山椒大夫 [Kindle]

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  • 2012年9月27日発売
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感想・レビュー・書評

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  • 十数年ぶりに再読。
    「山椒大夫」を知らなくても、「安寿と厨子王」と別タイトルを言えばほとんどの人が知っていそうな作品だ。

    原典となる「説経節」を先に読んだせいか、ひどく物足りなく感じられる。
    省かれた部分があまりにも多く(しかもそちらの方が重要度は高い!)あっけない印象さえ抱いてしまう。
    いや、明治の文豪の著名な作品を批判するなんて、そんな、まさか、である。
    端正で美しい文体であり、綺麗にまとまった文学作品ではあるのだ。
    たぶん鴎外さんは、家族の絆というところに重きを置いたのだろう。
    私にしても、これで満足していた時もあることだし。

    省かれた部分というのは、山椒大夫たちによる安寿への、凄惨ともいえる暴行場面。
    そして、出世した厨子王による、山椒大夫一味への復讐の場面である。
    繊細な方にはとてもお薦めできない描写が延々と続く。
    どんな嫌なこともひと晩寝るとコロッと忘れるこの私が、読んだ日は眠れなかったもの。
    もっとも、その日一日だけだったけど(笑)。

    何故にそんな場面が大切かと言うと、「説経節」の基本は「神仏のご利益」や「縁起」であると
    いうことが必須なのだ。
    当然、「因果応報」説に貫かれており、悪行三昧の山椒大夫はそれ故に裁かれることになる。
    キリスト教のように「ごめんなさい」と罪を告白すれば全てチャラになるという、そんな甘いものではない。
    「謝ったからゼロになった。だからまた同じことをしても構わない。また謝れば良いのだから」
    キリスト教圏の人たちは、よくそういった発言をする。
    世界は広いと、こんなところでも実感する。

    説経節が流行した中世(室町・鎌倉時代)というのは、現代などとは比較にならないほど
    庶民にとって生きにくい時代だったろうと思う。
    当時の人々にとっては、悪に対しての相応の報い(特に位の高い人の)というのは、なくてはならないものだったのではないか。
    また、抗うことの出来ない運命を受け入れて生き抜くしかない身には、神仏に頼るというのは
    ごく自然なことだったのではと思われる。
    それが、説経節に寄せる人々の涙と癒しだったのでは。
    稀に残酷な部分だけを興味本位でピックアップするひとがいるが、それは間違いのもと。
    何でも「縁起」というものがあり、「因果応報」なんである。
    鴎外さんは、子どもにも読めるように説経節のエキスを省いたのかもしれない。
    佐渡で母親と再会する場面で感動的に終わっているが、これはこれで教科書的な説話になっている。

    ところで、「山椒」というと薬味を連想するが、丹後地方に三か所の「荘(庄)」を
    所有していたからそう呼ばれたらしい。
    さて、次は元となる「説経節」に。

    • nejidonさん
      淳水堂さん、コメントありがとうございます♪
      やはり子供時代に簡易版を読まれたのですね。
      そうそう、あれだけでもじゅうぶんなインパクトです...
      淳水堂さん、コメントありがとうございます♪
      やはり子供時代に簡易版を読まれたのですね。
      そうそう、あれだけでもじゅうぶんなインパクトですよね(笑)

      鴎外さんの作品では、厨子王を逃がした後安寿は入水自殺することになってますが、
      元の説話では山椒大夫たちの暴行で亡くなるのです。
      母親も、「足萎え」ではなく、逃亡しないように足の腱を切られているのです。(酷い・・・)
      視覚的に耐えられないので、さすがに映画では省いたのでしょう。
      (溝口監督の映画は、私は好きなんですけどねぇ。。)
      室町時代って、ものすごいサバイバルな時代だったのでしょうね。
      現代人が読むと驚くような内容でも、連綿と説経節の中で生き続けるのはなぜか、
      私はそこを知りたいのです。聴いていると、不思議と涙が溢れます。たまらなく切ないのですよ。

      キリスト教の話になるといつも思い出すのは『パルプ・フィクション』です・笑
      サミュエル・Ⅼ・ジャクソンが、聖句を唱えながら銃をぶっ放す場面。
      日本人はパロディだと思って笑いますが、あちらの人たちは別に笑いません。
      普通のことなんでしょうね。
      そして八百万の神を崇める日本の神道を、「土人の宗教」と言って蔑んでいたのです。
      もうちょっと学習してほしいですよね・笑

