- Amazon.co.jp ・本 (248ページ)
- / ISBN・EAN: 9784909237798
作品紹介・あらすじ
天才哲学者、マルクス・ガブリエルによる初の芸術論!
『なぜ世界は存在しないのか』(講談社選書メチエ)、『新実存主義』(岩波新書)などのベストセラーで知られる著者が、美術の見方を徹底的に考える。
◉知識、背景を教える本ではありません!
この本がテーマにしているのは、この世界における美術のあり方と、それに向かい合う私たちの態度です。
◉美術館での過ごし方が変わります!
特定のジャンルや作品ではなく、美術全般に通用する鑑賞態度や思考を掘り下げる本です。知識や経験が豊富でなくても、作品への向き合い方を学べます。
◉身近な例が多数登場します!
モネの絵画や、デュシャンの泉など有名な作品はもちろん、スター・ウォーズシリーズや、日々目にする太陽の光など、身近な例から美術についてじっくり解説してあります。
・デザインとアートの違いは?
・アートはどうしてこれほど強力な力を持つに至ったのか?
・アートの価値は何で決まるのか?
・なぜ、アートは人類の起源だといえるのか?
さまざまな疑問に答えつつ、美術の持つ力の根源に迫る一冊。
感想・レビュー・書評
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補論の「懐疑のアート アートの懐疑」が絶品。
アートとガブリエルの哲学の双対性が明らかにされる。
概念は言葉によるものだけでない。
「神話」に懐疑するのがアートである。 -
アート愛好家であれば必ず、「アートとは何か」という問いにぶつかったことがあるはずだ。マルクス・ガブリエルは、この問いに「すべてのアート作品がそれだ。アートを定義するのはアートである」と答える。これは決してトートロジーではなく、「アート作品はラディカルに自律した個体である」という着想の結論だ。
アートは物品(オブジェ)そのものではなく、鑑賞者の解釈までをも含んだ構成(コンポジション)である。「解釈」とは「理論的な分析」のことではない。それは楽譜を演奏したり、映画を上映することに似ている。私たちはアートを解釈することで、アートに取り込まれている。
制作者も鑑賞者もアートの構成の一部であり、アートそれ自体は何からも支配されない絶対者なのである。
そのような論旨であると理解したが、理解が不十分なところの方が多いように思うので、何度も本書に戻ってきたい。
アートをどうにかしてカテゴライズする必要がある市場経済の中で、この考え方が遍く受け入れられることはないだろう。それでも、一人のアート愛好家として、アートが「ラディカルに自律したもの」という論には心が躍る。「無道徳的で、無法的で、無政治的である」アートは、私を、私たちを、これからどこへ誘ってくれるのだろうか。 -
マルクス・ガブリエルによるアート論。
著者は近年の著書で「アートに可能性は無い。人類に大切なのは哲学だ」のようなことを書いていたのでアートの否定論者だと思っていた。しかしどうやら本書では意外にもアートの存在について真剣に考察しているようだ。自らが打ち立てた理論「新実在論」を使ってアートとは何者なのかを説明する。ただ、『新実在論』はやや難解であったが、さらに本書はその応用編とでもいうべき内容なので、読解に苦労させられる。(ただ、嬉しいことにというか、個人的に有利なことにというか、論説の用例としてデヴィッド・リンチの作品がしばしば登場してくるので、私としては理解の大いなる助けになった。ガブリエルはリンチ好きなのか?)
結論としてこのアート論は素晴らしく、アートの可能性と将来性を大きく擁護してくれている。まさにアートには力があるということだ。
ガブリエルによるとアートはそれ自体で自律した存在であるという。これを「アートはラジカルに自律している」と表現している。人間の存在ありきで存在するとか、人間の鑑賞を伴うことで存在するという従来の理論そのものが間違っていて、それが誤解や混乱を生み出している。その法則は人間の存在や影響の有無にかかわらずアート自身で完結している。それでいて自然科学や物理学でとらえられるような物質的実体があるものではない。また、だからといってアートを妖怪やら精霊やらと同じようにイメージしてはだめで、その観念を持つと迷信だと誤解してしまう。ようするに、物理的に存在しないけど、理論的または存在論的には「実在」しているもの。そして人間から自律している。
ということは、作品が成功しているか失敗しているか、美しいかそうでないか、を人間の正義・倫理と関連させて理解することは間違っている。その錯誤は社会に「悪の肯定」を生み出すことにもなる。そして著書はこのアート法則の「セイレーンの歌声」に時にはあがなう必要がある、というのである。つまり「アート=善」ではないということ。
また、この「アートはラジカルに自律している」というアイデアは、『新実在論』の「意味の場」という解りづらい概念の理解を補強してくれている。
それにしても日本語と、日本の翻訳というシステム(本書の論文は米国デポール大学で最初に発表されたとあるので、英語で書かれたのだろう)はすごいなあ。日本語母語者であれば、どうにかこのような難解な理論も理解することが可能なのだから。本書の訳者も素晴らしい。ただ、本書日本語版に誤表記だと思われる箇所が何ヵ所かある。これは訳者の責任というより(そりゃ人間常に間違うよ)、編集作業界隈が校閲段階で、本書を正しく読解しておらず読み飛ばしたからではないか、と想像する。
