- Amazon.co.jp ・本 (223ページ)
- / ISBN・EAN: 9784891764951
感想・レビュー・書評
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佇まいの良い本というものがあるように思う。例えば新潮社のクレストなどフランス折りの感じといい紙質の感じといい、しっくりとしていて、佇まいのよいという類の本であると思う。また、クノーの文体練習は捜し求めて出会った時、思わず繁々と眺めた一冊だ。立てても平らにしても様になる、そんな本には滅多に出会わないけれども。
ペレックのこの本もまた、当然のことながらその佇まいにまずほれた。常に手にして持ち歩きたいと思うような一冊だ。だからという訳ではないけれど、この本は読み終えるのに時間が掛かった。
どこから読んでも、どこを取り出してもよいような本なので、一気に通読することを本が求めていなかったということもある。それより何より一つ一つ比較的短い文章を連ねているのに、その文章を読み終えることが難しい。いつの間にか思いがふらふらと漂ってしまうのである。読む解く言葉以上に呼び起こされる思考のようなもの押し寄せてくるのである。そして何か胃下垂にでもなった人のように、すぐに気持ちが飽和してしまって先へ進めなくなるのだ。
空間というものは捉えようの無いものだ。周りを囲むことで初めて顕れたり、物を詰めてみてその存在が結果として解るというような、常に補完を前提としたもののように思う。ペレックはそのことを理解し多くの言葉を費やした。むべなるかな。思考は巡れども空間は決して手にすることが叶わぬものであるのだということを、改めて感じた本である。
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ページからベッドへ。ベッドから寝室へ。寝室からアパルトマンへ。集合住宅へ。通りへ。地区へ。街へ。田舎へ。国へ。ヨーロッパへ。世界へ。そして、空間へ。ペレックの筆致は「さまざまな空間」へと軽やかに運ばれてゆく。決してあからさまではない形で喚起させる幼年期の戦争孤児としての記憶。そして「ひろがりゆく空虚からくっきりした断片を救いだし、どこかにわだち、なごり、あかし、あるいはしるしをいくつか残す」この書くことのエチカ。それらを決して重厚で晦渋な形ではなく、ときにユーモアも交えながら「書く」。ペレックは「空間」をこれまでとは別の仕方で見ることができることを教えてくれる。盟友レーモン・クノー『文体練習』のかたわらに。
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随分前に読んだけど、面白かったなあ
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訳本て本当に訳者との相性なのかな。原文を読んで理解したほうがいいのだろうか。
最初のページと、「ページ」の構成がやたらと好き。こういう縛られない発想に憧れる。 -
エッセイというか、思索というか…。
空間について、あれこれ考える。
当たり前の事と、考えずにきた事を、ふと立ち止まって考えてみる面白さ。そうすることで感じる妙な奥深さ。
なんだかとても、贅沢な時間を過ごした気が。
小難しくなく、読んでいて不思議に気持ちいい本だった。 -
パリジャンはパリしか愛さない、というのをよく耳にする。本書もさまざまな方法で空間について考察していながらも、絶対的なパリ、フランスへの愛情が伝わって来る内容だ。
冒頭では、ページの白のなかで文字を遊ばせながら、ひとつの「letter」または「character」が「ことば」になり文章を形作っていき、やがて空間を表すようになる様をペレック独自の方法で解説する。
居る場所、育った場所、住んでいる場所をただぼんやり眺めているのではなく、観察し、書き留め、書き貯め、皮肉や遊びや愛情を込めて文章の形で浮かび上がらせる。空間とは、実は記憶や思い込みや感情で変化する、曖昧で揺るぎやすくて、実体のないものなのかも知れない、と思えてくる。なんとも洒落の利いた、パリのにおいがする本。 -
白い部屋の中で読んでいるような印象の本だった。
装丁のせい?