      そうだ、ちょっと思い出したことですが、『安寿と厨子王』の話をしても、
      子どもたちは特に怖がりも嫌がりもしなかったです。架空のお話と割り切れるのでしょうね。
      でも『百万回生きた猫』は「後味の悪い話だね」と感想を漏らしてました。
      なんだか新鮮な見方で面白かったです!
      2017/06/30
    • 淳水堂さん
      >母親も、「足萎え」ではなく、逃亡しないように足の腱を切られているのです。(酷い・・・)

      映画でも足の腱を斬ってましたよ。(@_@)
      ...
      >母親も、「足萎え」ではなく、逃亡しないように足の腱を切られているのです。(酷い・・・)

      映画でも足の腱を斬ってましたよ。(@_@)
      そこに至るまでに「安寿~~厨子王~~」と半狂乱で船着き場にやっとたどり着いたのに、追いついた男たちに「逃げられないように切っておけ!!」母の悲鳴、となるので…orz
      終盤の厨子王との再会時には盲になってるので、最初は厨子王と分からず「もうあんたちの慰み者にはならん!」と匍匐前進状態で逃げようとするので、
      「遊女」ですらなく「男たちがタダでヤりにくる慰み者」になっちゃったんだろうなあというのが想像できて。

      山椒大夫の館でも、逃亡企てた奴隷たちが焼き鏝押されたり瀕死で荒野に捨てられる場面はありました。
      あと中央から役人が来るけれど「奴隷制度は地主の当然の権利でしょ?」と許容するとか。
      安寿は、おそらく暴行されるのが嫌で自害したのかなと想像していましたが…、…ううん。

      あ、映画は厨子王が兄で、安寿が妹に変わっていました。
      これは何故変えたのかは不明ですが、
      姉だと安寿が厨子王を守るという図式だけど、
      妹だと安寿は厨子王に守られる者なのに守って死んだ、という図式になるからかなあとか。

      >室町時代って、ものすごいサバイバルな時代だったのでしょうね。
      関東のどこかの記録で、「山越えする僧侶を弓矢で射殺して遊びました☆」みたいなのが残っていると読んだような…
      日本に限りませんがこういうのを読むと、どうやって生きたのか本当に不思議だ。

      子供たちの感想ですが、
      子供たちは「売られました、10年間苦労しました、死にました」という要点だけ捕えるけれど、
      大人になったら「売られるときにこんな絶望が…その10年の間にあんなことやこんなことや…死ぬときにこんな苦しみが…」など連続した時間として考えるようになるから、
      大人になってからダメになる話ってありますよね。

      歴史考察番組で、キリスト教の教会と日本の神社仏閣の違いを
      「教会は木を切って広場を作って建てる。
      庭は作るけれど、神様の話を聞く場所として開かれた場所にする。
      教会を建てるというのは自然を人工物に変更させること」
      「日本の場合は自然そのものなかに人間が入ってく。
      土地神がいたり八百万に神がいたり、神社や仏閣にはご神木があったり」
      と言っていました。
      人間に合わせようとする西洋と、人間が合わせようとする日本の違いか~と思いました。
      知人が「知り合いの西洋人に『日本人は何故神がいなくて平気なの?』と言われた」と言っていたのですが、
      教会の話から考えると、
      日本人にとって神はそこらじゅうにいるからあえて作る必要はない、
      欧米では神は人間が創らないといない、ということなのかなあと思ったんですけどね。
      2017/06/30
    • nejidonさん
      淳水堂さん、再訪してくださりありがとうございます。
      さて、『映画でも母親の足の腱を切っていた』かどうか、まるで記憶がないので
      先ほどDV...
      淳水堂さん、再訪してくださりありがとうございます。
      さて、『映画でも母親の足の腱を切っていた』かどうか、まるで記憶がないので
      先ほどDVD部屋で確認してまいりましたよ(笑)
      はい、確かに切っておりましたね!!
      そこまで見てストップし、レスのためPC前に戻りました。

      薬もなく有効な治療法もない時代、どれほどの激痛だったか・・と、フィクションで
      あることも忘れて想像してしまいました。
      経験があるなしに関わらず、大人になるとそんな想像力も働き、それでこの手の作品を
      避けてしまうのかもしれませんね。
      このところ恐怖映画をさっぱり観られなくなりましたもの。
      それが娯楽だった頃もあったのに。

      そうそう、兄が厨子王で妹が安寿という設定も確認しました。
      なるほど、これだと安寿が暴行される場面はなくなりますね。
      しかしこれは、あまり賛成しないワタクシです。安寿は姉という立ち位置がベストです。
      もしやキャストによってそのように変更したのかな(笑)?

