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- / ISBN・EAN: 4959241922151
感想・レビュー・書評
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ロボットが生活を代行してくれる未来社会の話。人間は家で寝ている。≪マトリックス≫もそうやって人間は寝ていた。≪アバター≫もそうだ。代行しちゃうというのはありがちなコンセプトなんだがこちらは徹底していて、社会で動いているのはロボットばかりということになっている。好きな容姿で危険にさらされることなく生活できる。
このアイデアの部分は丁寧につくっていて、ロボットが動いたり静止したり壊されたりのシーンも説得力のある画面になっている。
けどストーリーが稚拙。ありきたりのSF陰謀ものになって、89分しかないコンパクトな映画なのに中だるみする。ロボットが一瞬のうちに倒れていくのが衝撃的なシーンだけど、予告編でも使われたのでそれほどでもない。もっと飛行機が落ちるとか、兵器工場で爆発がどんどん起きるなどもっと大きな影響がありそうだがそうしたものは不問で、人間が再度外に出てきて健全な世界になりました って少し無理があるでは。
ブルース・ウィルスのアクションが少ないのがだれる一つの原因かもしれない。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
舞台は国民総引きこもり時代に突入した近未来。世界人口の98%がソファに身を沈めながら、身代わりロボット「サロゲート」を遠隔操作し、社会生活のほとんどすべてをそれに代行させていた。このシステムの売りはたとえ「サロゲート」が破損してもオペレーター(サロゲートの持ち主)の身に危険は及ばないということ。外見だっておもいのまま。いつまでもわかくうつくしくいられるだけでなく、まったくの別人になることも可能だ。怠惰な人間にぴったりの過保護なサービス「サロゲート」の普及にともない、伝染病の感染率は縮小、人種差別は自然消滅、犯罪率は大幅に低下。殺人事件もここしばらくは発生していないらしい。しかし、そんなユートピア(?)に異変が起こる。2体のサロゲートが破壊され、そのオペレーターも死亡。「サロゲート」の安全神話はあっけなく崩壊した。社会をゆるがす大事件にFBI捜査官のトム(ブルース・ウィリス)というか、その「サロゲート」(ブロンドの髪がふさふさ肌はつるつる)が挑む。ってあらすじからしてすでに変なので(一見、ネットの利便性を暗喩しているかのようだが、それにしてはデフォルトの設定が奇妙すぎる)冒頭からぜんぜんのれず、睡魔におそわれまくりの1時間半だった。まず伝染病の感染率はともかく人種差別が自然消滅したり、犯罪率が低下するその構造がさっぱりわからない(でも戦争はおわらないし)それを「ロボットだから」の一言で済ませているけれど、なんで?っていう。操作しているのは人間でしょ。だいたい「サロゲート」ってシステム自体にまるで魅力をかんじない。めんどうくさい仕事はロボットに任せ、本体は娯楽だけ味わうというのなら意味はわかるが、そうじゃないんだもの。日常生活を疑似体験していったいなにがうれしいのか(まさにリアル・セカンドライフだけれど、リアルになっちゃった時点でもはやセカンドじゃないし)どうして遊びや恋愛までロボットを通じて体感しなければならないのか(そのセックスはきもちいいのか)外は危険だから?家に籠っているかぎりは傷つかないから?主婦ニートのおれがいうのもなんだが、そんな世界はそもそもがディストピアではないか。
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たしか、「アバター」か「シャッターアイランド」が公開されていた時に観ようかどうか迷った映画。最近のテーマとして、仮想現実というか、実際の現実を人間の代替物(アバターでありサロゲートであり)が代行するというのがあって、そういう目で見ると単なるアクションムービーに終わらない面白さがある。
「シャッターアイランド」もそうだけど、世界の二重性というテーマはここ数年随分と人口に膾炙してきていて、拡張現実だとか仮想現実だとか、テクノロジーによって少しずつ変わりつつあるこの世界の像を突き詰めて行くと行き当たるのがこの「世界の二重性」のテーマなのだと思う。
ひとつには、デジタル化により本物の精巧な複製が大量に生産可能になった時に、「本物と精巧な複製との間に歴然とした差が存在するのか」というのが現代思想で大きなテーマとなったのと同種の問題を感じる。
結局メッセージとしては「現実を生きようよ」という結び方になってはいるが、その「現実を生きようよ」という結論の根拠が、主人公の一種の主観的独断であると言う点はいかにもハリウッド的で解せないし、限界を感じる。 -
分析は組織の中で。
