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感想・レビュー・書評
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エチカを読み終えました。
これまで気にはなってましたが読んでなかったのは、きっと、ハイデガーが取り上げてないからです。ハイデガーは、過去の哲学者のテキストを解釈することを通して自らの思索を論じるのですが、ソクラテス以前の哲学者、プラトン、アリストテレス、アウグスティヌス、ライプニッツ、カント、シェリング、ヘーゲル、ニーチェなどはよく出てきますがスピノザは出てこない。ハイデガー研究者としてはちょっと縁遠いんです。
今回、100分de名著をきっかけに、読んでみました。・・・あまりなじめなかったです。なぜだろう・・・形而上学の議論と感情の分析との接続の仕方が、どうにも粗雑な気がしてしまうからでしょうか。カント以後の思考のスキームに沿ってない気がするのでしょうか。いずれにせよ、なかなかぴんと来ないままでした。ぴんと来ない読書はつらいですね。目は文字面を追ってはいるんですが、心がついていかないんです。【2019年2月3日読了】詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
アントニオ・R・ダマシオが『感じる脳』でおおいに敬意を込めて称揚したスピノザをもう一度確認したくて、この本を引っ張り出した。
スピノザ「エチカ」、ライプニッツ「形而上学序説」「モナドロジー」「小品集」が収められている。
スピノザの「エチカ」を読むのはこれで3回目だろうか。
1回目、たぶん高校生のころ岩波文庫で読んだときには、この本の「幾何学的構成」に魅力を感じた記憶があるが、2回目に読んだときにはその面、たとえば「定理」にいちいち「証明」がつくのだがその証明の論理がどうもしばしば嘘くさい(論理的に間違っている)ような気がした。
やはり今回も、「証明」部分の危うさを感じたし、根本的に、この本が「神」に執着しそこにすべての「原因」を求める辺りに、しっくり来ない感じを抱いた。
デカルトにしてもライプニッツにしても、近世・近代のヨーロッパの「知」は、結局中世的な「暗黒のキリスト教信仰」時代と地続きであり、絶対的権威としてのキリスト教会の「神」の呪縛から決して逃れることはできなかった。もし当時無神論をおおっぴらに唱えたらただちに抹殺されたろうし、書いたものもすべて焼却されたろう。
しかし、「エチカ」でスピノザが説いている「神」はどうも変だということに、ようやく今回気づいた。それは明らかに、キリスト教の、聖書の、人格的な神とはぜんぜん違うものであり、このように神を想定した思想家は、スピノザ以前にはヨーロッパにいなかったし、彼以後もしばらくのあいだは出てこなかった。まさに異端である。
さてダマシオが指摘した「人間精神は人間身体の観念である」というテーゼは確かにこの書物に刻まれている(P152)し、他にも、心身合一の原理、ホメオスタシスの原理など、ダマシオの言うとおりスピノザの知は当時の限界を破って突き抜けている部分がある。
その一方では、感情をめぐるスピノザの分析にはあまり感心できないものもあった。心理学の先駆的記述として貴重ではあろうが、たとえば、通常の概念から大きく離れて「悲しみ」をとらえ、ネガティブな心性をすべてこの「悲しみ」からの派生として定義づける手法には疑問を感じた。読んでいると「悲しみって何だっけ?」という強い懐疑に突き刺され、混乱した。
けれども全体として、確かにスピノザには魅惑的な部分がある。
それに比べるとライプニッツの宗教観(「神」観)はいかにも当時のステレオタイプで、スピノザに比べるとあまりにも権力に迎合しすぎたのではないか、という思いを禁じ得ない。
まあそこはさておいても、ライプニッツの「モナドロジー」はやはり、ヘンテコリンな思想である。原子論、粒子論とも異なる彼の奇妙な「モナド」観念について、どうとらえたらいいのか、今の私にはよくわからない。
それよりも、「小品集」に収められた文章のうち、記号論の先駆のようなものに興味を惹かれた。 -
講演会準備として本棚から取り出す。
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エティカ