- Amazon.co.jp ・本 (142ページ)
- / ISBN・EAN: 9784892401398
感想・レビュー・書評
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『アシュリー事件』、『海のいる風景』に続き、児玉真美さんのその前の本『私は私らしい障害児の親でいい』を図書館で借りてくる。近所の図書館にはなくて、ヨソからの相貸。
「まえがきにかえて」を読んだところで、この人やっぱりスゲーと思う。
重症児の施設で暮らしながら養護学校へ通う娘の海さんが、月に一度、地元の小学校へ「交流学習」に行くことになり、その打ち合わせの席でのこと。
校長、教頭、学年の4人の担任がずらりと並び、開口一番言うことには「海さんが来られるからといって、その日だけ給食を一人分増やすことはできません」(p.5)。さらに続けて、こんなことはできません、こんなこともできません、こんなことはまさか望んでないですよね…と列挙した上で、「それでも来たいというのなら、仕方がないから来させてあげてもいい」(p.5)という態度。
挙げ句に言うことが、もし万一、ウチの児童が海さんの心を傷つけるような言動をしたときには、すぐに言えと。
▼…まったく笑わせてくれます。教師の自分たちがこれだけ「本当は、海さんが来るのが迷惑」と暗に邪魔者扱いしておきながら、子どもの「差別発言」にだけはぴりぴりしている。(アンタたちのそういう姿勢こそが、子どもたちの間に無用の垣根をつくってんだよ)
私はお尻から火を吹いてハワイあたりまで飛んで行きそうな鼻息で、家に帰ったのでした。(p.6)
教師が、みんながみんなこんなんやとは思わないものの、ありそうな話で、児玉さんの筆には笑うけれど、ちょっと笑えない。
児玉さんの両親は教師だった。そして、児玉さんも教師の職にあった。そのことは『海のいる風景』でも書かれていたけれど、この本では、海さんの親になってからの時間がまだ短かったこともあってか、児玉さんは自分をえぐるように書いている。
優等生だった自分、こうすべき、こうあるべきとコトバでエラソーに説いていた自分、自分もまた「ワタシって優秀」競争に加わっていた、と思いおこす児玉さん。
▼仕事には一生懸命だった。その一生懸命が誇りだった。自分は目の前の生徒たちのために一生懸命なのだと信じて疑わなかった。いま振り返って、それは違う、と思う。私は、自分が優秀な教師であることを証明するために、自分のために一生懸命だったにすぎない。(p.70)
海さんが生まれ、葛藤を経て、その障害と向かい合う覚悟を決めた児玉さんは、「なにができるできないということは、人間の尊厳だの生きる意味だのという本質的な問いの前には、些細なことにすぎない。この子を育てていくにあたって、そんなケチくさい次元でものを考えないようにしよう」(p.71)と、かなりムリした決意を胸に暮らすようになる。
そのころから、児玉さんの目には、学生たちがまったく違ってうつるようになった。「あんたたちは、そのままでいいんだよと、抱きしめてやりたいくらいの気分」(p.71)で、ときに「どうせ私なんか…」という態度を見せる学生には、どうかして「あんがい私にだって…」に変わる場面が増えてくれるようにと願うようになった。
海さんを得て、教師という仕事、学生との関わりに手応えを感じはじめた児玉さんは、一方で、あまりに虚弱な海さんのひんぱんな入院や異常な号泣に、慢性的な睡眠不足で、体力の限界を越える状態だった。週に4日、実の母の助けを借りていたが、その母や父の言動が、過酷なストレスとなっていく。ずっと小学校の教師をしてきた母のことを、児玉さんはこう書く。
▼彼女の人生はおそらく、常に周囲の人に対して自分のほうが優れていることを証明するための、競争の連続だったように思う。その結果、なにもかもを本能的に競争ととらえる。孫が生まれ、その子育てを手伝うと決めたとき、彼女は実の娘まで競争相手にしてしまった。(p.73)
あんたのミルクのやり方が悪いから海は泣くのだとか、あんたが付き添っているとけいれんがよく起きるとか、自分のほうが優れているのだ、海には母より祖母の私だと認めさせようとするかのような言動を、児玉さんの母はとり続けた。
▼母の意識の中には、自分は二人の子どもを育てながら、ずっとフルタイムで働いて立派にやってきた、それができないのは人間がつまらないからだ、という思いが巣くっていた。兄と私は、海と違って健康な子どもだったこと、子育ても夕食の準備などの家事も、同居の祖母が担当していたことは、都合よくどこかへ消え去っている。海を溺愛し、彼女への愛情を私と競う一方で、私に敵対し、私を手伝うことを心苦く思っていた。だから、なにかにつけ、私を責めた。(p.75)
他人より冷たい父と母の目、優れているもの、強者しか認めない家庭、そこで娘として育った自分自身もまた、このテの人間として競争原理にもとづいて生きてきたのだと児玉さんは振り返る。