      その歴史考察番組は未見ですが、キリスト教について首を傾げるところは数々あります。
      モーセの十戒を知ったのは小4の時でした。
      神に選ばれし民のなんと愚かなことかと驚きました。
      人を殺してはいけないとか、盗んではいけないとか、そんなレベルから戒律に入れてあるのですよね。
      そして約束の地に戻ってから異民族をすさまじい勢いで殺戮していったのです。
      ユダヤ教徒でない者など、人でさえない。殺そうが盗もうが何をしても構わない。
      ただし「男を知らない女は神様からの贈りものだから好きなようにするが良い」というモーセの言葉に
      従ったと言いますから、ああ恐ろしい。
      これがそっくりそのまま、キリスト教に受け継がれたのです。
      八百万の神を崇める日本でもこれをやったのですから、そりゃ秀吉さんも怒りますって。
      戦後アメリカに統治されていた時、1500人だか宣教師を呼び込んで日本人を改宗させようともくろんだ
      らしいのですが、普及しませんでしたね。こちらの方が賢かったのです。

      いや、改宗と言っても神道は宗教とは言いがたいですか・・
      布教もしないし、教義もないし、何より「十戒」どころか「一戒」もない・(笑)
      自然の中で生かされている日本人独特の哲学のようなものでしょうね。
      生まれ育ったのが穏やかな神道の国で、本当に良かったです。
      ああ、ついつい長くなりました、すみません。
      機会がありましたら「山椒大夫」の本もどうぞ・(笑)



      2017/07/01
  • 久々の青空文庫にての読了、溝口監督版を思い浮かべながら。

    読了後、ネット上の関連情報を読むうちに元の説話とは違う筋を鴎外が考えだし、その過程を彼自身が「歴史其儘と歴史離れ」という著作において語っているということを知った。是非そちらについてもこの読後感が薄れないうちに手を出したい。

    といつつ溝口版の方もまた観たくなってきた…。

    うむ、こちらはこちらで近いうちに達成しよう。

  • なんでこのタイトルなんだろな

  • 森鷗外の「山椒大夫」は、日本文学における古典的名作としての地位を確立しています。この物語は、安寿と厨子王という二人の兄妹が、父親を探す旅の途中で悲劇に見舞われるという筋書きです。彼らは山岡太夫によって誘拐され、山椒大夫のもとで奴婢として売られます。姉の安寿は、弟の厨子王を自由へと導くために、自らの命を犠牲にします。厨子王はその後、佐渡に渡り、母と感動的な再会を果たします。

    この物語は、封建社会の厳しい階級制度と、そこから逃れるための苦闘を描いています。安寿の自己犠牲は、家族愛の深さと、個人の尊厳を守るための決死の覚悟を象徴しています。また、厨子王の成長と彼が直面する試練は、運命に立ち向かう勇気と、逆境を乗り越える強さを示しています。

    読書体験として、この作品は深い感銘を与えるものでした。森鷗外の緻密な筆致は、登場人物の心情を鮮やかに描き出し、読む者を物語の世界へと引き込みます。特に、安寿の最期のシーンは、その悲壮感と美学が印象的で、読後感に長く残ります。また、厨子王の母との再会は、喪失と再生のテーマを力強く表現しており、読む者の心に深い共感を呼び起こします。

    「山椒大夫」は、人間の尊厳と家族の絆を描いた作品として、今もなお多くの読者に愛され続けています。森鷗外の洗練された文体と、物語の普遍的なテーマは、現代においても色褪せることがありません。この作品を通じて、読む者は人間性の深淵を垣間見ることができるでしょう。私自身も、この物語から多くを学び、感じ取ることができました。それは、文学が時代を超えて人々に訴えかける力を持っていることの証左です。

  • 童話『安寿と厨子王』にもなった説話「さんせう太夫」をもとにした小説。平安朝の末期,丹後国の由良海岸で人さらいに誘拐された母と姉弟と乳母。紆余屈折の末に丹後の国守となった厨子王の運命を描く。人生に訪れる不条理や因果応報について考えさせられる作品。森鴎外晩年の作品である本作は,雅文体で書かれた『舞姫』と異なって口語体で読みやすい。

  • 悲惨な話だけれど、不幸のどん底にいても希望を捨てない姿がとても良かった。

    中でも、「わたしどもは恐ろしい人にばかり出逢ったが、人の運が開けるものなら、よい人に出逢わぬにも限りません」という言葉が印象に残った。

  • 短めですぐ読める。
    森鴎外ってなんか小難しい文章を書く人だと思ってたけど、これは分かりやすくて面白かったな。

    まあ話の内容はよくある感じというか、日本昔話に出てきそう。
    ほら〜やっぱりこうなったじゃん!でも面白いから読む、みたいな。
    続きが気になるから一気読みしてしまった。