ページについて、国について、などなど。様々な物事について彼なりの考え方を述べている本。
割と抽象的なものが多かったような・・・まぁ、元々こういう本は抽象事物の上に感じ方を乗せていくようだからね。
どこで止めてもどこから読んでもいい本。
ふら、とやってきて、ひら、と去っていく本。
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2004年に学術雑誌『地理科学』に掲載した文章を再録。
評者は地理学者として,表象分析という観点からではあるが,さまざまな空間スケールについて思考をめぐらせてきた。部屋(成瀬,2001a),住宅(成瀬,2000),街(成瀬,1993),都市(成瀬,1996a,2001b,2002),都会と田舎(成瀬,1996b),国(成瀬,1999),世界(成瀬,1997)といった具合に。しかし,評者は空間という言葉より場所という概念を用いているため,本書の表題に強く引かれるものはなかったが,目次をみて,評者との関心の近さを予感した。目次を以下に示せば,
ページ
ベッド
寝室
アパルトマン
集合住宅
通り
地区(カルチエ)
街
田舎
国
ヨーロッパ
世界
空間
といった具合である。特に評者は,成瀬(1999)で小説のページにおける空間についても言及していたので,読まずに済ますことはできなくなった。
本書は学術研究書ではない。著者は1982年に亡くなったフランスの作家である。学問の体系上必要となってくるような関心ではなく,日常生活から生じる素朴な関心を,ストーリー性のあるフィクションとしてではなく,あるいは具体的・経験的素材から成るノン・フィクションとしてでもなく,作家自らの経験を抽象化し,さらに思考実験を行うことによる空間論,本書をそんな風に位置づけてみよう。
まずは著者の空間認識から。本書において,著者は「できるだけ,もっと身近な空間について語りたいのだ。たとえば都会,田舎,地下鉄の通路,公園など。」(pp.11-12)と書き,本書が自伝的要素も含まれることを予告している。そしてこの空間概念は無限に広がるデカルト的空間ではなく,「空間の断片がたくさんあるだけなのである」(p.12)。そして次のようにも書く。「生きること,それは空間から空間へ,なるべく身体をぶつけないように移動することなのである」(p.13)。
作家という職業にとって最も身近な空間,それは白紙のページである。普段の何気ない行為を引き離して考える。(日本語訳では)上から下へ,右から左へと規則的に活字が組まれ,定型の余白が設定されるが,そのことについて書く際には,その規則を破ってみる。勝手気侭に活字を並べ(原稿は手書きなのだろうか),「余白にも書いてみよう…」(p.25)。地図も白紙のページに「言葉や記号」によって描かれる空間である。「空間を記述するとは,名づけ,線引きすることだ」(p.28)。本文中にはボルヘスの名もあるが,地図と名付けのポリティクスの本質をつかんでいるといえようか。
ベッドに関する記述は分量としては少ないが,「ひとは人生の三分の一以上をベッドで過ごす」(p.41)とありきたりのことを強調するくらいだから,思い入れは深い。「ベッド。漠たる脅威を感じる場所,相反する要素が交錯する場所,孤独なからだが束の間だけ夢の女たちに囲まれる空間,欲望が排除された空間,定着しえない場所,エディプス的ノスタルジーを呼び起し夢見させる空間」(p.37)。同じ対象に対して使い分けられた場所と空間の語の微妙な差異に注意してみよう。
寝室の項が本書における読みどころの一つである。著者はこれまでの人生(原作が1974年だから当時著者は38歳)において,「今までに眠ったことのある場所を全部覚えている。」(p.45)という。眠ることは夢,そして記憶と密接に結び付いていることを確認しつつ,読者も自分の眠ったことのある場所について思い出してみる。
「寝室の中でベッドの位置を変えたとき,寝室そのものが変わったと言えるのだろうか。」(p.52),あるいは「ある場所に住むというのは,そこを自分のものにしてしまうことなのか。」(p.53),という素朴な問いは場所の本質について考えさせる。
評者が住宅神話として批判したかったこと(成瀬,2000),それが本書の思考実験によって見事に達成されている。建築業界は空間の区分によって私たちに生活の仕方を強要する。「玄関,居間(《リビングルーム》,応接室),親の寝室,子ども部屋,女中部屋,《物置部屋》,台所,浴室」(p.63)。そして,その機能別に分けられた部屋をどのように使用するのか,一家族の一日の行動の理念型を示すことによって,アイロニックにその不自然さを示す。その気になれば,毎日の行為など一つの部屋で事足りるのだ。あるいは,無用の空間について夢想したり,引越しに伴う細かな行為をひたすら並べ立てる。
