なぜ遠くの貧しい人への義務があるのか: 世界的貧困と人権

  • 生活書院
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  • Amazon.co.jp ・本 (423ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784903690520

感想・レビュー・書評

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  • 原文のせいなのか翻訳が悪いのか私の理解力がないのか、書いてあることがさっぱり分からなくて途中で読むのをやめました

  • 資料ID:21402440
    請求記号:316.1||P
    配架場所:普通図書室

  • 貧困はシステムとして存在させられていることが理解できた。

  • 経済的先進国と後進国の格差について。
    格差があることではなく、その格差を作るシステムの不平等、後進国を深刻な飢餓に陥らせるほどに先進国が富を奪っていくことの問題。
    「救う義務」ではなく「殺さない義務」。

    論じられる対象はごくごく狭い範囲に限定される。
    確定できることだけ。死なせないための分配だけ。懐が痛まない(「損をする」ではなく「得が減る」)程度の平等だけ。
    食事を分かち合おうと言っているのではなく、おまけシールのために捨てるチョコをあきらめる程度のこと。

    これを読む人(=先進国の住人)がアカアレルギーを発祥しないように、細心の注意を払って受けいれやすい範囲のことだけを論じる。
    しかし自由経済はその程度のことですらすんなりとは受けいれられないらしい。先進国は「貧困対策を出来ない理由」をひねりだすことに汲々としている。
    やりたくないことをやらない理由を作りだし続けていると、目的が「やらないこと」にすりかわってしまう。

    懇切丁寧な説明と、主張の少なさから反発の激しさが伺える。
    書き方の慎重さに「自由論」http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4003411668を思い出した。

    アメリカの傲慢はわかりやすいから、アメリカ(欧米)のこととして、ああそうだよなと読んだ。
    でも日本も確実にこちら側。
    先進国の富を享受している人は、ホロコーストの一般ドイツ人のような立場にいる。
    SSじゃなくてもナチじゃなくても殺す側に加担している。
    自分とは違う種類の人間のたくさんの死を「知らなかったから仕方ない」と言うのは簡単だ。

    とはいえ、この文章から伺える世界が私にはよく見えなくて、何と闘っているのかがピンと来ない。
    (きちんと書いてあるけれど、西欧的な圧力を共有できていないから肌で感じられない)

    誤解を招かないため(曲解を拒むため)の文章だなあと思った。
    丁寧に武装した言葉なんだけど、重装備過ぎて慣れない目には身が見えない。
    論文を読む力が衰えるのはあっという間だな…
    半分くらい読んだところで時間切れ。もうちょっとちゃんと読みたい。


    関連
    現在の形式がスタンダードであるのは、その形式がもっとも優れているからではなく、その形式がもっとも普及しているから。「お母さんは忙しくなるばかり」http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4588364146

  • 「なぜ遠くの貧しい人への義務があるのか」
    想像力の貧困か
    貧困の想像力か
    世界中に対して自分のやっていることの意味を考えるよい機会です。

  • 「生命毀損的貧困」(life-threatening poverty)

    【本書の中心的主張】
    現行のグローバルな制度的秩序がきわめて不正義であるということ、そして世界の協力な国々によるこの秩序の継続的な押し付けが、1つの大規模な- 全人類史上において最も重大ではないとしても、おそらくは最も大規模な- 人権侵害を構成しているということである。p9

    深刻な貧困は急速な人口増加と因果的に連関しており、そしてその急速な人口増加は環境悪化の主要な駆動因の1つなのである。p13

    「弁明的ナショナリズム」(explanatory nationalism) p41

    「仮定的基底線」の設定 p51

    どのような制度の設計もそれが大規模で回避可能である人権の欠損を予見可能であるのに生み出す場合は不正義なのだ。p51

    【国連の揶揄】
    その経営や政策決定は富裕諸国によって統御されながら、世界の貧困層の公式の擁護者として自らを宣伝する。p54

  • 9.11テロの直接の犠牲者は約3000人、広島の原爆は約14万人、ホロコーストは約1100万人。これは現代史に残る「歴史的事件」である。

    それに対して、現在慢性的な栄養失調の人は約10億2000万人、適切な住居がない人は約9億人、必要な薬を手に入れられない人は約20億人。これらは通常お茶の間のニュースにもならない。

    もちろん、数が問題だと言いたいのではない。僕たちは、あまりにも「見たいもの」ばかりを見ていて、「見たくないもの」は見ないままでいるのだ。そのことを、この本を読んで改めて思い知った。

    遠くの貧しい、「かわいそう」な人々。もちろん僕は「時々」その存在を思い出す。ポテトチップスを食べながら、飢えに苦しむ子供達のドキュメンタリーを見て、ディレクターの期待通りに涙を流すことさえできてしまう。

    そんな恥知らずなことができるのは、要するに、「発展途上国の貧困問題」が「自分の責任」だと思っていないからだ。

    この本で筆者が糾弾するのは、そのような「貧困は遠くの他人の問題」という意識である。筆者によれば、遠くの貧しい人々を救うことは、「援助」や「慈善」ではない。そういう意識こそが間違いなのだ。遠くの貧しい人々を救うことは、僕たちの「義務」である。筆者はそう主張する。

    そしてその根拠を、筆者は「積極的義務」「消極的義務」という概念を用いて説明している。

    「積極的義務」とは、「他者を危害から助ける」ような行為に関する義務で、義務の度合いは低い。たとえば、溺れている人を助ける行為などがこれにあたる。もちろん助けることが望ましいが、義務の度合いは低いし、助けなかった人が罰せられるわけでもない。

    それに対して、「消極的義務」とは「他者に危害を与えない」行為に関する義務であり、これは当然義務の度合いが高くなる。ちょうど、溺れている人を見殺しにすることよりも、人を海に突き落として溺れ死にさせる行為の方が、(人が一人死ぬという同じ結果であっても)道徳的に問題になるのと同じである。

    僕はこれまで、発展途上国の貧困は「積極的義務」の問題だと感じていた。つまり、僕らに期待されているのは「困っている人々を助けること」であり、「慈善」や「援助」であると。少なくとも、僕自身が彼らに危害を加え、殺し続けているとは思っていなかった。

    しかし、この本で筆者が強調するのは、貧困の問題が、僕達の「消極的義務」に当たる問題だということである。なぜそう言えるのか、筆者はこの本一冊を通じてそれを論じていく。「人権」概念を議論し、僕たちがグローバル秩序への参加を通じて彼らに対する「加害」を行っている事実を指摘し、その後は主にナショナリズムからの反論に答えて、さらには実現可能な正義にかなう社会のあり方を提案していく。このへんでは、筆者自身が「穏やかな」と述べているように、できるだけ実現可能な政策にしようとの意図もはっきりしている。

    多少翻訳にこなれないところがあって読みにくさも感じたが、それでも十分に「読むべき一冊」だと思った。個人的には、伊藤計劃のSF「虐殺器官」や安藤馨の挑発的な論考「あなたは『生の計算』ができるか?」(「RATIO」6号)と関連する内容で、それらと合わせて読むといいかも。こういうテーマで生徒と一緒にSFや評論をじっくり読んで語りあってみたいなー。

    筆者の最後の、そして一番印象深い言葉を引用して、レビューを終わりにしたい。

    「世界的な貧困は、我々が考えてきたよりも、はるかに大きくも、また、はるかに小さくもある。それによって、我々の世界に生まれ落ちたあらゆる人の3分の1が死んでいる。そして、その根絶に必要とされるのはグローバル資産のわずか1%にすぎない。」(トマス・ポッゲ)

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