- Amazon.co.jp ・本 (62ページ)
- / ISBN・EAN: 9784907105044
作品紹介・あらすじ
ジョルジュ・バタイユによるヒロシマ論。
原子爆弾の人間的な意味は相手を「恐怖によって強制することにある」。だが投下された側は恐怖する間もなく「突如おぞましさのなかへ突き落とされ」「煙にあぶられた白蟻の巣」のような人知のきかない世界をさまよわされた。
バタイユはハーシーの衝撃的なルポルタージュ『ヒロシマ』(1946)をもとに被爆者たちの動物的な体験を重視し「この不幸を生きよう」と叫ぶ。ついで人間的な意味を捉え直し、文明こそ戦争の元凶とみなしていく。同情や憐れみを「曖昧な感性」と厳しく批判しながら、決然と感性を意識の極限へ向かわせ、そこでまた「動物的な苦悩の果てしない《不条理》」に出会うのだが、そここそは「夜の核心」、すなわち「毎年五千万の霊魂」を地獄へ葬り去る世界の巨大な消費の光景なのである。
ヒロシマをさらに大きな濁流へ開かせながら、バタイユは、戦争回避の普遍経済学を模索する。
原爆投下から一年半たたない1947年初頭に『クリティック』誌に発表された、《夜をさまよう人》バタイユの意欲的論文。
感想・レビュー・書評
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難しいです、これ。論文自体はそこまで量はないのでもう一度読み直します。
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ヒロシマをさらに大きな濁流へ開かせながら、バタイユは、戦争回避の普遍経済学を模索する。
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素材が素材だけにシリアスな読書。バタイユは時間的に近く自分は地理的に近い。そういうことが頭をよぎった。バタイユはフランスは原爆投下をキチンと思考でない所で受け止めていないという。その指摘は時を経た被爆国日本でも言える気がする。どこか知識的に受け止めているフシがある。人間として受け止めるというような感性の話として受け止めることの大切さをバタイユは指摘してくれる。なかなか有意義な小冊子だった。
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バタイユのヒロシマ論。野蛮ではなく、文明こそ戦争の元凶であるとする。慣れなければ読みにくいが、それは常識を転倒するロジックだからだろう。
被爆の現場は、何が起きたのかを理解することもできず、ただそこに起きた出来事に居合わせたものとして、「動物」として事態にわたりあうことしかできない。
一方、、トルーマン大統領が、歴史的な出来事として、原爆の威力を誇るラジオ放送をしたことが引かれている。「人間」的、文明的な評価である。
少し離れた場所で爆破を体験し、他の人を助けねばと爆撃の中心に向かった谷本氏は、小高い丘から、想像した1地区だけでなく、ヒロシマ全体が失われているのを見る。「いくつもの爆弾が投下されたのにちがいない(中略)いったいどのようにして、これほど広域の破壊が静かな空からやってきたのだろうと彼は自問した。かなり上空の小さな編隊であっても、飛行機の爆音が聞こえたはずなのだが」(p.14)
このシーンをバタイユは「人々を個別に、動物的に、襲った大惨事を徐々に理解可能な表現に変えていく、ゆっくりした啓示」(p.14)と評価するのだ。 -
道徳的観念をこえてものを書いたり考えたりすると、当然ながら非道徳的にならざるを得ず他人の反感を買いますが、文書の上手さがそれを補っている気がします。見習いたいものです。
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アマゾンで予約しました。
(2015年02月16日)
無事、届きました。
(2015年03月22日)
予想していたのとは、別の場所、
別の高みにつれて行かれます。
個人的には、酒井健先生の「訳者あとがき」から
読むことをお薦めします。
(2015年03月22日)