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- / ISBN・EAN: 4523215081986
感想・レビュー・書評
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トリノの広場で泣きながら馬の首をかき抱き、そのまま発狂したというニーチェの逸話にインスパイアされて生まれたそうだ。
映画のスタイルはいろいろあるけどこんなやり方もあるのかと思う。世界の終わりの6日間を描くのだが、強風吹きすさぶ中、質素な生活をする父子の日常を描くだけ。ただいろんなものが欠落していく。
馬が動かなくなり、食べなくなり、水を飲まなくなる。
井戸が枯れる。
ヨソに引っ越そうとするができない。
ランプがつかなくなり最後は太陽も出なくなる。
外の世界がどうなっているのか。途中神はいなくなったという人が現れて、町はメチャクチャだという。最初に鳥が鳴かなくなり、最後は風もやみ、太陽が注さないからひどい天変地異かもしれない。訪問者が言うように神が死んだからかもしれない。もちろん暗喩かもしれない。
アメリカに行こうという一団が現れてその次の日に井戸は枯れる。あの一団も何かの暗喩なんだろう。そうした仕掛けがいろいろあるのだけど、それよりも心に残るのは止むことのない風の音と繰り返される不安を誘う音楽と日常生活の描写の丁寧さだ。着替えのシーンがこれだけ描写された映画はないだろう。
食べるものはじゃがいもだけというこんな貧しい生活はないだろうと思うのだが、世界の終わりと拮抗する力で描かれている。それをも飲み込む無慈悲な世界の終焉と見るのが正しいのだろうが、そんなニーチェのニヒリズムを説明されてもそうですかと言うしかないのであって、それよりも映像と音楽の力だけがいつまでも心に残る。イヤな音楽なんだが最後はクセになる。BGVとして最高なんじゃなかろうか。キネ旬ベストテン2012 1位。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
哲学好き文学好きが観る映画
原題からすると、本来は「トリノの馬」ということになるが、「ニーチェの馬」の方が、映画のイメージとして伝わりやすい。
荒れ地に住む、父と娘、そして1頭の馬、6日間の生活を描く
特にストーリーらしいものはない。ないんだけど、ある。
映画をエンターテイメントとして観る人には、全くおもしろくない映画だと思う。
しかし、モノクロの映像の重厚さに、芸術性や迫力を感じて、なんの変化もない長ったらしいシーンが、意外と退屈に感じなかったりする。
少ないセリフの中から、アメリカ的政治経済を良しとする世界に対する批判、とも解釈できる面もある。
そして、そんな世界を容認している?神に対する怒り、を表現しているように思える。
世界は堕落してしまった。
神は死んだ、のではなくて、それとも…
と、哲学的に深読みしてみましょう。
また、1日目、2日目…、という設定は、創世記に対する、終末記ってことなのかな?
この映画を最後の作品とする、というところも、監督の強い信念を感じる。
観終わって時間が経つにつれ、じわじわと映像の存在感を感じさせる、妙に凄みのある映画。
ん~、渋すぎる。 -
なんか凄いの見ちゃったな。
イモ茹でちゃいそうだ。 -
切り詰められた生、辿々しく進む生、繰り返される生…暴風吹きすさぶ荒野で生きる親子の姿を最小限の言葉と音楽、1カット平均5分以上の長回しで淡々と描いた驚愕の作品。無神論の親子の生活は次第に馬は衰え、井戸は枯れていき、神が世界を創造した同じ日数をかけて全てを喪失していく。にもかかわらず二人の姿には諦めや絶望の色が見えることなく、剥き出しなまでの生命力が伝わってくる。例え死の咢が待ち構えようとも、決して発狂することなく尊厳を手放さないこと。世界の彼岸においても生を手放さないこと、それは何より美しい行為なのだ。
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観始めて、これは寝るだろうな、と思った。が、意外にも、面白かった。ニーチェが発狂する前に抱きしめた馬そのものが登場する設定なのかと思いきや違った。ブレッソンの『バルタザールどこへ行く』と同様(こちらはロバだが)、馬が主人公の映画と思いきやそれも違った。
ニーチェの「神は死んだ」にかけてある筋書きかとも思ったがそれも定かではない。それで、「ああ、これは単に、映画なんだな」と思った。「当初の計画がどうであれ、撮られてしまえばそれが映画なんだ」と。
気づいたこと。
その1。1日目の石造りの粗末な家の場面で聞こえる強風の音に旋律がある。しかも時おり流れる音楽(弦楽器によるミニマルミュージックみたいなの)とも調がぴたりと合っているような気がする。
その2。およそ2時間半、始終風の吹き荒れる水平なショットが続くけれど(これが広々とした救いのなさを感じさせる)、唯一、数秒間だけ垂直なショットが挿入される。水の涸れた井戸の底を映すシーン。前後の文脈からいけばもはやこれまで、といったところだけれど、あのシーンの静けさは、かえって天国さえも暗示している。
その3。娘に服を着せてもらう親父といい、親父の猫そっくりな左手しか使わないジャガイモの食べ方といい、引っ越そうとした端から引き返してきたりして、これはコメディではないか。
ということ。 -
う~ん…暗い。底なしに暗い。
日常、当然あるはずのものが、ひとつひとつ、
立ち枯れてゆく姿を、執拗に追っている。
二日目に現れた男は語る…
―町は風にやられた。めちゃくちゃだ。すべて駄目になった。
みんな堕落した。人間が一切を駄目にし堕落させたのだ。
この激変をもたらしたのは、無自覚な行いではない。
無自覚どころか、人間自らが審判を下した。
人間が自分自身を裁いたのだ。神も無関係ではない。
あえて云えば、加担している。神が関わったとなれば、
生み出されたものは、この上もなくおぞましい。
そうして世界は堕落した。
これは、現代人の個々の奥底に巣食ってしまった心象を
象徴しているように思われてならない。立ちすくみ、怯えながら
それでも、夜の終わりを信じるために…映画の最後のセリフが
底なし井戸に石を放ったように、ボクの心に鳴った。
…食え 食わねばならん -
クラスナホルカイ•ラースローが脚本に関わってるという一事でもって、すべて納得がいってしまった。マジャールだからクラスナホルカイが姓でラースローが名だよ。タルが姓でベーラが名ね、念の為。
A torinói ló :El caballo de Turín 2011
Béla TARR