少女の存在を無視することをクラス全員に強要する担任教師、低俗な言葉を連呼する同級生たち(とはいえ小学一年生とはえてしてそういう言葉を連呼したがる生き物なのだろうから、罪はない)。そういう人々に囲まれた六歳の少女の目には、世界はこんなふうに混沌としたものとして映らざるを得なかったたと考えれば、合点はいく。そしてその前提にいったんいきついてしまえば、それ以降はそもそもナンセンスだともあまり感じなくなる。

     いろいろ衝撃だったけれど、たくさん本を読み過ぎてちょっとマンネリしてきたなあと感じている人にとっては、最高のウェイクアップコールになるに違いない作品だと感じた。最後に、頭のおかしい担任教師と生徒たちの狂気が顕著な一部分を抜粋して終わる。お疲れ様でした。

    ---

    「『はい、先生』と言いましょう』」
    「はい、先生!」
    「もっと大きな声で!」
    「はあああい、せーんせーいいいい!」
    「『せい、はんはああい』と言いましょう」
    「しい、せんはあい!」
    「もっと大声で!」
    「いいいいんはああせええええええん!」
    「もおおっとおおおおおおごえで!」
    「せええええはあああああんんんんんんいいいいいい!」
    「よおおくできました。よおおおおおおくうううできました。(以下略)」
    (p.73-74)

    ---

  • 冒頭でこれは「わたしがどのように修道女になったか」を記した文章であることが示される。が、読めども読めども修道院も修道会の服も出てこない。完全にしてやられた。完璧な演技。ふり、ごっこ、うそに終始したアイラによるアイラのためのアイラ劇場。ただ一人を除いては誰にもアイラを止められない。そう、「アイラに注意!」なのだ。アイラから目を離したらとんでもないことが起きてしまう。もしアイラの食べたイチゴのアイスクリームが新鮮で甘くておいしかったら、アイラの人生はありきたりなものに変わっていたかもね。アイラに完敗で乾杯です。

  • 最初から最後まで衝撃的・予想外な作品だった…
    なんというか、私などが感想を書くのは手に余る。そう思わされるような、新境地を見たというか、いい意味でやばい作品だ。

    原題をそのまま訳すと「わたしがどのように修道女になったか」になるのだが、邦訳にあたりさらにシンプルに「わたしの物語」と題を訳したとのこと(訳者あとがきより)。
    主人公のわたしを、周りは小僧・息子などと読んでいることから少年だと思われるが、わたしはわたしのことを「少女」と思っている…という認識でOK?誤字じゃないよね?と、頭ん中???になりながら読み進めた。
    物語は「わたし」ことセサル・アイラ(!)が六歳のころ、アルゼンチンのロサリオという町で、初めて父親にアイスクリームを食べさせてもらう話から始まる。
    このアイスクリームの話単体でも、まさかの展開になり、心中でえええっ!?と叫びながら読み進めた。
    アイスクリームのくだりが終わってからは、さらに意味不明な文章・展開となる。
    物語全体的に、述懐しているかのような語り口なので、振り返って語っている「わたし」は現在一体何歳でどんな人物になっているのか気になりながら読んだのだが……
    意味不明と感じながら、でもどこかわかると思ってしまう、興味がそそられ読み進められたのはなぜだろうと思う。
    この辺についてはもう、実際に本書を読んで実際にその感覚を味わっていただきたい。

    さて、ラストはまさに衝撃なのだが、「わたしの物語、というのは、「わたしがどのように修道女になったか」という物語ですが、…」から始まるこの物語、最初に断っておくと「わたし」が「修道女」になることなく終わる(おそらく男の子だしね…)。
    じゃあこの序文と原題はどういう意味を持つのか?
    訳者があとがきで分析してくれているので、興味のある方は本文読了後、あとがきまで是非読まれたし。
    というか読了後、私はこの作品をどう咀嚼すればいいのか分からず、縋るようにあとがきを読んだ…笑
    訳者による「かたすかし」という本作への評は、なるほど確かにと思わされる。

    でもなんだか癖になる作風なので、作者の他の書籍が邦訳されているのならぜひ読みたいところ。
    というかこの本について他の方の感想も読みあさりたいところです。

  • ジュンク堂書店大阪本店の『酉島伝法の書棚』で購入。
    一見するとあの独特の世界観とはまるで違うような印象だが、現実感の無さという一点が共通している。
    それにしても、フェア開催初期に行きたかったなぁ……(無理)。

  • ◆認識?の物語? ◆世界の認識の仕方が風変りな6歳児?の世界が閉じるまでの物語。太宰治「道化の華」三島由紀夫「仮面の告白」を思い出させる、6歳自称女児アイラちゃん(♂)の、告白による韜晦かつ韜晦による告白(笑)。この物語、ぜひ桜庭一樹にリライトしてもらいたいな。もっと本質が浮き彫りになるのでは。◆読了してみると、装丁がこれ以上ないものに思われる。カバーデザイン:安藤 紫野 ◆記録しておきたいたくさんの文章があったので、ブクログの「引用」に保存。刺激的な読書でした。

  • 父親に買ってもらったイチゴのアイスクリームを起点に、わたしの物語が進んでいく。
    わたしの日常が妄想のように描かれていたが、最後の最後にきて思わず「ぎゃー!」と声を上げてしまった。
    冒頭のやり取りはコントみたいで、くすりと笑えただけに、余計にそのおぞましさが光っていた。
    でも、イチゴのアイスクリームは食べたくなりました(笑)


  • 小説ってどこまで自由なんだ。読後、ヘンなもの読んじゃったなあとニヤニヤが消えない作品だ。 (わたしの物語、というのは、「わたしがどのように修道女になったか」 という物語ですが〉 という書き出しを目にすれば、 「語り手が修道女になるまでの物語なんだな」 と思うわけだが、しかしっ! 予断をことごとく打ち砕かれて、 膝カックンな気分になる箇所多々。 笑いどころ満載の知的な冗談小説として愉しんでほしい。

  • どこまでが現実でどこからが虚構(妄想)なのかわからない気配。「わたし」が尼僧になるまでに物語と冒頭で言い切っているからこそ生まれてくる違和感がじわじわ。
    原文や英語だとこの物語の一人称はどんな風に表現されているのかな?と興味が広がる。

  • なんだ、こりゃ〜
    「おばあさんが桃を拾わなかった世界の桃太郎」みたいな話。

  • 文学

全22件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

 1949年、アルゼンチンの町コロネル・プリングレスに生まれる。のち首都ブエノスアイレスに移り、現在も同地に在住。
 1975年に小説『モレイラ』を刊行したのを皮切りに、次々と作品を発表、現在までに小説やエッセイを60冊以上刊行している。1992年刊行の『試練』は、ディエゴ・レルマンによって映画化された(邦題『ある日、突然。』)。
 ロベルト・ボラーニョが「今日のスペイン語作家で五指に入る存在」と評価するほか、後の世代の作家たちからも絶大な支持を集めている。

「2012年 『わたしの物語』 で使われていた紹介文から引用しています。」

セサル・アイラの作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×