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感想・レビュー・書評
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(2005.07.12読了)(拝借)
副題「プリヤンバダ・デーヴィーと岡倉覚三・愛の手紙」
【岡倉天心】(1862-1913) 美術評論家。横浜生まれ。本名、覚三。フェノロサに師事。東京美術学校校長。のち、門弟横山大観・菱田春草らと日本美術院を創立。ボストン美術館の東洋部長となり、日本美術の紹介に尽くした。(「大辞林」より)
【フェノロサ】[Ernest Francisco Fenollosa](1853-1908)アメリカの哲学者・美術研究家。1878年来日。東大で哲学を講義する傍ら、日本美術に関心を深め、新しい日本画の創造を提唱。弟子の岡倉天心とともに美術学校を創立。帰国後はボストン美術館東洋部長。(「大辞林」より)(フェノロサは、アメリカの人だったんですね。)
「岡倉天心展」を見たら、岡倉覚三の本で積読中の本があったのを思い出し、この機会に読んでしまうことにしました。
岡倉天心とインド人女性プリヤンバダ・デーヴィーの往復書簡。やり取りの順番が明確でないものもありますし、書簡のすべてが見つかっているわけでもないので、やり取りのすべてが分かるわけではありません。恋文ですので公表されることなど想定されずに書かれたものです。読むほうにとっては、人の恋文を盗み読んでいるということになります。全く趣味が悪いということになります。なんとも恥ずかしい限りです。
一度会っただけで、お互いに惹かれあうというのは、本当にあるんですね。岡倉天心51歳、プリヤンバダ・デーヴィー41歳。日本人とインド人です。共通語は、英語です。
フジ子・ヘミングの本にも「恋はいつもしていないとね。気持ちに張りがでて充実するし、毎日がそれだけで楽しくなるじゃない。」と書いてあったけど、年齢も国籍も関係ないんでしょうね。
天心とプリヤンバダが出会ったのは、1912年9月16日で、天心は横浜から船でインドに渡り、その後アメリカのボストンに行っています。1913年9月2日に天心は亡くなり、9月7日までには、プリヤンバダに伝えられたと。どうやって伝わったのでしょう?
プリヤンバダは、1871年生まれ。母親は、詩人だった。タゴール家と親戚だったので、タゴールを訪ねた天心と出会うことになった。1892年には、文学士になっています。大学を卒業した。その年に弁護士のタラダシュと結婚し、1894年には男児が出生し、タラクマールと名付けられた。1895年にタラダッシュが死亡したため、タラクマールを連れてカルカッタの母の家に戻った。タラクマールは、1906年に急死してしまう。
プリヤンバダは、1898年に詩人としてデビューしている。1935年2月16日、カルカッタで死亡。享年63歳。
プリヤンバダは、多くの詩をベンガル語から英語に翻訳して、天心に送っています。天心は、漢詩を作り、それを英語に翻訳して送っています。
●天心の手紙 1913年3月4日 ボストン
「私に好意を寄せてくれる人々の困ったところは、私が人生の重荷を背負いきれない弱虫であることを彼らが認めず、私の力を信頼しているということです。彼らは私が世界に直面するために勇敢さと自恃の仮面をつけているに過ぎないこと、一皮向けば、一揺れごとに震えあがる、臆病で小心な存在でしかないことを知らないのです。」
●天心の手紙 1913年5月25日 五浦
「ずっと昔、私は狩猟に熱中しましたが、今は釣りに夢中です。もっともこれは主として夢を釣るため、また苦悩の想いから逃げ出すためのものでしたが。夏になると、私はほとんど毎朝釣りに出ます。」
●プリヤンバダの手紙 1913年6月13日 カルカッタ
「私の技術のひみつをお知りになりたい? ある気分になると、私は単に感じ、感じたことを言うだけです。ある種の予感がやってきます。私は花が摘み取られるばかりになったのを知り、一刻の猶予もならぬ、さもなければ薄れて、消えてしまうということを知ります。私の仕事はただ、突き上げてくる歌の言葉を、何の努力をすることもなく、紙に置き、韻の鎖でつなぎ、リズムで振動させればよいのです。それは無意識の服従であり、意識的な努力ではないのです。」
●天心の手紙 1913年7月22日 五浦
「自分を言い表すたった一つの方法は、インド行きの次の船に飛び乗ることいかありませんでした。私は懊悩の中で、船の運航表を調べさえしました。なんという気狂い沙汰か!」
●プリヤンバダの手紙 1913年8月5日 カルカッタ
「お別れを言う英語は美しいものですね。「グッド・バイ」-「神があなたと共にありますように」。」詳細をみるコメント0件をすべて表示