- Amazon.co.jp ・本 (302ページ)
- / ISBN・EAN: 9784886790781
感想・レビュー・書評
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かなりの難著である「論理哲学論考」。
その魅力を、優しく手解いてくれる作品です。
野矢茂樹の魅力は、その分かり易さです。
哲学というと、とにかく難解というイメージが付き纏います。
しかし、氏の著書には、難解さの欠片もない。
そこには、「知」に触れる愉しさのみがあります。
そんな野矢茂樹というフィルタを通した「論考」。
ただでさえ美しく、最高に格好いい「論考」に、分かり易さが加えられたら?
面白くない筈がないではありませんか。
とことんエキサイティングに頁を繰ること間違い無しです。
あまりにも有名な、論考の最後に記された一文。
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七、語りえぬものについては、沈黙せねばならない。
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本書の最後で、野矢氏はこう言い換えます。
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語りきれないものは、語り続けねばならない
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世界は広く、謎は尽きない。
だからこそ、世界はこんなにも美しく、そして愉しい。
素晴らしい「論考」のガイドブックです。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
(2006/12/15)
ウィトゲンシュタインの「論考」はずっと気にはなっていたのですが,読んだことが無かった.
この本は,野矢先生の視点から,「論考」が何をいっていたのかを,自説と共にわかりやすく
解説されています.
ウィトゲンシュタインは哲学の世界などでは「天才」と評されるコトが多いようですが,
この本で私が感じた限りでは,そこまでとっぴな話は感じない.
フレーゲやラッセルという巨人の存在下で,ラッセルのパラドックスという問題に直面し,
それを完全に記号論理の世界で閉じた議論で解決しようとせず,逆に直感的な対象を表象する自然言語の
制約条件をケアすることで,その問題を解消しようとした.
というのが大筋に見えますが.
僕らの立つパースの記号論,つまり「記号とは何か?」という問いかけに対して,最低条件として<サイン・対象・解釈項>の三項関係を求める立場から言えば,上記制約条件のケアの仕方が不十分過ぎるように思える.
やはり論理・言語の世界をかなり自律的な存在として,厳密な議論はそこに閉じておいて,実世界との対応は直感任せに投げてしまう態度という点では,ラッセルやフレーゲを初めとするその時代の潮流からはさして逸脱していないように思える.
こういう,西洋思想の流れから見ると,やはり,その後あらわれる構造主義の面々,特にピアジェ,まー,あとラカン(あんまり詳しくないけど)あたりの素晴らしさが際だつと言うことでしょうか?
ピアジェは単純に「発達心理学の人」と思われてることが多いですが,本人は「発生的認識論」であると主張しています.一線画している訳です. -
この本は、ウィトゲンシュタインという20世紀初頭の哲学者が書いた「論理哲学論考」という本を、この上なくわかりやすく解説した本です。本来なら、もととなる「論理哲学論考」を挙げるべきかもしれませんが、これは解説書がないとかなり厳しい本なので、一冊でオススメする、という意味ではこちらかなと。
「論理哲学論考」とはどういうものかというと、命題とはなにか、とか論理とはなにものか、について語った論文?です。
非常に独特なスタイルなので、はじめて読む人は面食らうかもしれません。
私が非常に感銘を受けたのは、「結局、語りえるものについては明晰に語りえるが、語りえないものについては、ただ示されるのみである」という感じのところです。
どういうことか?というと、(私の解釈も混入しますが)いったん言語化されて、実際の世界のモノゴトとのマッピングがなされた言葉で以って記述した命題については、その真偽性の判定は、完全に明晰に議論できるけれど、そのモノゴト‐言語のマッピングがなされる以前のところの、その言語マッピングを生成したナニカについては、絶対に議論することができない、という感じですのものです。そのマッピングの過程は、語りえず、感じるしかない(=示されるのみ)ということなのです。
語りえず、感じるしかない、その言い切りがなんともかっこいいではないですか!
