海のいる風景 新版: 重症心身障害のある子どもの親であるということ

著者 :
  • 生活書院
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  • Amazon.co.jp ・本 (278ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784903690971

作品紹介・あらすじ

「重い障害のある子どもの親である」ということと向き合いわが身に引き受けていく過程と、その中でのヒリヒリと痛い葛藤や危ういクライシスを描き切った珠玉の一冊。

感想・レビュー・書評

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  • 十年前に出た本の新版。十年後の「今」視点での前書き・後書きつき。
    前の装丁だと勘違いしやすかったけど「海」は娘さんの名前。

    私は普段、親の人の書いたものはあんまり読めない。
    子供の言動をネタにしたものは子供をアビューズしているように見えるものが多い。
    子供と自分の区別がついていない人は怖い。

    この人は、自分は子供の親であって子供自身ではないということに自覚的だから好きだ。
    この人は「子供の話」ではなく「親である自分の話」をきちんと書いている。

    そういう人でさえ(そういう人だから気づいたのかもしれないけれど)、「アシュリー事件」http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4903690814を調べて「親の利益と子の利益は必ずしも一致しない」ということを「発見」して衝撃を受ける。
    距離って難しい。

    この本に書いてあるような「小さな」嫌なことって、多分どうしようもない。(たとえば言葉の通じない「善意」や「正しい」子育ての圧力)
    施設の対応のような、「大きな」嫌なことでさえそうそう声を出せないし変えられない。
    どうしようもないことにちくちくちくちく晒され続けるのは精神を消耗する。
    それでも闘う人を見るのは、しんどいのと同じくらい自分「が」がんばらなきゃと思う。

    十年後の前書きの中で「海の幼児期からを振り返ると、ずっと何かと闘ってきた自分、というものを意識せざるを得ない。闘うたびに相手がより大きな存在となっていくことも気になる。それが私自身に見えている範囲が少しずつ広がってきたから、というだけならよいのだけれど、そこに世の中とか時代の変貌が関係しているとしたら……(p8)」とある。
    私はずっと怖がっているだけで、闘い続けてきた人とは違うけど、この怖さってこういうことだったのか。

    娘の施設で問題が起こったとき、著者が施設で親の立場から話したときの講演が収録されている。
    食事や入浴をさせるだけの「世話」ではなく、あなたはどうでもいい存在ではないのだと気にかける「ケア」をしてほしいのです、という、この記録を読むためだけでもこの本を買う価値がある。


    この人の本を読むといつも考えさせられて、いいたいことが浮かび過ぎてレビューをうまく書けない。


    p12にあった「アシュリー事件」の書評。http://d.hatena.ne.jp/lessor/20111109/1320857359

  • 『アシュリー事件』の児玉さんの旧著。10年前の本が絶版となり、生活書院から新版となって出た。旧著のサブタイトルは「障害のある子と親の座標」だったそうだ。広島弁とおぼしき中国地方のことばが交じる文章に、笑いをさそわれ、ときにゲハゲハ笑いながら一気読み。

    旧著から10年、児玉さんの娘・海さんは25歳になり、「「障害のある子ども」なんて書ける時代は、とっくに終わってしまった」(p.4)とある。そして、児玉さんは、アシュリー事件と出会い、「子の権利と親の権利の相克」に直面する。

    ▼親の利益や権利は、必ずしも子どもの利益や権利とは重ならない。むしろ「親だから分かっている」「親の愛からすることだから」と親が自己正当化しつつ、また社会の方もそれを疑ってみようともせず、子の権利が侵害されていることは思いのほかに多いはずだ。それは、いったん気づいてしまうと、軽々に無視することのできない重い真実である。自分が親である立場で海との関係性を考え直すことを、私はアシュリー事件と出会うことによって迫られた。同時にそれは、自分が子である立場で両親との関係性を見つめ直す、遅ればせながら稀有な機会ともなった。(p.14)

    NICUで保育器に入った子が、聞こえるはずのない呼びかけに応えたように、世を憚らぬ大あくびをした。父と母は二人で吹き出し、「この子は生きる…」と確信した。何度かは死にかけた子の、ニカニカとご機嫌な姿をみて、「この子が、生きて、ここに、いる…」と母は思う。

    あまりに虚弱な子で、そのために仕事を手放した「母」の痛みと傷も、この本には書かれている。中高と6年間の同級生だった夫は、自分も同じ親なのだから、子育ての手伝いはしない、自分も子を育てるという人だったが、それでも善意の世間様は「お母さん」に迫る。「障害を持った子どもの母親になったとたんに、周りは私を叱り、責める人ばかりになった」(p.94)のだ。

    「善意はやっかいなのだ」「美しいウソ」「言葉を持たないということ」… 児玉さんが、障害をもった子の母になっていった過程での、憤りや笑い、子への思い、そして自分自身に向きあった場面が書かれている。

    「ケア」という言葉は「どうでもよくない」ということなのだと、"I care about you"は、"I love you"の意味にもなるのだと、そのココロは「気にかかること」だという話に、ああ「ケア」というのは、重心ラーの「ラー」やなあと思った。「いろいろ迷いはあるけれど、やっぱり目の前のこの子たちを放っておけない」(p.257)というココロ。

    ▼…愛情があるから放っておけない、気にかかって仕方がないから見えるものがある、気がつくことがあるんです。無言のまま着替えをさせたり、食事を食べさせたりすることは、決してケアではありません。それは「世話をする」ことかもしれないけど、ケアではないんです。
     …目の前のあなたを、私は放っておくことができない──。その思いをこそ、ケアと呼ぶのではないでしょうか。(p.256)

    人との出会い、その人の存在、そして自分とその人との関係。

    ▼きっと人間は、誰かと出会ったら、もう二度とその人と出会わなかったことにはならないんじゃないか、と思う。…出会う前の自分とは、もうどうしたって違う自分にしかなれない。人間が誰かと出会うということは、そういうことなんじゃないだろうか。
     何ができるとかできないということよりも、本当は、そういう人間として一人の人が生きて、そこに、いる、ということが、すでに奇跡のようにものすごいことなんじゃないだろうか。そういう人が生きて、そこに一人、いる、というだけで、その人がいないのとは世界がまるで違ったものになる。どんな人であろうと、人間というのは、本当はそういう存在なんじゃないだろうか。(p.263)

    あたたかい本だった。

    (11/25了)

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著者プロフィール

児玉真美(こだま・まみ):1956年生まれ。一般社団法人日本ケアラー連盟代表理事。京都大学文学部卒。カンザス大学教育学部でマスター取得。英語教員を経て著述家。最近の著書に、『増補新版 コロナ禍で障害のある子をもつ親たちが体験していること』(編著)、『殺す親 殺させられる親――重い障害のある人の親の立場で考える尊厳死・意思決定・地域移行』(以上、生活書院)、 『〈反延命〉主義の時代――安楽死・透析中止・トリアージ』(共著、現代書館) 、『見捨てられる〈いのち〉を考える――京都ALS嘱託殺人と人工呼吸器トリアージから』(共著、晶文社) 、 『私たちはふつうに老いることができない――高齢化する障害者家族』 『死の自己決定権のゆくえ――尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植』 (以上、大月書店)など多数。

「2023年 『安楽死が合法の国で起こっていること』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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