読書の日記

著者 :
  • NUMABOOKS
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  • Amazon.co.jp ・本 (1120ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784909242020

作品紹介・あらすじ

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本を読む人と、その生活。
このような365日の記録が、かつてあっただろうか。
東京・初台の〈本の読める店〉「fuzkue」店主、
初の単著のして読書の喜びに満ちた圧巻の1100ページ。
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◇推薦のことば

すべての文章に当てはまるわけではないが、この人の文章はまさに、文は人なり、才
気煥発、多動症的バイタリティーを存分に現していて、「ぜひ会いたい!」とも思う
し、「会わなくてここにある文章でじゅうぶん」とも思う。
こういう高い能力を持った人は、世間では成功すると思われがちだが、その高さの質
が世間と折り合わないために、「労多くして益少なし」というか、端からはわざわざ
見返りが少ないことばかり選んでいるように映る。
私はこの人に似た人を二人知っている、一人はアルチュール・ランボーで、もう一人
は樫村晴香という70年代からの私の友人だ。
二人とも浅い知り合いは、「もっとうまくやればいいのに(あいつにそれができない
わけないんだから)…」と残念がるだろうが、よく知る友人は、これが彼の精一杯の社
会との接触であり、彼にその気がなかったら自分は彼と交遊することがなかったと、
年とともに感じるようになる。
凡庸な人には彼の能力も魅力も、アフリカの砂漠での後半生が見えず、ただ天才詩人
としか思われず文学青年(死語)の崇拝の対象でしかない、そういう、ランボーのアフ
リカでの日々を思わせる、これはそういう文章で、私の気持ちを掻き立てずにはいな
い。
――保坂和志(小説家)

ここに収録された日記よりずっと以前の日付のものだっただろうか、阿久津隆は「ス
トラグルという言葉が好きだ」というようなことをたしか書いていた。ぼくは「スト
ラグル」という語感をすぐに気に入り、真似して使ってみようと考えたことを覚えて
いる。彼の日記をだらだらと読み進めているとふとした語彙がとてもフレッシュにみ
えることがある。
去年秋にようやく映画『オデッセイ』を観て、続けてすぐに原作『火星の人』を読ん
だ。火星に一人取り残された植物学者マーク・ワトニーが生存の証拠として書き続け
た日記。
火星にマーク・ワトニーがいて、そして初台に阿久津がいる。初台のマーク・ワト
ニーこと阿久津隆……よくわからないけどたぶんそんな感じ。二人がしばしば記す、い
かに今日自分は疲労しているのかという描写が妙に楽しい。彼らのストラグル=悪あ
がきの記録を愉快に読めるというこの幸福。二人とも日々のあれこれにまるでこども
みたいに一喜一憂し、ぐったり疲れ、その一方で、日記を書く手を、仕事をする手
を、本を読む手をなぜか止めない。
1ページ目の冒頭、つまり1日目の日記の、1行目。読み始めてすぐ、体からふわっと
力が抜けた。これがもし映画のファーストカットならばぼくはきっと大興奮したか心
底嫉妬しただろう。何気なく置かれたカメラが捉えたなんてことはない実景カットの
ような、でも、まさしくこの本「読書の日記」のファーストカットはこのカット以外に
ありえないだろうというような、すてきでとんでもない1行目。
――三宅唱(映画監督)

本の仕事をしているとよく聞かれることのひとつに、本をいつ、どのように読んでい
るのですか?
というのがあって、正面から答えようとすると説明がむずかしい。けれど、これから
は本書を差し出すことでごまかしたい。ぼくのことはともかく、毎日このように読ん
でいる人がいますよ、と。
阿久津さんは、食べるように本を読む。仕事が忙しい人も、生活が落ち着かない人
も、食事はする。ちょうどそんなふうに。人は、食べたものと読んだものとでできて
いるのだ、という気がしてくる。
本書はまた、経営の日記でもある。経営の目的は、数字を稼ぐことではない。店主が
いて、店としての理想があり、それに少しでも近づきながら続けていくことが、なに
より最初にある。その思いを胸に、仕込みをして、店を開けて、客が来れば迎え、料
理をして提供する。その先についてくるものとして、最後に数字がある。そのことの
愉しみも苦しみも、すべて書かれている。だからきっと、お店をやっている人には勇
気と共感とを与えるし、これからお店をやる人には、遠回りかもしれないがいつかう
んと役に立つ。
それより何より、読んでいて、べらぼうに面白い。これは日記の形をした小説だ。阿
久津さんと一緒に、今日も明日も、どんどん本が読みたくなる。こんな本が、かつて
他にあっただろうか。
――内沼晋太郎(ブック・コーディネーター)


