沈黙(新潮文庫) [Kindle]

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感想・レビュー・書評

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  •  随分前に読んだ本ですけど、遠藤周作の代表作なのですが、私は何度読んでもこの小説より深い河や女の一生の方が心に響きます。

  • 自粛期間中に海外旅行に行けなかった代わりに、世界遺産について調べていた際に、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」についてもっと知りたくなり、こちらを読みました。

    もともと宗教・哲学について考えるのが好きなのですが、やはりとても悩みながら読みました。
    神の沈黙、神様はいないと単純に思える私には簡単な答えだけれと、信仰者にとってはとても苦しい悩みになるのだと思うと宗教の存在意義がよくわからなくなってしまう。

    現地で資料を見たり、話を聞いてみたいなと、思いました。

  • 「強い者も弱い者もないのだ。 強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」

    めちゃめちゃ長い間積んでた。ずっと起伏がなかったり、曇りきった印象を私に与えていた。しかし読み始めてみると、その心的描写は凄まじいものであった。

    逆『異邦人』のような気がした。あちらが自分以外のすべての人がキリスト教を信じているのに対して、『沈黙』は自分以外のほとんどの人がキリスト教を信じていない。クライマックスで神父が棄教(『異邦人』では信仰)するように勧めるところも似ている。

    キリスト教を特段信仰していない身からすると、そんなに「転びます」と言うのが、踏み絵を踏むのが、最も忌避されるものなのかが分からなかった。それこそ形式上だけのものではないか。

    私は、キチジローに最も感情移入ができた。だって怖いじゃないか。拷問でも、信用の失墜でも。文中にもあるように、彼がもし違う時代に生まれていたら、もっと明るく振る舞っていただろうということを思うと目頭が熱くなる。

    人間は誰しも弱さは持っていると思う。それを恥じらうことも、また弱さなんだと思う。

  • 大きく分けると

    まえがき,書簡体の文章,三人称視点の文章の3部で構成されている歴史小説?純文学?な感じだった。日本人作家による小説の割には登場人物や設定が細々としていて,読み始めた頃は忙しかったために間が空いてしまい,設定を忘れていしまい最初の方は何度も読み直した。
    キリスト教の布教とその苦難をパードレ側,特にそのうちの一人に注目していて書かれており,実際に自分が追体験するかのように感じられた。それは書簡体により書かれた部分でのパードレの主観的な文章とその後に書かれた客観的な文章により状況がより分かりやすく,対比的に書かれていたからだと思う。

    内容としてとても重く,読むと苦しさを感じるが読んで良かったと思う1冊,

  • ※何かしら信仰をお持ちの方は、この先ご遠慮ください
    ※この本は途中で挫折しました






    自分の確認不足だが、宗教の話だったので冒頭で諦めた。公平かつ冷静な感想が書ける気がしなかったからだ。

    自分の周囲の人間にとって宗教とは「教義を自己解釈でねじ曲げて他人を殴る武器」であり、自分は常に殴られる側だった。著者にも本にも罪はないが、宗教に関わりたくない気持ちはどうにもできない。

  • 震えるほど良い。外国人の聖職者視点で全て書かれてるのに、感情移入できることがすごい。

  • 先日、長崎の大浦天主堂に行ったばかりなので隠れキリシタンへの解像度が高い状態で読むことができた。日本は沼地、キリスト教は根付かず得体の知れない何かに変容すると話す奉行。弱者とともに苦しみを分つことがキリストの愛と悟った司祭。司祭の極限状態の思考が迫るものがある。

  • 映画も観ましたが、非常に重厚な一冊でした。自分がロドリゴの立場だったら?キチジローだったら?井上だったら?どの視点に立つかで読み方も変わる。重厚ながらも一気読みしてしまう一冊でした!

