- Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
- / ISBN・EAN: 9784909394811
作品紹介・あらすじ
私は日本のことを、
自分たちのことを何も知らなかった。(「おわりに」より)
水俣、天草、須恵村…
故郷・熊本の暮らしの記録を初めて解く。
現代の歪みの根源を映し出す、
今を生きる人たち必読の生活誌。
世界を動かしてきたのは、
いつも、小さき者たちだった。
はたらく、まじわる、くに…
消されてしまっていた声を拾い、
紡いだ、渾身の二一編。
気鋭の人類学者の新たな代表作
本書では、私が生まれ育った九州・熊本でふつうの人びとが経験してきた歴史を掘り下げようとした。とくに私が地元でありながらも目を背けてきた水俣に関するテキストを中心に読みこみ、自分がどんな土地で生を受けたのか、学ぼうとした。そこには日本という近代国家が民の暮らしに何をもたらしてきたのか、はっきりと刻まれていた。(「はじめに」より)
感想・レビュー・書評
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エチオピアをフィールドとする人類学者の著者が、自らが生まれ育った熊本のふつうの人びとが経験してきた歴史を掘り下げようとした試み。そのために著者は、先人たちが残してくれた記録や文章を参照しつつ、人びとの日々の暮らしや生活、思いや感情を丁寧に跡付け、自らの気持ちを綴っていく。
熊本と言えば、忘れてはならない水俣病。引用される石牟礼道子や原田正純を始め、水俣病患者の川本輝夫や緒方正人の著作、あるいは水俣の人びとの聞き書き等の文章を通して、美しい自然、懐かしい土地や漁業の思い出、チッソとの関係、水俣病発症から原因究明、闘争の長い道のり、患者の苦悩や地域住民の分断などの様相が、鮮明に浮かび上がってくる。そうした普通の人びとの歴史の側に立ちつつ著者は、大文字の歴史ー大日本帝国だったり、資本主義だったりーとの関係を考えていく。
公害病が大きな問題となっていた時代に生きていたし、当時の映像等もかなり見た記憶があるが、水俣病は決して終わっていないのに、正直、直視することを避けてきてしまった。苦しんでいる人を見るに忍びないと言うより、そうした悲惨な状況や原因を見たくないという気持ちがあるためだ。
そういった意味で特に衝撃を受けたのは、「十二、たちすくむ」で引用されている映画監督土本典明の文章。土本が撮影していたとき、ある女性から「うちのこは、テレビのさらしものじゃなか。何でことわりもなしにとったか、おまえらはそれでも人間か。わしらを慰みものにするとか。―あやまってすむとか。みんなしてわしらを苦しめる。写真にとられて、この子の体がすこしでもよくなったか。」土本はこの叱責にショックを受け、一時は立ち直れなくなった。そこからの土本のことは本を読んでもらうとして、これを受けた著者の考察が実に印象深い。「容易には理解や共感などできない。その自覚から「うしろめたさ」が生じる。そうして立ちすくんだあと、何かせざるを得ない状況へ駆り立てられる。」
水俣に加えて、森崎和江の「からゆきさん」で天草のからゆきさんの苦しみが語られ、また、ロバート・J.スミス/エラ・L.ウィスウェルの「須江村の女たち」で昭和10年頃の須江村の女たちの様子が生き生きと描かれる。
そんなに遠い昔のことではなく、まして日本のことであるが、日々都会で生活していると、とても遠いところの出来事のように感じてしまう。しかし、どこかで他人事ではないと感じる自分もいる。
声高に何かを主張する本ではないが、いろいろなことを考えさせられる。ゆっくり、そしてじっくりと読んでほしい。 -
エチオピアでのフィールドワークで得た"小さな"視点で作者の故郷である熊本(水俣、天草、須恵村)を捉え直した生活誌。
知りたくなかったことは知ってみないとわからない。でも、知ってしまったら"うしろめたさ"を抱えて関わり続けて考え続けるしかない。
何年か前に訪れたの辺野古の景色がこの本の水俣と重なった。自分が生まれ育ったくにのことですら知らないことばかりだ。 -
文化人類学者による、松村氏が生まれ育った熊本、特に水俣を中心とした掘り下げ。
読み終えてから、改めて「はじめに」に戻り、松村氏の思いを噛み締めた。