この本にはまた、医者や病院関係者の、当事者を「透明人間」にしてしまって恥じないエラソーな言動について、児玉さんが火を吹く言葉も綴られている。
▼医療者の多くは、自分たちの担当する範囲がすべてであると錯覚しているか、すべてとまでいわなくても最重要であると思っている。ところが障害のある本人や家族にとっては、命にかかわるような状況でないかぎり、医療が担当する範囲は生活全般のほんの一部分にすぎない。患者や障害者は、自分の体の状態とつき合いながら「生活」してゆかねばならないのに、そのことの全体像を念頭におきながら考えてくれる医者もセラピストも、どうしてこんなに少ないのだろう。(p.96)
過酷な日々の中で悩み続けて、児玉さんは短大講師の仕事を辞めた。自分たち親子にとって最悪の時期は過ぎた、と思っていた。4歳、5歳になって少しは体力のついた海さんは、命にかかわるような事態は滅多に起きなくなったものの、ただの風邪をよくひいて、一度風邪をひくと一週間寝込み、治りきるまでにもう一週間かかった。やっと治ったと思えば、数日後にはもう次の風邪のひきはじめ…児玉さんは安心と心配、希望と失望の繰り返しで、心と体を消耗した。家から外に出られない。すべての予定をキャンセルする段取り。そして敵視と非難の言葉。両親との確執も続いていた。
疲れ切った児玉さんは、夫ともに岡先生に呼び出され、センター内の施設に海さんを入所させないかと提案を受けた。岡先生は、児玉さんが「家族全体のことを見渡した中で子どものことを考えてくれる先生にやっと出会えた、と思った」(p.103)人で、親の精神的なケアにも心を砕いてくれる先生だった。
岡先生はこう言った。
「お母さん、お母さんは社会に向かって自分がやりたいことの方向が見えてきているんじゃないの? 僕にはそう見えるよ。方向が見えていながら、海ちゃんを育てるのに精いっぱいで、身動きがとれないのが苦しいんじゃないの。なにもかもひとりではできないよ。これからは、僕たちにも海ちゃんを育てる手伝いをさせてよ。僕たちもいるんだからさ」(p.116)
あるいは、こうも言った。
「世間の人たちからは、子どもを施設に捨てたとかなんとか、そんな声も出るだろうね。でも、お父さんとお母さんは強くなってよ。そういうプレッシャーを堂々と跳ね返してほしいんだよ、僕は。こういう子は、みんなの力を借りて育てるのがいいのだから。いずれ親の力だけでは育てられなくなるのだから」(p.117)
「お父さんとお母さんがいいように、うちの施設を利用すると考えればいいんだよ」(p.118)と言ってくれる岡先生の気持ちを無にはできないという思いで、児玉さんと夫はありとあらゆる理屈をこねくりまわして自分たちを納得させようとした。
でも、海は? 海の気持ちは? と児玉さんは問わずにいられない。「ごめん、お母さん、疲れた」と話す母に、海さんからは向こうを向いたまま「ハ!」と大きな返事が返ってきた。
罪悪感からは抜けきれない。でも、自分は、こういう人間だ、これ以外の人間にはなれないと児玉さんは書いている。
▼…私たち、「しんどいけど、可愛い」という順番でだけものを言い、世間の人たちに媚びるのを、もうそろそろ返上してもいいんじゃないかと思うんだ。「可愛いけど、しんどい」という順番で、ものを言いはじめてもいいんじゃないか。だって私たちは、世の中の人たちに、美しい姿だね、感動したよ、勇気をもらいましたよ、と誉めてもらうために生きているわけじゃない。私たちは、世の中の人に感動や勇気をあげる社会のオアシスなんかじゃない。誉めてもらうんじゃなくて、世の中のほうにこそ変わってもらわなくちゃ困る(pp.130-131)
「本当の気持ち」を書いた最初の原稿を、ぶどう社の編集者に「さらにその先のもっと本当のところ」を書けとけしかけられて書いた二度目の原稿は、「本当の本当」を書けたのではないかと、児玉さんはあとがきで書いている。
児玉さんが、海さんという子と向きあい、そしてまた両親とも向きあったこの本は、児玉さん自身の「親としての自分、子としての自分」のことが、ぐーっと書かれていて、そこが、とてもよかった。
『海のいる風景』と『アシュリー事件』もまた読みかえしたい。
(12/2了)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
すごい清清しい。格好いい。
どんな事情であれ生むことを決めたのは親なんだから、親は子に対して責任がある。
だけど、すべてを犠牲にする必要なんかない。
つーかさせちゃいけない。
そんなあり方は多分子供のためにもならない。
子育ては親の義務だけど、親だけで育てられるほど子供は軽くない。
だから周囲に「手伝え!」って要請していい。
障害児ならなおのこと。
「子が可愛い、でもしんどい」って台詞はなかなか言いづらい。
それを言ってくれたことに拍手。