『春と修羅』 [Kindle]

著者 :
  • 2012年9月27日発売
3.67
  • (7)
  • (13)
  • (9)
  • (3)
  • (1)
本棚登録 : 241
感想 : 12
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・電子書籍 (209ページ)

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 「蜜蜂と遠雷(下)」の感想を書くにあたって、ふと思いついたのが、宮沢賢治の詩「春と修羅」のパロディで書けないか、ということだった。作中で新曲「春と修羅」を演奏したのだから相応しいだろうと思ったからだ。

    もちろん、賢治の科学と感性に支えられた奇跡の語彙に敵うはずもないし、何よりも彼の志にたどり着くはずもない。お遊びであり、やってみると、恐ろしく恥ずかしいものが出来上がった。言いたいのはそのことではなくて、やってみてわかったことがある。

    「春と修羅」の一部抜粋

    いかりのにがさまた青さ
    四月の気層のひかりの底を
    唾しはぎしりゆききする
    おれはひとりの修羅なのだ
    (風景はなみだにゆすれ )
    砕ける雲の眼路をかぎり
     れいろうの天の海には
      聖玻璃の風が行き交ひ
       Z Y P R E S S E N春のいちれつ
        くろぐろと光素を吸ひ
         その暗い脚並からは
          天山の雪の稜さへひかるのに
         (かげろふの波と白い偏光 )
         まことのことばはうしなはれ


    あの詩及びにこの詩集は、単なる「詩」ではなかったということだ。私は単に賢治がリズムをもって詩を作っていたのだと思っていた。違う。賢治は「言葉によって」ひとつひとつ「曲」を作っていたのだ。賢治の中は、明確に世界を鳴らしていた。(と思う。私には曲調まではわからない)

    特に「春と修羅」はそうだし、「小岩井農場」は明らかに交響曲だし、「永訣の朝」に始まる三部作、ならびに「オホーツク挽歌」シリーズはレクイエムやそれを超える交響詩だし、「真空溶媒」や「原体剣舞連」などは、もう音符付き曲が出来上がっている気もする。オペラもある。

    賢治の住み込んだ花巻の「野原ノ松ノ林ノ䕃ノ小サナ萓ブキノ小屋」には、当時では珍しいレコードが豊富にあり、賢治は毎日のように聞き、それを全く新しい言葉にしたのだ。資産家の息子だからできたのだと言われればそのとおりかもしれない。でも、そこから紡がれた詩は、言葉の神様に愛されたのだ。私は40数年前中学生のとき、写真付き賢治詩集を買って貰って擦り切れるほど読んだ。そのおかげか知らないけれども、思春期の間、その純粋性、理想家、知性に当てられて、ぐれることなく理想家或いは夢想家に育った。文学が人を変える力を持っているかどうかは知らない。けれども、成長期に出逢うそういう本は大きい。

    その詩の多くは、意味が全てはわからない。だからいい。人生の大きな謎として、ずっと胸にしまいながら生きていける。


    わたくしといふ現象は
    仮定された有機交流電燈の
    ひとつの青い照明です
    (あらゆる透明な幽霊の複合体 )
         「序」の冒頭のことば 

    • 傍らに珈琲を。さん
      kuma0504さん、さっそくお邪魔致しました。

      そうなんですよね、"リズムをもって作"られている。
      そのリズムは声に出すと掴みやすいし、...
      kuma0504さん、さっそくお邪魔致しました。

      そうなんですよね、"リズムをもって作"られている。
      そのリズムは声に出すと掴みやすいし、掴んでしまったらとても読みやすい。
      そうなってくるとkuma0504さんの仰る"「小岩井農場」は明らかに交響曲"等もストンと腑に落ちます。

      「序」も好きです。
      共感覚を持っていたという賢治ですし、"第四次延長のなかで主張されます"と「序」でも本人が記しているので、
      言葉(の並び)は音、音は音楽、というお考えに納得です。

      私ももっと沢山の本を読んで、kuma0504さんのように踏み込んだレビューを目指せたらなぁと思います。
      2023/10/13
    • kuma0504さん
      傍らに珈琲を。さん、
      こちらこそ、フォローありがとうございました。

      宮沢賢治は、作家でのファン1号なんです。
      私の読み方は、だいたいその人...
      傍らに珈琲を。さん、
      こちらこそ、フォローありがとうございました。

      宮沢賢治は、作家でのファン1号なんです。
      私の読み方は、だいたいその人の刊行物の8割以上読んでおかないとファンと名乗ってはいけない、というマイルールを設けています。そのぐらい読んでおかないと、その人のことを語っちゃいけないと思っていた時期があったんですね(今は違います)。
      だから、ちょっと思い入れがあるのかもしれません。

      「序」は好きなんです。だって最初に読むところだから、何度も読んでいる。でもいまだにわからない。例えば「仮定された」ということだって、どのように仮定されたのかよくわからない。明滅する青白い電燈はイメージできるけど‥‥。その他わからないことだらけ。「銀河鉄道の父」が人口に膾炙されて、賢治は困ったニートだったというイメージが広まっているのは、ちょっと困ったことだなあとも思っています(そういう面もあると言うだけの話)。

      いかん、取り止めのない事を書いている。よろしくお願いします。
      2023/10/13
  • 「俺は一人の修羅なのだ」と宮沢賢治が語る時、修羅とは何をあらわしているんだろう。詩はすべて難解。今のところ言葉に身をゆだねて詩を追っている。