◇本書に登場する作家(一部)

アンソニー・ドーア、雨宮まみ、ハリ・クンズル、ボラーニョ、ジョン・ファンテ、
ヘミングウェイ、ゼーバルト、カルペンティエール、植本一子、デニス・ジョンソ
ン、岡田利規、ベン・ラーナー、坂口恭平、ホセ・サエール、江國香織、ケルアッ
ク、多和田葉子、カステジャーノス・モヤ、滝口悠生、ヴァージニア・ウルフ、今村
夏子、テジュ・コール、武田百合子……

感想・レビュー・書評

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  • 本を読める店fuzukueの店主によるWeb日記をまとめた1冊です。
    2016年10月1日から2017年9月30日まで、まるっと1年分1105ページ、手にずっしりと感じられる重みが心地よいです。

    著者は保坂和志のことを「自分のリズムで言葉を踊る人」と書かれていますが、著者自身もそんな人だと感じました。
    少し癖があるけれど、読み進めるにつれどんどん著者の文体にチューニングが合ってきて、どんどん読んでいたくなる日記。
    読んでいる本のこと、店のこと、日常のこと。
    「文章を書く」ということに対して構えたところがなくて、思ったこと書きたいことを、するするするっとそのときにそのままに書いている。
    その感じが読んでいて気持ちいいのです。

    著者は日記という形式について「日記の持つこの散漫さ、どこにも着地しない感じ、これがやっぱりなによりも貴重だ」「ずっとこのまま続いていてもいいし、どこで終わってもいい」と書かれていますが、本書もまさにそんな感じ。
    本書の続きは現時点であと5冊刊行されています。
    まだまだ読んでいられる…という幸福感に浸りつつ、まずは1冊目を読了。

  •  東京は初台にある、本の読めるお店「fuzkue(フヅクエ)」店主による一年間の日記。
     内容は読書だけでなく日常全般(その日の天候や体調であったり、なにを食べて飲んだか、など...)やお店の経営のことなどにも及ぶのだが、そこに通底して本の存在があり、ほぼ毎日欠かすことなくなにかしらの本が彼によって読まれ、そして語られている。
     その空気感というか、文章から漂ってくるお店の雰囲気や本へ向かっているときの静寂、また、彼の見聞きしたものが文章を通して頭のなかで生き生きと再現されていくような感じがあって、とても良かった。
     日々あったことをただ記録するだけ、とはいえ日記は存外に難しく、しかもそれを人に読まれる「読み物」となる前提で書き、かつ、読んで面白いものにするというのは本当に脅威的な文才だと思う。
     1100ページという鈍器級の分厚さを誇る本だけど、読んでも読んでも終わる気配がないことに幸せを感じた本は久しぶりのような気がする。一ヵ月ほどじわじわと、噛み締めるように読んだ。

  • 桜庭さんの読書日記が大好きなんですが、それと似たような、というか「読書の日記」だから同じジャンルなんだろうな。日常の中の読書、そしてお店や生活やもろもろについての考えること、ものすごく読んでいて楽しい。永遠に終わらないで欲しい。B&Bで何か買いたい、と思ってしばらく積んでいて、ふと読み始めたらハマってしまったんだったと思います。先にこの本を読んで、フヅクエを知った。

  • 爆発する、という印象を抱く。ここで著者の阿久津隆が書く日々の記録は、なんらかのフォーマットに安寧に収まりうるものではない。大抵の書き手の書くものはウェブ日記やブログといった行儀の良い形態に収まってしまうが(そしてそれはむろんなんら悪くないが)、阿久津はその形式を超えて読書中に抱いた思念や日々の些事やフヅクエを運営する裏事情などを日記の中で炸裂させる。その筆致は実に芳醇。豊満なボリュームを誇るこの本を読んでいると、私も(阿久津とはかなりテイストが違うにしろ)読むことをエンジョイしたくなる。元気になれる1冊だ

