戦争論〈下〉 (1968年) (岩波文庫)

  • 1968年4月16日発売
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感想・レビュー・書評

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  • 2015/11/9読了。
    大著だった。上中下の三冊を読み終えるのに一年がかりだ。内容が膨大すぎて、読み終えたそばから細部をどんどん忘れるという有様。かろうじて大ざっぱにつかめたのは、本書を読むときの心構えと、本書が古典として読み継がれている理由だ。
    なお、本書がよく「難解」だと言われるのは、文章が古くて読みにくい、つまり本書が古典だからであって、書かれていることはそれほど形而上学的でも難しくもないんじゃないかと思った。そりゃあ戦史や戦況の説明に出てくる概念や言葉になじみがなければ意味はとりにくいかもしれないが、それはサッカーについて知識も興味もない人がスポーツ紙のサッカーの記事を読んでも頭に何も入ってこないのと同じで、書いてあることが難しいかどうかとは話が別だ。

    本書を読むときの心構えについて。
    本書のいう「戦争」の意味合いが、第一次世界大戦の後の時代の人々、とりわけ直近の世界大戦の敗戦国民である私たち日本人が認識している「戦争」とは、かなり違っているらしいと意識する必要がある。
    ああいう破滅的な敗戦をした国で生きる僕たちにとって、戦争とは、一度やったら取り返しのつかない破局につながるものという意味を少なからず持つ。だから「戦争について論じた本」と聞くと、おおかたの人は、戦争を認めるか否定するかの善悪論を無意識に想像するだろう。
    あるいはルールなきテロ戦争を戦争の原イメージとして持つ若い人は、そもそも戦争について論が成り立つかどうかを疑うかもしれない。
    本書が扱うのは、第一次世界大戦よりも前のヨーロッパの国家間戦争、具体的にはナポレオンの時代の戦争までだ。国民国家による総力戦が現れた時期ではあるが、僕のイメージとしては日本の戦国時代の国取り合戦が近いような気がする。似た次元で国家観を共有する者どうしの、いわば内戦だ。
    戦時と平時のくり返しが、あたかも好景気と不景気のくり返しのように、社会の営みの一部として存在することが前提となっている。また、国家にとっての戦争が、企業にとっての営業のように、不可欠な営みとなっている。本書の最も有名なフレーズ「戦争は政治の道具である」も、おそらくはこうした背景がなかったらフレーズとして結実しなかった概念ではないかと思う。
    だから僕たちの感覚としては、本書は「経営」とか「営業」とか、そのような位置づけで戦争を論じたものだと考えて読むのが、適当な心構えと思われる。現代の企業社会で「企業のセールス営業とは人道的に許される行為か」という問いがあまり意味を持たないのと同様に(それだって人の人生を変えたり時に殺したりしているのに)、本書が書かれた時代には、戦争についてのそういう問いが無意味だったのだろう。
    戦争を営業と同じに考えていいのかという問題はまた別の話だ。そこを問うたり違和を感じたりする姿勢は、本書を読む上ではいったん保留したほうがよさそうだ。

    では次に本書が古典として読み継がれている理由について。
    本書は現代とは異なる軍事常識のもとで書かれたにもかかわらず、時代遅れの役立たず本ではなく古典として扱われている。それはなぜだろう、と考えながら読んでみた。
    本書が「戦争哲学書」と呼ばれていることがカギになる。「戦争マニュアル」ではない。本書には戦争に勝つための「方法」ではなく、戦争についての「考え方の枠組み」が書かれているのだ。戦争とはどのような要素から成り立っていて、それぞれの要素についてどのように考慮する必要があるのか、その体系がすなわち本書だ。
    「営業」で例え話をすると、企業が他社と競って顧客に何かを売り込もうとするときに、営業マンは何を考えるべきか。「押しの一手です!」という精神論だけでは彼の将来が危ぶまれる。「どうしたらいいか先輩教えてください!」というマニュアル思考でも同様だ。彼が考えるべきなのは、自社と競合社の双方の商品に関する情報、その強みと弱み、顧客のニーズ・財務状況・担当者の裁量権の大きさや趣味や人柄、競合社の営業マンの力量や動き方、自社の現場の協力度、案件の緊急度、さらには業界全体の動向、国内外の経済情勢、関連する法令、人の心理の動き方、接待のタイミングや場所、身だしなみやマナーにいたるまでの、多岐にわたる要素だろう。これらの要素がそれぞれどの程度の重みを持って他の要素と関連しあっているのか、どの要素がどうなったら状況がどうなるのかを考え、商談を成約に導く活動が営業だ。必要な要素をどれだけ認識しているか、それらを考慮するための指針をどう持っているか、つまり営業という活動をどれだけ広く深く体系的に考えられるかが、彼の営業マンとしての実力に大きく関わることになる。
    このような要素と考慮の指針について、戦争という活動に関して詳細な体系化を行ったのが本書である。これらの要素は時と場合と人によって千差万別に変化するものだから、必ず成功する方法を一律にマニュアル的に導くことはできない。著者もはっきりそう書いている。だから本書の価値はそこにはない。本書が書かれた当時にしてすでにそこにはなかったはずだ。ではどこにあるのか。
    何らかの目的を持った活動が様々な要素から成り立っていること自体は、いつの時代のどんな営みにおいても不変だ。だから本書は、何事かを遂行するときに考えなければならない要素の体系の一つのサンプルとしてなら、いつの時代でも意味を持つことになる。
    これが可能なのは、本書が戦争の表面的な部分だけを扱うマニュアルではなく、本質の深い部分まで分け入って、著者の思考の道筋を明らかにしながら記述する哲学書だからだ。特定の業界の特定の会社の営業マニュアルは別の業界に転職したら役に立たないが、身につけた営業哲学は生きるというようなものだ。ここにこそ、本書の古典としての価値があるのではないか。
    考えるサンプルとしての本書は、軍事の領域では現在でも高く評価され、応用・研究がなされているという。だが実は、軍事力や暴力の行使をともなうか否かを問わず、およそ他者を自分の意志に従わせようとするための手段で「戦い」と比喩表現が可能な営みであれば、あらゆる領域で参考にできそうに思われる。念のためにもう一度言っておくが、マニュアルではなく哲学のサンプルとしてである。その中には、先ほどのセールス営業のように経済を領域とする活動のほか、スポーツや人間関係など幅広い領域での活動が含まれるだろう。政治は特に本書が価値を持つ領域と言える。例えば安保法制反対派が自民党政権に対して挑む戦いなども、当然含まれるに違いない。
    あまりこういうことは言いたくないのだが、戦争哲学が生きる人間の営みは、残念ながらあまりにも多い。

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著者プロフィール

クラウゼヴィッツ(1780〜1831)はプロイセンの将校で軍事理論家。ナポレオン戦争に従軍し、その体験から戦争・戦術を理論的に分析、政治の一側面として捉え、位置づけた。現在の政治学や安全保障の面でも高い評価を受けている。

「2009年 『国家を憂う』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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