通り,日本では馴染み薄いが,欧米の多くの地域では住所表示の基本単位。「平行に並んだ二列の大型建築が,通りと呼ばれるものをひとつ画定する」(p.101)。通りを舞台としたエクリチュールは,やはりフラヌール的行為に基づく。「都市の断片を解読する」(p.111),「人の分類を試みる」(p.112)。その行為を「場所の感覚がなくなるほど」(p.113)続けるのも面白い。場所の構成要素をさまざまな名称で呼ぶことの意味を失い,自分と場所の区別の感覚を失い,自分を含め,全てが溶け合い脱分節化された場所を感じることができるだろうか。
そして,「通り」の最後に未刊で終わってしまった作品の構想について書かれている(pp.117-119)。そのタイトルはまさしく『場所』,パリ市内から選ばれた12の場所,それらから毎月二つ,一つはその場所で,もう一つはそこ以外の場所で記述する。それを毎年繰り返す(同じ場所は毎年違う月に記述される)というのが,その企画であった(もちろん実践もされていた)。その試みは「場所そのもの,ぼくの記憶,ぼくの文体,という三重の変遷を跡付けること」(p.119)であるという。
「街を定義しようとあせらないこと。大きすぎる問題だから,間違う可能性が高い」(p.131)。これも雑誌分析(成瀬,1993,1996a)を通して評者のいいたかったことである。「街はそこにあるだけだ。われわれの空間は街なのであり,他にはない」。「街のなかに非人間的なものなどなにもない。われわれ自身の人間性を除いては」(p.135)。とにかく,街を歩くことだ。自分の好きな自分の街。外国の街,「二日もあれば街になじみはじめるだろう」(p.139)。あるいは,ロンドンの1907年版ベデカー旅行案内を自宅の炉辺で読んでみる。
「田舎についてぼくはたいして言うことがない。そもそも田舎など存在せず,幻想に過ぎないのだから」(p.149)。田舎についてはこの一言で十分である。「国」についても国境の悲劇が簡単に語られるが,「ぼくとしては,これ以上,自分の国について付け加えるべきなにか特別なこと,空間的なことがあるようには思えない」(p.163)という。世界についても同様。「世界についてひとはなにを知ることができるのだろう。生まれてから死ぬまでに,どれだけの量の空間を視線でおおえるものなのか。靴底は地球上の何平方センチを踏みしめることになるのだろうか」(p.171)。メディアの担い手たちがこんな謙虚な気持ちを手に入れたら世界は良くなるのだろうか。
最終章「空間」は,さまざまな作品からの引用,絵画《書斎の聖ヒエロニムス》の図像分析などからなる断章である。こうして,この書評を書くためにもう一度本書を辿ってくると,私の拙い言葉で解説すること自体が蛇足のように思えてくる。ともかく,全ての地理学者に一読をお勧めする。そして最後は著者自身の締めくくりの言葉で終わりたい。
「書くこと。それはこころを込めてなにかを拾いとどめようとすることだ。ひろがりゆく空虚からくっきりとした断片を救いだし,どこかに,わだち,なごり,あかし,あるいはしるしをいくつか残すこと」(p.199)。
文 献
成瀬 厚(1993):商品としての街,代官山.人文地理,45,pp.618-633.
成瀬 厚(1996a):『Hanako』の地理的記述に表象される「東京女性」のアイデンティティ.地理科学,51,pp.219-236.
成瀬 厚(1996b):現代吟遊詩人の声を聴く─―甲斐バンド『英雄と悪漢』の分析――.地理,41-12,pp.46-52.
成瀬 厚(1997):レンズを通した世界秩序――世界の人々をテーマにした写真集の分析から――.人文地理,49,pp.1-19.
成瀬 厚(1999):小説の時空間分析――クンデラ『冗談』をテクストに――.地理科学,54,pp.81-98.
成瀬 厚(2000):東京生活のススメ――女性週刊誌『Hanako』が提供する賃貸住宅情報の批判的解読――.季刊地理学,52,pp.180-190.
成瀬 厚(2001a):この部屋を見て!!――女性一人暮らしのカタログ.理論地理学ノート,12,pp.39-46.
成瀬 厚(2001b):東京・武蔵野・江戸――写真による地理的表象と自我探求――.地理学評論,74A,pp.470-486.
成瀬 厚(2002):拾い集めて都市と成す――泉 麻人の街歩き.10+1,29,pp.117-126. -
もっと早く読んでおくべきだった。ほんとうに塩塚先生の訳は丁寧。彼の丁寧な授業を受けたことがあるからそう思うのか、それとも純粋に訳に反映されているだけなのか。今となってはもう分からん。原書はフランス語の基本語彙を押さえるのにもってこいかと。