  • 朴訥とした語り口と、日常の何気ない、しかし精緻な描写がとても読ませる。個人の日記がそもそもにして面白いコンテンツであることは、ブログの登場以来知れ渡ってはいるのだけど、本と、コーヒーと、酒と、アートとをひたすら行き来するような、絶え間ない反復をここまで気持ち良い文章にできるのは、率直に羨ましい。事あるごとに読み返したい。

  • 昨日の午前中を除いて、この10日ほど、ずっとこの本を読み続けていました。
    小説ならするする読めるけど、日記は時間がかかる。
    でも、読書も好きだし、日記を読むのも好きなので、この本はすごく楽しみでした。
    けれど、結果としてこの本を読むことは、私にとって苦行となりました。

    まず、読書部分の内容が薄い。
    読んでる本は南米系の小説だったり、エンタメとは対極にあるようなノンフィクションだったり、私の中では重めの本が主。
    でも引用を多用しすぎている割に、感想は感覚的で、それも含めて戦略的なのだろうけれど、ケレン味だらけの文章の中で、何が書かれているのか見失うことも多くありました。

    元々ネットで公開するためにかかれた読書の日記なので、すべてが事実である必要はないと思うけれど、フィクションとノンフィクションがごたまぜの文章は、大変読みにくかったのでした。
    そして、2~3冊の本を並行しながら何日もかけて読む、というスタイルは、地の文で今、何の本の影響を受けていてこうなっているのだろうというのもわかりにくく(読書スタイルは人それぞれでいいんだけど、読者としては、ってことね)、何度も何度も、今何を読まされているのだろうと自問するはめになりました。

    多分、一週間ずつ更新されるその日記を、ネットで一週間分ずつ読むからいいのだと思う。
    これ、一年分なので、合わない文体一年分を読むのは本当に苦行でした。
    何度途中で投げ捨てようと思ったかしれません。
    でも最後まで読んでよかった。
    「富士日記」について書かれ始めた頃から、文章がこなれたのかケレン味が失せたのか、読みやすくなりました。

    とはいえ、内容が悪いわけではありません。
    随分付箋もつけました。

    ”「違和感を感じる」という書かれ方がされていて、僕は「違和感を感じる」人たちに違和感を覚え続けながら生きているのだが、角田光代が書き、そしてそれがそのまま通って印刷されて出版されている事実を突きつけられると、もしかしたら違和感は感じてもいいものなのかもしれない。僕の認識が間違っているのかもしれない、と思った。”
    私は「夜ごはん」に違和感を覚え続けながら生きております。
    「夕飯」か「晩ご飯」じゃないと収まりが悪い。

    ”大変だけどかわいい、かわいいけど大変、つまり大変・かわいい、ということだった。大変でありながら同時にかわいいことを名状する言葉が見当たらない。それはもしかして「育てる」という言葉だったりするのだろうか。”
    言い得て妙。

    Amazon等のレビューで、「わからない」と切り捨てる人に対して。
    ”「わからない」は豊かな始まりの言葉であるはずじゃないのか。「わからない」なんていう言葉を強気に発することができてしまう姿勢及び考え方は本当に醜いなと思う。わからなさを楽しめよ、楽しめないならわからないことに対して謙虚になれよ、謙虚になれないなら口をつぐめよ、と思う。”
    耳が痛い。
    でも、わかるわからないの関係は、わかりたいわからせたいが対等でないときは、結構しんどいのです。
    合う合わないは言っていい?

    ”読書という行為のいかがわしさ、排他性、そういうことを最近考えていた。そしてそのいかがわしくて排他的な読者のために僕は働くのだと、そういうことを考えていた。”
    読書というのは排他的な行為であると、言われて初めて気がついた。
    だから私には一定以上の読書時間が必要なんだな。
    排他的な時間と排他的なスペース。
    読書がここを担ってくれているから、一応まっとうに社会生活を送れているのだな。

    ”僕は吝嗇なので読み始めた本は最後まで通したくなるのだけど、本当は最後まで読まないといけない理由なんてないはずで、これから先「死ぬ死ぬ」とばかり意識するようになるのだったら、読まないほうがいいのではないかという気がする。でも、読むだろう。「読了」とはいったいなんなのだろうか。”
    この本を読みながら、私もそう思っていましたが、結果的に最後まで読み通してよかったな、とは思いました。
    数年に一度、時間を返してくれ!的な本にあたることもありますが。