  • この文章は、noteで「沈黙。区別・非区別を越えて…」と題して綴った批評です。遠藤周作の沈黙に対してのみの批評ではありませんが、内容は含んでいるため、あげさせていただきます。
         
          区別を越え視座へ

     今年の秋頃、XのフォロワーさんがDMで、或るワインディング・ノートを引用してくださった。内容はとても素晴らしいものであった。僕は常々、沈黙について考えている。今回は、久々の批評である。まあ、批評というより、高校生の吐く不満だと思ってくれても構わない。しかし、実際に考えて欲しい…。先ずは、ある男の言葉を引用しよう。

    故郷を甘美に思う者は、まだくちばしの黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられる者は、既にかなりの力を蓄えた者である。全世界を異郷と思う者こそ、完璧な人間である。

    by  サン・ヴィクトルのフーゴー

    フーゴは12世紀フランスの神学者だ。
    完璧な人間とは、少々高慢な物言いだが、人間として成っているものが、より良く日々を営むことを指すならば、それはひとつの、成熟であろう。思想というものは、我々が生きやすくするためにある。よく、哲学で人生が変わりました等という輩が、後を絶たぬが、彼等がその意味を、本当に考えてみたことはあるのか、少し疑問だ。

     柄谷行人さんは、小林秀雄さんのある言葉を批判したことがある。

    小林秀雄は母親なんか持ってきて、大衆は文学なんて何とも思ってないんだなんて言う。僕はその時小林は母親のような大衆と大衆社会の大衆というのを混同していると思う。それは吉本隆明についても言えるけど、身近な何とも言いようのない他者は、読者つまりメディア的な大衆とは違う。そんなもの一緒にはできない。表象としての大衆=他者と、表象を破ってしまうような他者を区別すべきだ。

    ここで整理すると…

    表象としての大衆=大衆社会の大衆
    表象を破る他者 =小林の母親

    ここで、もうひとつ引用する。
    これは、小林秀雄の言葉だ。

    和やかな目に出会う機会は実に実にまれである。和やかな目だけが恐ろしい。何を見られているか分からぬからだ。和やかな目だけが美しい。まだおれにはたどりきれない秘密を持っているからだ。

    この和やかな目は、小林さんのお母様のことである。小林さんが、大衆は文学なんて何とも思ってないんだと言ったのは、おそらくこう言う理屈である。
    昨今のカテゴライズ文化など見れば分かるが、凡てが通念的範疇で了解されており、時間をかけるということなどしない。現代は、宗教を否定し、時間を否定し、否定しないものは、自分の含まれる範囲のみである。文学というものが、心の動きを描けぬ上に、世間は、心の動きとは何ですか、という体たらくである。
    小林さんは、本居宣長研究に於いて、かむかう、ということに重きを置いていた。考えるとは、身をもって交わる。かむかうとは、考えるの語源である。実際、彼は批評とは、無私を得る道ということを言っていた。批評に限らずそれは言える。

    一方、柄谷さんは、区別と非区別について述べている。僕自身、これには何の魅力も感じない。そもそも、必要なのは、区別ではなく、変化である。存在というものは、認識を介さぬ限り、そのものであり、それ以上でも以下でもない。柄谷さんは、weight「待遇」の問題を言っているが、小林さんは、weight「待遇」を越え、視座のことを言っているのではないか。

         ノイズと非ノイズ

     世界は曖昧である。それは、嫌というほど見聞きした言葉であるかも知れない。それでも、今更かよというようなリアクション許りで、考えはひとつもありゃしない、というケースが殆どです。
    近代化は、更に言えば現代は、計算可能性の枠組みの内側である。余分な箇所は切り捨て、単純化していくのである。
    社会には、ノイズがない。非ノイズ空間である。社会で生きづらいと感じるなら、それは人間が、ノイジーな存在だからだ。世界とは、そもそもノイジーだ。
    人間は、あらゆるものを同化させることにより、円滑なシステム運営をしてきた。古の狩りに始まり、現代の新自由主義的な風潮にまで及ぶ。しかし、人間は逃避行をしてきた。それは、愛かもしれないし、芸術かもしれない。少し先の危険なことかも知れない。日々の些細な出来事に思いを馳せることかも知れない。もののあはれ、とは、まさにこの事である。もののあはれとは、ただ、嗚呼、味わい深いと詠嘆することに留まらない。その対象と、向き合うことだ。現実とは、計算可能性の外にあり、ノイジーである。そして、寛容さとは、表象的他者とそれを破る他者という分別を越え、その存在に向き合うことだ。現実をみよ、そうわめきながら、現代は歩みを進める。しかし、誰しもが、そのカテゴライズの内にあり、向き合うことなどしなかった。
    確かに花は秘められている。