アートは権力者によってコントロールされているわけではない。それどころかアートは現実的にコントロール不可能なのだ。アーティスト自身でも。実はアートの方こそ私たちを支配している。いわばアートはデジタル批評家が恐れる「スーパーインテリジェンス」だ。32
アートが発生したおかげで私たちは「人間的な存在」になった。人類の起源はアートなのだ。(他の動物や無機物と人間は違う「特別な存在だ」、という観念はアートによって発想された)34
ツイン・ピークスの有名な言葉を借りれば(アートの)「フクロウは見かけと違う」56
人間主義が自然破壊をもたらすなどとんでもない。人間主義や啓蒙主義が環境保護に反するという説は、作り話である100
「人間」が「アート作品」ではない。アートは人間よりもはるかにラディカルで、個別的で、独創的である。アートと人生を合致させようとする試みは、必ず悪の肯定に至るのはそのため100
芸術宣言やアートのジャンル・カテゴリー(印象派・モダニズム・バロック・表現主義など)は、しばしばアートのラディカルな自律性を覆い隠す。そうした分類は、アートのリアルな力について何も教えてくれない106
アートの分析によって、自然法則が発見されたり、宇宙の構造が見つかったりすることはない。代わりに私たちは、そこで何にも還元できない緒観念のリアリティーに触れる(だけだ)130
『エイリアン』と『スターウォーズ』は「鑑賞者もアートに組み込まれている」ということと、「作品が自律」していることが表出している(構成されている)。『エイリアン』のあの恐ろしい宇宙生物の設定は、アート(映画)が鑑賞者を「宿主」にすることと、「自らを食い破ってくる何者かの存在」をコンポジション(構成)している。『スターウォーズ』は、「スクリーンの光線を鑑賞者が目視する」というだけの行為が「アートが人間に影響を与える(スターウォーズ観て感動しちゃった)」になること(映画というアート)を、「ライトセーバー」という設定(光線で人が殺せる)でコンポジションしている。137
「美的経験のパラドクス」-私がアートを体験するとき、私は存在することをやめるパラドクス。つまり、「私が存在する」とは「私が自律的行為主体である」ことである。その「私」がアート鑑賞(アート体験)することにより、「アート自身が自律的」ゆえに「私」の自律性が脅かされるのでパラドクスが生じるということ。(「作品を解釈する」の「解釈」とは、自由な行為でも、自律した行為でもない)139
人間は神に似せてではなく、さまざまなイメージに似せて作られた(洞窟壁画に描かれた人の営みや、美的に装飾された武器や道具に従って、生きかたや動きかたを合わせた)。そのイメージを産むのはアートである。人間的な自律性は、アートがもつ得体の知れない力に奉仕していると言える。アートが自身のイメージに似せて(自律した人間としての)私たちを生み出した142
アートの力は絶対権力だ。そのため一神教の教義(神は絶対者)と対立することがよくおこる。そしてそらは宗教だけではなく、哲学、科学、政治などの間にもおこる。彼らは権力者であるため当然対立するのだ。だが彼らに、アートと実際に戦う方法などない。なぜならアートそれ自体は、他の意味の場から手の届かないところにあるまさしく絶対者だからだ。(ここに、哲学者ガブリエルが過去にアートを批判した動機があるのかも)146
アートの非論理性は、作品のラディカルな自律性がもたらす特徴のひとつである155
アート作品は前触れもなくやってくる。
アート作品は、それ自身以外の確たる理由もなく、ただそこに在る。私たちにはそれに抗うことも、それを厄介払いすることもできない。156
すべてのアートが優れたアートであるわけではないし、アートは危険でもある156
いずれにせよ、アートの本性それ自体には、われわれを向上させることも、破壊することも予定されていない。アートにとって、それはどうでもいいことである157
私はアートと神話の必要性を擁護したい166
『マルホランドドライブ』の「クラブシレンシオ」のシーン(すべては、現にそう見えているものと異なるかもしれない)を「懐疑論パラドクス」の好例として取りあげ、認識論の論駁をおこなっている183
「懐疑論パラドクス」が常に起きる状態である「認識論的やりとりの場(生活のさまざまな場面)」において「人間らしい生活」が出来るのは、「神話(最初に神が存在したという作り話)」の助けを借りて生活の場面を見分けているからだ。ところが神話は、近代科学が発見されてから命題的、学識的、科学的な言説に対置させられた185
〔懐疑論が〕述べるべきことはことが何もなくなる。←??誤表記?199
懐疑論者は真なる命題を理論的な言葉で表現しようとする理論家というより、むしろアーティストに似ている207
ゴールドマンら「知っている」という言葉の適用な使用を検証する。←??誤表記?208注釈28
この問いに対して、出発的として与えられたどれかの枠組みの内部から答えることはできない。←??誤表記?215
懐疑論への応答として枠組みや文脈を理論化することは、芸術的な創造行為なのである(懐疑論を想起して開陳する行為=作品制作と発表)。216
私は哲学という営みを、概念を使った芸術的実験と捉えている。私の考えではコンセプチュアルアートが哲学に似ているのではなく、むしろ哲学がコンセプチュアルアートに似ているのだ。222