    ブレイディみかこの『子どもたちの階級闘争』からの引用より
    ”どうして自分より恵まれない環境で育った人のことはあからさまに差別できるのだろう。それは「外国人を差別するのはPCに反するが、チャヴは差別しても自国民なのでレイシズムではない」と信じているからだ。これがソーシャル・レイシズムというものの根幹にある。”
    「チャヴ」というのは「公営住宅地にたむろっているガラの悪い若者たちのこと」だそうです。
    これを読んで思い出したのが、『第三若草物語』や『第四若草物語』で、あのマーチ家の人々が、南北戦争で奴隷解放の北軍についていた人たちが、プアホワイトと言われる貧しい白人の人たちをめっちゃ差別していたこと。
    差別と偏見って、どうやってなくしていけばいいのだろう。

    この本を読みながら、ずっと桜庭一樹の読書日記を読み返したくてしょうがなかった。
    この本は、読書より日記の比重が高いような気がします。
    日記として読めば、本についての記述が多くて嬉しくなったかもしれませんが、読書日記として読んだので、消化不良となりました。

    あと、つまりなんだかんだ言って、素人が書く文章とプロの書く文章の違いなのかもしれんせん。
    奇天烈な文章を書くけれど町田康は面白いし、脳内だだ洩れを書いてもニコルソン・ベイカーは面白い。

    で、おしゃべりをせず、読書をするためのお店である「fuzkue」は、日記の中では暇だ、客が来ない、とばかり書かれていますが、その後店舗数もスタッフも増えているので、もはや安泰でしょうか。
    回転数の少ないお店で、東京で、どうやって稼いでいるのかをとても知りたいです。
    来週初台に行きますが、寄れるかな?

  • 2冊目を先に買ったので、読む順番が逆になってしまった。
    遡る形で読むと、1冊目は、『読書』という印象が薄い。本の話題が多いのは事実だが、2冊目にあった濃さは無かった。時間が経つとともに、読書成分が濃縮されているのだろうか?w と、なると、3冊目は一体どんな風になるのか、今から楽しみだ(出るよね?)。しかしその時は、どうか判型は統一して頂きたい……。

  • 面白かった。大ボリュームの1,100ページ。読み終わった今の達成感がすごい。読み終わるのに半年かかった。著者の文章の書き方に癖がありすぎて気になったけれど、本を読む人の日々は読んでいて楽しい。充実している。それにしても、大真面目に「www」を本の中で使う人を初めてみた。それとも一周回ってふざけているのだろうか。

  • ちょい前に臨時収入があった際に購入した本。

    飲み屋では気前よく使うくせに、本となると
    文庫本一冊でもためつすがめつを繰り返してしまう。
    そこそこの勇気を持って買った本。

    ということは、ビールでも一杯ひっかけて買うと、
    恐ろしいことになるってことやね。

    さて本書。
    東京・初台の〈本の読めるカフェ〉「fuzkue」
    オーナーによる1,100頁に及ぶ読書日記。単なる読書日記ではなく、経営日誌の顔もある。帳簿ではないので数字までは出てはこないが、カフェ店主として日常–仕込みをし、決まった時間に店を開け、接客をこなし、珈琲を淹れ、料理をする–にも紙幅が割かれ、来客数に一喜一憂する叙述も見られ、本も読みたいけど、稼がないことにはね…の下りに共感を抱く。

    1,100ページの超大部のため、持ち歩くこともできず毎朝家の用事を済ませた後、15ページほどを読んでいる。
    約70日で読み了える勘定になる。

    著者の好きな作家との重なりは少ないが、プロ野球ファンというのが良い。随所に、野球好きが顔をのぞかせ、これがセリエAとか書かれていたら、ちょっとガッカリしたと思うな。

    既に面白いので、しばらく愉しい朝の時間を送れそう。

  • 読書、読書。寝ても覚めても、場所どこでも、時間があれば。音も出ない、他人に迷惑をかけない。読書好き、他の人に本をお勧めしますか、あなたは?

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著者プロフィール

1985年、栃木県生まれ。埼玉県育ち。慶應義塾大学総合政策学部卒業後、金融機関に入社。営業として3年間働く。退職後の2011年、配属地の岡山に残ってカフェを立ち上げ、3年間働く。2014年10月、東京・初台に「fuzkue」をオープン。著書に『読書の日記』シリーズ、(NUMABOOKS)、『本の読める場所を求めて』(朝日出版社)。

「2023年 『読書の日記 皮算用 ストレッチ 屋上』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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