私も自分の身体を使わず、代理の身体を使ってなにかあやしげなパーティなんかして何がおもしろいのか? と最初は思ったのです。
映画の設定不足で、なにかしら外界との直接接触をためらわせるような社会情勢(犯罪の多発とか疫病の発生)などがないと、こういう社会は成立しにくいというか。もっと生身のにんげんのままで出歩く人の割合いが多くなるのではないかと予想しました。
しかし、「2030年すべてが加速する世界に備えよ」を読むと、こういう設定は無理ではない、むしろありうるのだということを理解できました。
道行く人々の老若男女すべてが、ロボットのメイクをしてロボットの演技をする。このへんにアメリカ演劇界の底力を見る思いです。
あと、主人公である旦那さんが、何回も「会いたい」と言ってるのに、奥様はそれを拒む。エンディングでは二人は無事再会できるのですが。奥様をみるとまあノーメークではあったけど、割とお綺麗なので、なぜ再会を拒んでいたのかわからなかったです。 -
別途
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人の身代わりをしてくれるロボット。もっと言えば自分の人生を代わりに生きてくれるロボット。それがサロゲート。
surrogate は「代理の」の意味。
つまり人間のあるいは人生の代理してくれる、というわけだ。
日常生活が遠隔操作できるロボットで行えるということは「理想の生活」を送れるということだ。
年齢や外見にコンプレックスを持つ必要もない。誰かに殺害されることもないし、交通事故にあったとしてもサロゲートのオペレーター(つまりその人自身)が傷つくこともない。
いわば、人間の「自我」や「自己イメージ」だけが前にでた格好になっている。
この作品が想起させる物はいくつかあるが、その一つが「唯脳論」だろう。
私たちの社会が脳化の産物であるならば、サロゲートは私たちの身体性すらも脳化させてしったものだと、とらえることができる。
表面的にはそれで問題はないはずだ。でも、実際はそうではない。
作品の世界設定がサロゲートが普及してからそれほど時間が経っていない世界を設定しているのも、そのためだろう。
問題とはなんだろうか。
いくら身体性までも「脳化」し、脳の思うままの人生を送ることができるようになったとしても、肉体の呪縛、つまり「死」から逃れることはできない。
サロゲートは、「死」を一時的に遠ざけてくれるかもしれないが、解放まではさせてくれない。
私たちの心の痛みは「時」が癒してくれるという。その「時」とは何を指すのか。それは「変化」だろう。しかし、サロゲートには変化はない。劣化はあるかもしれないが、いくらでも交換可能なものだ。
サロゲート社会は「時間」を流さない。心の傷は永遠にいえない。
この映画の主人公も息子を失った痛みをずっと抱え込んでしまっている。
サロゲートが普及した社会で、死ぬ人々がどのように扱われるのか、そしてそれがその社会の人々にどのような心理的な影響を与えるのか、立ち止まって考えてみたい。
それは、私たちの社会がほのかにでも確かに進めてきた一歩と同じ歩みなのだ。
私たちの「進んだ社会」では「死」は忌み嫌われ、悪者扱いされ、そして生活の中から遠ざけられていく。変わりに得たものは、表面的に満足度の高い生活と、そして徹底的な「命の価値観」の不透明さだ。
実際、脳波を測定して機械を動かすという研究は進んでいる。それは、体の不自由な人が社会生活を送る上では非常に役立つものになるだろう。
でも、果たしてそれが「進んでいくべき所」はどこなのか。境界線はないのか。ということについてはしっかりと考えるべきではないだろうか。
もちろん、「脳化」を進化の一種と捕らえることもできるだろう。脳の中の情報を電子デバイスで再現できれば、身体性から解放されるという考え方もある。もちろん、それが「人間の人生」と呼べるものなのかどうかはわからない。ゴーストは宿らないかもしれない。
しかし、生物の進化の流れで絶滅してきた種族がいるように、人類も自分たちの情報を電子の海に投げ込むことで進化(あるいは形を変えた絶滅)をするのかもしれない。ゲームの「レミングス」でレミングたちが大量に海の中に飛び込むように。
公式サイト:<a href=\"http://www.movies.co.jp/surrogate/\" target=\"_blank\">http://www.movies.co.jp/surrogate/</a> -
テレビ吹き替え鑑賞
近未来もの好きなんですが、設定がちゃんとしてないとダメです。
描きたかった場面などは伝わってくるのですが設定が細部までしっかりしてないのでなんだかなぁという感じに。
悪い話ではなかったけど薄っぺらく感じてしまう。
まぁ実際にあったら私は確実に使ってますけどね。 -
近未来SFサスペンス。
どれが誰なのか分からない。それって怖い。
100年後くらいに実現しそう… -
まずまず。アバターがなかったら作られていない映画かも。