  • 【由来】


    【期待したもの】

    ※「それは何か」を意識する、つまり、とりあえずの速読用か、テーマに関連していて、何を掴みたいのか、などを明確にする習慣を身につける訓練。

    【要約】


    【ノート】


    【目次】

  • シンゴジラで扱っていたので読んでみた。なかなか難しい内容だったが、賢治の好きな鉱物や星、農業などが散りばめられた作品が多かった。中でも幼い妹を亡くしたときの修羅になる、というところが、シンゴジラと通じたのかなと思い、読んで良かったと思えた。かなり難しかったけど。

  • [「風景とオルゴール」以降]
     読了。「風景とオルゴール」におさめられている作品群は、なんとなくつかみづらいように思った。読むときの視点が定めづらいというか。賢治の変化なのか、読んでいるわたしの側の余裕のなさなのか。最後に「冬と銀河ステーシヨン」がおさめられていて、そこには、雲やら鉄道やらでんしんばしらなどの慣れた風景が展開されていて、なぜかほっとした。どういうことなのかな。また再読して考えてみたい。

    --

    [オホーツク挽歌]
     賢治の筆は目に映った景色のありようを丁寧に活写していて、その多彩な表現とともに映像が喚起されるのだけど。まず、時代が違う。だから、賢治が描く汽車のありようは、わたしが即座に思い起こす汽車のありようとは異なる。それから、地域が違う。関西と呼ばれる地域から生活空間としては大きく移動したことがない自分には、賢治が見ていた景色や触れていた風や波の感触が、文字からだけでは本当には再現できない。細々とした言葉を手がかりに、自分の記憶のなかにある「当時」だったり「もっと東や北のほう」だったりする風景を努力して想起する。それでも賢治が描出していたそれとはかなりのずれがあるだろう。そのずれ自体を、文字を媒介にすることを、読む楽しみとする。ここにあるのは賢治の慟哭の一端なので、楽しみとすると言い切ってしまっていいのかどうかはわからないけど。

    --

    [無声慟哭]
     「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」の並びは辛い。胸が詰まって苦しくなる。

    --

    [東岩手火山]
     冒頭が「東岩手火山」。とにかく大きい。描かれる景色が。視点が。広くて大きい。最後まで。それに続くのは、「犬」、「マサニエロ」で鳥、「栗鼠と色鉛筆」と、視点が少し近くなる。賢治の目と一緒に、読んでいる自分の目も、あちらへこちらへと動く。

    --

    [グランド電柱]
     かなり短い詩編の章。風景の端々が、賢治の目と言葉とで切り取られて、文字となって眼前に晒される。そこにある少しのずれを味わう。風景自体のか。賢治と自分との意識のずれか。

    --

    [小岩井農場]
     「パート九」まであるのだけど、「パート五」と「パート六」は欠番なのか、タイトルしかない。こういうとき、解説が欲しいと思ってしまうのだけど、ないからこその青空文庫。あとで調べる。

    --

    [真空溶媒]
     風に乗って雲に乗ってどんどん言葉が流れていくよう。自然のものも人工のものも現実のものも幻想のものも、同じ列に並んでどんどん言葉が紡がれていって、冷たい空気がぴしりと決めた風景と物語が広がっているようで、とても心地良い。そして、言葉づかいの節々に、ああ、そうだ、賢治は『洞熊学校を卒業した三人』の作者だったのだと思い出される。柔らかな童話然とした物語の底に確かにある、生き続けるということの残酷さが垣間見えるような気になってしまう。

    --

    [春と修羅]
     賢治の詩を繙いたのは、久しぶりのことのように思う。柔らかな自然と、硬質な人工物との合わさる言葉の幻影に、ずいぶんと過去の自分に立ち戻る気がしてしまう。こういう言葉づかいに憧れていた頃、そこにはそれを反映したかのような少女漫画があり(吉野朔実さんだったり、鳩山郁子さんだったり?)、小説があった(長野まゆみさんだったり?)。歳を重ねるにつれて、その憧れは過去のものになっていったはずだったのだけれども、こうしてあらためて目を通すと、目に入るひとつひとつの言葉の選び方に、身内が震えるような気がする。三つ子の魂? こうして立ち戻れる時間があるのは、幸せなことなのかもしれない。

  • 自然と人間が等価である。ひょっとしたら作者の視線では自然が優位に見えていたのかも(序列をつけるつもりはないが…)。

    北国の厳しい自然も、作者に語りかけてくる何かがあったのかもしれない。小さい頃は私もそれが見えていたような気がする。都会に住んでいるときっとまた、すぐ忘れてしまうだろうけど。

  • 詩情と科学とが渾然一体となった、言わずと知れた名作。難解な部分もおおいが、『無声慟哭』以降の感情の流れは何度読んでも素晴らしい。最初に読んだときは、解離性障害の病理の部分ばかりに目がいってしまったけど、やっぱりこれもひとつの(稀有な)個性と見るべきなんだろうなぁ。

  • よくわかんないけどかっこいい

  • 「ー」

    ところどころにドイツが出てくる。
    私には難しかった。

全12件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

1896年(明治29年)岩手県生まれの詩人、童話作家。花巻農学校の教師をするかたわら、1924年(大正13年)詩集『春と修羅』、童話集『注文の多い料理店』を出版するが、生前は理解されることがなかった。また、生涯を通して熱心な仏教の信者でもあった。他に『オツベルと象』『グスグープドリの伝記』『風の又三郎』『銀河鉄道の夜』『セロ弾きのゴーシュ』など、たくさんの童話を書いた。

「2021年 『版画絵本 宮沢賢治 全6巻』 で使われていた紹介文から引用しています。」

宮沢賢治の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×