    安寿…もっとなんとかならんかったんか。
    お姉ちゃん、もっとわがままでいいのよ。

    理想のお姉ちゃんかもしれないけど、 
    物語としてそういう役が必要なのかもしれないけど、、、
    2人で逃げる道はなかったのかな。
    無理ってわかってたのかな。

    つらい境遇にいると、聞き分けの良い、いいこちゃんになってしまうよね。

    物語として主人公(幸せになる人)の厨子王がいるから、その対になる犠牲「役」=安寿が必要。

    それは分かるんだけど。

    犠牲になる役なんていらない、
    みんな主人公の世界であれと思ってしまうな。

  • 安寿と厨子王。森鴎外。

    安寿と厨子王は、父を訪ねる旅の途中で、山岡太夫に誘拐されてしまう。母たちとも離された二人は、山椒大夫に買われて奴婢となるが、姉の安寿は弟を逃がして自らは死を選ぶ。弟、厨子王は後に佐渡に渡り母と再会する。
    寂しいけれどハッピーエンドのお話し
    森鴎外がの代表作と言われる所以は何か調べてみた。
    この小説は中世の芸能であった説経節の「五説経」と呼ばれた有名な演目の一つ「さんせう太夫」を原話として執筆され、1915年(大正4年)、森鴎外53歳の時に「中央公論」に掲載された。
    伝説の筋書きを基にしながら、辻褄が合わない、あるいは鴎外の好みに合わない部分に小説的な脚色を加えていったもの。具体的には、安寿の拷問や山椒大夫が処刑される場面など、原話で聴かせ所として具体的に描写される残酷な場面はほとんど切り捨てている。また、賃金を支払うよう命じられた一家が、その後むしろ一層富み栄えたというのも森鴎外のオリジナルである。 また、原作では焼印を押されてしまうが、森鴎外の山椒大夫では、夢の中の出来事として扱われており、お守りの地蔵に焼印が有ったとしている。
    このような、歴史から離れた小説が新しい作風だったようだ。

  • 読んでない、青空朗読で聞いた。前に読んでたのにこれまたタイトルを見て話の内容が全然思い出せないから睡眠導入に流して、結局話が面白くて最後まで眠らず聞いた。

    大夫ってそもそも何ぞやと検索したところ説経節の原作について、また原作を小説化するにあたって作者が脚色や省略したことについて概略を知った。原作では山椒大夫一家が主人公にバッチリ復讐されるところを、小説では山椒大夫の家が新法に則って奴婢たちにちゃんと賃金を支払ったことでますます栄えたと改変したとあって、作者のこういうところ本当に好き…って思った。説経節は全然知らないものの原作の、因果応報の教訓を伝えることが大事だったのも分かるし、権力差を利用した横暴は勿論ダメだと分かるし、その横暴な権力者がきっちり復讐されるっていう、物語を聞いてきた者たちの溜飲を下げるような展開が求められたのも分かる。人買い・奴隷っていう過去の誤りを容認するわけでもない。でも、時のふつうを当たり前に行ってきた権力者サイドが、心ある為政者の敷く新しい理をきちんと受け入れ実行し、従たる者たちの環境を改善してその結果がちゃんと出るっていう、そちら側もポジティブに描くのは公平で合理的で現代的だなと感じる。鷗外っぽくて好き。にわか読者だけど。

    とはいえ、現代の自分はこの展開が好きだけど、その改変や省略は本当に正しいのか?元の説話の本義を正しく小説化していると言えるのか?とはたと思って、これって「かのように」の主人公が悩んでいることなのかなと思った。神話や伝説は事実ではないけれど実在するかのように尊重してそこに内包された大切なものを敬う、そこまではいい。でもその内包された大事なものとやらを正しく掬い取り、敬ったり奉ったり、書き直したりできるのか?かのようにの主人公が小説家ではなく歴史家なのはなるほど納得だな。山椒大夫の脚色について語っているらしい「歴史其儘と歴史離れ」っていうのも青空文庫にあるようなので読んでみたい。

  • 子供向けの「安寿と厨子王」がうっすら記憶にあるだけの状態で読みました。
    いろいろ悲惨だけど、実際にはもっと悲惨だったのかもしれない。
    なぜ人買いの名前がタイトルなんだろう?なぜ山椒という名前なんだろう?と考えながら読みました。

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著者プロフィール

森鷗外(1862~1922)
小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医。本名は森林太郎。明治中期から大正期にかけて活躍し、近代日本文学において、夏目漱石とともに双璧を成す。代表作は『舞姫』『雁』『阿部一族』など。『高瀬舟』は今も教科書で親しまれている後期の傑作で、そのテーマ性は現在に通じている。『最後の一句』『山椒大夫』も歴史に取材しながら、近代小説の相貌を持つ。

「2022年 『大活字本 高瀬舟』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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