           文学と沈黙

     夏目漱石の三四郎に、広田先生という人物が登場する。偉大なる暗闇である。
    誰しもが偉大なる暗闇を裡に秘めている。スティーヴン・ピンカーが、音楽は聴覚のチーズケーキと言ったからといって、リチャード・ドーキンスが、神は妄想だと言ったからといって、何になる。
    ハラリが虚構と言って、ガブリエルが、More Truth といっても、その先が無ければ意味は無い。我々は、個々人の辿った人生の文脈の上にある。その認識の限界の総合知としての文学。その視座は、重要なものだ。遠藤周作の沈黙の最後、ロドリゴは、神からのお告げをきく。しかし、それは、いわゆる神ではない。紛れもなく自分である。自分が信じてきた神、自分自身の文脈が、そうしたのである。沈黙に絶望する。 しかし、それは同時に主体性が形成されることでもある。時間をかけなければ、我々は主体的であることは出来ない。我々は繋がれない。しかし、繋がっていると思えば、権力にだって立ち向かえる。繋がっていると思えば、不安なことはない。前提というのも其れ等を形容したものの典型だ。信号待ちは、最も典型な形に思える。自由意思は、現代の科学では、幻想だとされている。
    我々は、常日頃、自由を説く。しかし、真に自由であるとは、生きることに沿う。それで良いのでは無いか。
     しかしながら、現代は、非ノイズな働き方で成り立っている。そこで我々は、ノイズと非ノイズの両方に足を入れることが、大切となる。国家がある以上、社会を生きなければならない。しかし、同時に、その外を生きることをしなければ、ニヒリズムに病み、エゴの塊となってしまう、それが今の我々だ。
    芸術とは、逃避行とは、そのためにあると、僕は思う。

         盲目でないとは

     よく、盲目でいるな!とか視野を広く!等と言う輩がいるが、そういう人々は殆ど必ず、現実を見よ、逃げるなという。しかし、本当に現実を見ているなら、地獄へ道連れのような風に誘うことはないであろう。人間は真実に沿うという必然性に突き動かされている。しかし、真実とは、現実とは、認識の畢竟であり、言うなれば、人間は必然的な幻視者だ。肉体は、世界を忠実には撮せない。ただ現実があるのみである。認識を持つが故の障壁を、文学や芸術は、それを乗り越える為の視座を与える。それは、うちなる静な爆発だ。システムや共同体を運営するに当たり、何かしらを妥協するのなら、曖昧さ、ノイズと非ノイズの入り混じるのを認識をした上で、試みるべきである。それは、めいめいが、カテゴライズによる分裂装置であることから救うことかも知れない。

     認識の差異により、繋がれず。それでも、時に何かに向けて繋がっているかのように感じる。この文章が、我々が動物である以上、避けることの出来ない無力さを、乗り越えていくための、ひとつのアプローチになればと思う。

     少し早いが、メリークリスマス!

  • 旅先の長崎の出津教会堂(世界遺産なんですよ!)の側に遠藤周作文学館があり、そこが「沈黙」の舞台であることを知りました。その場でKindleでダウンロードして読み始めたのですが、本をめくる手が止まらない止まらない。

    目の前の急斜面の山々と広がる海がそのまま本の舞台であり、「沈黙」の壮絶な歴史を知るとその風光明媚な景色がさらに美しく見えてきました。

    キリスト教とはなにか、信仰とはなにか、深く考えるきっかけになりました。ここで遠藤周作が表現しているテーマは、私にとって宗教とはなにかを考える上でのひとつの補助線になりそうです。

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著者プロフィール

1923年東京に生まれる。母・郁は音楽家。12歳でカトリックの洗礼を受ける。慶應義塾大学仏文科卒。50~53年戦後最初のフランスへの留学生となる。55年「白い人」で芥川賞を、58年『海と毒薬』で毎日出版文化賞を、66年『沈黙』で谷崎潤一郎賞受賞。『沈黙』は、海外翻訳も多数。79年『キリストの誕生』で読売文学賞を、80年『侍』で野間文芸賞を受賞。著書多数。


「2016年 『『沈黙』をめぐる短篇集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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