私はそのフレーズに、「ああ、そうか」と何か腑に落ちたような感覚がありました。
最後に書かれている、「7.語りえないものについては、沈黙しなくてはならない。」という一行、この厨Ⅱフレーズには、しびれまくりです!
何それ、何が面白いの?と言われると、なんとも言いようがないですけれどw
まさに、面白いと感じているこの感覚も、語りえず、ただ示されるしかないのかな、と。
ちなみに、ウィトゲンシュタインの師匠はバートランド・ラッセルという、これまた有名な数学者・論理学者なのですが、この人がかわいい弟子(=ウィトゲンシュタイン)のために「論理哲学論考」の解説を書いたのですが、あろうことか、ウィトゲンシュタインはまさにこの本の序文で「ラッセルはまったくわかっちゃいねーな」みたいなことを書いてしまったのです。ふてえやろうだw
また、小学校教師をしていたときは、暴力教師として名を馳せたり、他の学者との議論がヒートアップして、赤熱した火鉢でぶっさそうとしたり、正直クレージーすぎです。
こんなウィトゲンシュタイン先生がいとおしくてたまらない。 -
ヴィトゲンシュタインと著者から世界の秘密を教えてもらえそうなわくわく感を持ちながら読むことができる。一文一文は比較的分かりやすいのでついスラスラ読んでしまうが、いつの間にか思考の迷路に迷い込んでしまい何度もページを戻って読み直した。
ヴィトゲンシュタインと著者からダブルで濃密なメッセージを発信されるので、その思いの強さにあてられそうになった。
単行本だけでなく筑摩文庫でももっているが、そちらは論考以降の「哲学探究」にも触れている。
そもそも論理がア・プリオリなのかという論考の前提をなす、場合によっては論考で作り上げた成果を土台からひっくり返しかねない議論がされている。
ただ個人的なイメージとしてはドロドロに煮えたぎった哲学探究という窯の中から、精製された論考がでてくる感じかなと思う。筆者がザラザラとツルツルと言っていたが、同じようなものだろうか? -
再再々読了。「はじめに」にある通り、確かにこの本を読んでもウィトゲンシュタインの「論理哲学論考(=論考)」を読んだということにはならない。しかし、(やはり「はじめに」に記されているが)巷の早わかり系入門書のような「論考」の死体解剖のごときものではなく、「論考」という山を登る際の詳しい現地案内人のような頼り甲斐がある本だ。率直なところ、原本にいきなりチャレンジしても間違いなく最初の数ページで挫折していたことだろう。だが、この本を読んだ後に文庫の「論考」をペラペラめくってみると、なるほど「カッコイイな」と思えるところが結構あって楽しい。
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野矢先生の授業みたい
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すべての難しい哲学書に、こんな解説書が存在すればいいのに!
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ウィトゲンシュタインの著作を出来るだけわかり易く解説した本。いきなり原本を読むのもいいけど、大変ですよ?
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あの「語り得ぬものについては沈黙しなくてはならない」で有名な、『論理哲学論考』のいわゆる「読解本」。『論考』を読まなくても、『論考』を読んだ以上のことがわかってしまう、かもしれない。
ユーモアを忘れない語り口は、入門書としてもおすすめ。 -
本書のコンセプトは【私が開講する「『論理哲学論考』を読む」というというゼミに参加するような体験を、本書で味わっていただきたい】という著者の言葉に端的に表れている。いわゆる解説本を読んでも『論考』を読んだことにはならないが、そのようなゼミに参加するなら『論考』を読んだといってもよいだろう。この意味で、本書は単なる解説本ではない。しかし、「ゼミ」には事前に原典を読んでから参加するべきだろう。よって、本書は『論考』を読んでから読むべきものだと私は考える。独りではわからなかった箇所が次々に解明されていく体験は病み付きになること間違いない。もちろん、これは「野矢論理哲学論考」とでも言うべきもので唯一正当な解釈というわけではないが、それを自覚してさえいれば何の問題もない。
本書が『論考』を理解するための現時点での最短の道であるという著者の言葉は、決して誇張ではない。