- Amazon.co.jp ・本 (178ページ)
- / ISBN・EAN: 9784908983184
作品紹介・あらすじ
教師の読み書き能力、その表れとしての文章の劣化を看過できないと、千葉大学名誉教授・宇佐美 寛先生が筆を執りました。
前著『議論を逃げるな』で、きわめて論理的な言語である日本語が粗末に扱われている現状に怒り、不実な誤った教育言説を叩き切ったその筆で、今度は文章の劣化甚だしい教師に施す「治療のための手術」としての批判を展開。
燃え尽きることのない闘志で、具体的に実例を挙げ、齢八十三の筆者がより若い教師に共闘を訴えます。
感想・レビュー・書評
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一瞬で著者のファンになった。
今の現状に危機感を覚え、本気でぶつかってくれている。一度お会いしたいと強く思いました。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
個人情報保護のこのご時世に
巻末に堂々と著者の住所を書く
その心意気たるや
現在第二章まで読み終わったところだが
「切れ味」が衰えていない。
これが齢八十を超えた人間の書く文章なのか。
「凄い」としか言いようがない。 -
教師の文章(つまり読み書き能力)の劣化を、大学教師の文章を例にとり舌鋒鋭く批判する
《言葉は事実を指し示す記号である。言葉の学習と事実の学習は違う。》
《論説的文章において重要なのは、〈異・同のけじめ〉である。二箇所が異なっているならば、異なっている理由が明らかに書かれていなければならない。》
《状況・主体が有るような課題で作文を書かせよう。》
《作文指導で重視すべきは、文のつみ重ねである。段落など気にかけてはならない。》
《いずれ英語を学ばせるためには、小学校では、英語を教えるべきではない。日本語によって、言語の本質的構造がわかる。この学習が英語の学習の実質的な基礎として生きる》
タイトルから想定されるようなたんなる文章作法ではなく、批判のための批判でもなく、国語とは、教育とはを根源から考える切れ味のよい視点をあたえられる一書
著者は教育哲学者
八十歳をこえたいまも勉強会「宇佐美塾」を主宰し、旺盛な執筆活動をつづけている -
「文章」は、人とコミュニケーションする上では重要なツール
その文章、こと教師の文章に著者がバッサバッサと斬りかかる
・「対話的な学び」について
・言葉は事実を指し示す記号である。言葉の学習と事実の学習は違う
・自と他を分けること
・ 文章を書かせるためには、書き手が状況の中の当事者(主体)になるという状況が要る。
・事実を示し、その事実を論ずる
・<段落>について
普段、なんとなく言っていたこと、
「事実」と「意見」
心理文を無意識に事実に入れてしまう罪
課題を設定しているけど、書きたい課題ではない
段落を指導して内容を指導しない とか
案外、抽象的に取り扱ってしまっていたものを、
著者の歯に衣着せぬ論説で解説。
善し悪しではなく
一読して、考えるきっかけを得られる本 -
もちろん教師だけではなく、私たちの読み書き能力が劣化甚だしいということです。
実例が豊富で、切れ味鋭い批判です。
論文を書く人には必読書です。
小学校英語不要論をどう思うか
不要どころか有害なのだ
第10章の論考は、まさにその通りです。
小学校では日本語をこそ、きちんと学ぶべきでしょう。
「日本は、大学の授業を国語で行ない得るアジアでは珍しい、独立国語の国である。(もう一つは中国だろう。)もちろん、大学だけではない。立法・司法・行政……国家としての全ての営みを国語だけで行い得る言語大国である。ふるくは中国語を日本語の中に消化吸収し、維新後は、英語・ドイツ語・フランス語の概念をも翻訳吸収してしまった。
英語を話せる必要など無い。必要なのは、この論理的な大言語である日本語を学ぶことである。」
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