「A」 マスコミが報道しなかったオウムの素顔 (角川文庫) [Kindle]

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  • KADOKAWA / 角川書店
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感想・レビュー・書評

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  • テレビのドキュメンタリーさながら結論じみたものはないんですけど、まあ読みやすくていい作品なのではないだろうか。
    ”この作品に登場するオウムにも警察にもマスメディアにも、とにかくほとんどの日本人に共通するメンタリティがあります。共同体に帰属することで、思考や他者に対しての想像力を停止してしまうことです。”
    という言葉が印象に残る。

  • オウム真理教を題材にしたドキュメンタリー映画『A』は、商業的には成功したとはいえないが、国内外でそれなりの評価を得た。本書は、監督である森達也が彼を世に出すこととなった『A』ができるまでの経過を時系列に追いかけたものだ。当初はTV番組の企画として出てきたものが、キー局上層部の意向に背いて、教団を内部から撮るという踏み込んだ取材を続けたため、制作会社から契約を解除され、独力で撮り進める様子が描かれている。著者は、作品となる保障もない中で、何かに衝かれたように撮影にのめりこんでいく。オウムに対して少しでも好意的な意見が攻撃されるメディアの異様さへの反発もある。そして、その撮影の中で森達也のドキュメンタリーの定義が形をもって明確になってくるかのようだ。

    「ドキュメンタリーの仕事は自称から、客観的な真実を事象から切り取ることではなく、主観的な真実を事象から抽出することだ。... 映像で捉えられる真実とは、常に相対的だし座標軸の位置によって猫の目のように変わる。」

    ドキュメンタリーにおける客観性の否定である。カメラの存在が対象に影響を与えること、撮影するということの主観性を取り除くことができないという事実について謙虚かつ意識的であることがドキュメンタリーのマナーである。

    「オウムはわからない。「信じる」行為を「信じない」人間に解析などできない」と結論づけるのは、まるで『エスパー』で超能力に対して同じようにいう著者の姿と重なる。

    エピローグで「共同体に帰属することで、思考や他者に対しての想像力を停止してしまう」のを日本人に共通するメンタリティとして挙げている。この点で、オウム信者も警察もメディアも重なっているというのだ。この思いは、後に麻原彰晃の裁判を追いかけた『A3』の内容に結実する。

    これらの姿勢は、著者のひとつの人格のもとに一貫して、すべてがつながっているように思う。

    この本を読んだ後に映画『A』を観た。オウム信者の普通さと私服警察官による不当逮捕が強く印象に残る。それは事実であるが、同時に森達也という監督が意志をもって切り取った主観による事実でもあった。

  • ここ数年、ものすごい勢いで書きまくっている森達也の初期の作品。オウムの広報部長に密着して「価値判断を交えないドキュメンタリー映画」を自主制作した記録。愚直とも言える生真面目さでオウムに対峙し、制作会社をクビになり、家族の生活の心配をする不器用さはある意味、オウムと共通する部分があったんでしょうね。
    ただ、本書を読んでどうしても弱いと思ったのが、やはりオウムが団体としておこなったテロ行為の「落とし前」をどうつけるのか、と「どうしてオウムなんだ」という理由。2つ目の質問はおそらく筆者本人にも途中までわかってなかったんでしょうが(そうでなければもっと切れ味が鋭かったはず)、オウムは現代日本の単なる「写し絵」だったわけですね。
    著者が当初違和感を感じたのはオウムもそうなんですが、それと同じくらい、オウム信者の人権を認めない「日本社会」だったわけで。オウムとともに行動をともにするにつれて、「なぜオウムだったのか」がするするっと氷解します。
    つまり、筆者にとって、対象はオウムでなくても良かった。連合赤軍でも、チーマーでも、暴走族でも良かったんです。ただ、オウムを生んだ時代や、「反オウム的なもの」を理解するのに、オウムが必要だった、ということ。
    「あとがき」でオウム排除やタカ派の政治家に関して著者は書きます。「これらの根底にあるのは、剥き出しとなった『他者への憎悪』だ。様々に加工され装飾された憎悪が、世論や良識などの衣を纏いながら、メディアや司法や行政、そしてそれらの基盤となる市民社会という共同体の、重要な規範を無自覚にコントロールし始めている」
    3.11以降、ヘイトスピーチ、嫌韓、嫌中、ネトウヨが跋扈する今の日本を、これだけ的確に表した一文はそう多くはない。それも今から10年以上前の文である。優れたものは普遍性を持ち、時代を超えるというお手本のような作品ともいえるでしょうね。

  • 本書の内容は、オウムが一体なんだったのかということを書いたものではなく、ドキュメンタリーとは何なのか、ということを綴ったものだ。オウムのドキュメンタリーを撮る、ということに対する周囲の反応が淡々と描かれているが、それは私の想像していたものとはかなり違っていた。マスコミ自身までもあからさまに示す拒絶反応はいったい何なのか。著者はこれが日本の本質だと語っているけれども、どうなんだろうか。何故オウムのドキュメンタリーがタブーだったのか、私にはピンとこない。

  • テレビ番組のディレクターを務めていた著者は、サリン事件以降過熱する一方の報道に違和感をおぼえていた。本当の彼らが知りたい。著者は、オウム真理教を題材にドキュメンタリーを撮り始める。「オウムの味方をするのか」と非難の声が上がる中、取材は2年を超えた。果たして彼は、オウムの真実にたどり着けるのか。

    「公正中立でものはつくれない」という言葉がとてもとても印象に残った。ものをつくる人間として、忘れたくない言葉だと思った。人は、自分のフィルターを通してしか物事を見ることができない。いくら「中立の立場で」と意識したとしても、そんなことはありえない。AかBか、必ずどちらかに多少は傾いているはずなのだ。発信する人は、それを踏まえた上で、覚悟した上で、発言しなくてはならない。

    「マスコミは真実を伝えない」と言われるが、偏っているのはマスコミだけではないのだ、と書かれていた。マスコミも人間であって、そして人は所詮見たいようにしか物事を見ない。結局「真実」なんてどこにもないのだ。著者がオウムを理解できたのか、真実を知ったのか、といえばおそらくNOだろう。一つの見方しかできなくなることの恐ろしさを教えてもらった一冊。

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プロフィール

1974年、愛知県に生まれる。
1997年、南山大学法学部卒業。1999年、南山大学大学院法学研究科修士課程修了。2003年、早稲田大学大学院政治学研究科博士後期課程単位取得退学。2015年、博士(政治学)早稲田大学。
現在、早稲田大学政治経済学術院講師(任期付)。
著書:『多元主義と多文化主義の間』(共著、早稲田大学出版部、2013年)、『公共性の政治理論』(共著、ナカニシヤ出版、2010年)など。
翻訳書:A・マルガリート『品位ある社会』(共訳、風行社、2017年)、D・ミラー『政治哲学』(共訳、岩波書店、2005年)など。

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