論より詭弁~反論理的思考のすすめ~ (光文社新書) [Kindle]

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  • ・”論理的思考”は議論の場において相手と自分が対等な関係であることが前提になっているが実際には違う.パラーバランスに偏りがある前提で議論をする.

    →自分はA,相手はBの主張で争っていたときに,相手が「Bじゃないならもういい!Cする」としたときに論理的思考におけるディスカッションでは詭弁だ!となるが,現実はそれで動く

    →リアリズムを感じる.論理的思考に基づいているかではなく,現実を動かせるか,自説を通せるかに重きを置いている

    ”発生論的虚偽”→ある情報が発見されたことと,その情報の審議は全くの別問題である
    →ある主張の動機とその内容の真偽も全く別
    →これがわからない人,ネットでいっぱい見かけるよな

    AはBだがCだ.AはCだがBだ.
    →どちらも同じことを言っているのに印象がまるで変わる.これがすでにレトリック.言葉が,表現対象を歪めてしまう.
    →ここにはAに関する情報はもちろんだが,これを表現したXの価値観も含まれている

    "あることを表現するとは,複数の可能な言葉から一つを選択することに他ならず,その際に.自分にとって最も都合がよく,効果的な言葉を選ぶことは説得を目的とするレトリックの立場から言えばむしろ当然の振る舞い”

    ”富士山は日本一標高が高い”という事実を述べた一文ですら「なぜ”日本一の標高”という切り出し方をしたのか」という点で価値判断が含まれる.すべての表現はその人の「意見」といえる

    相手の問いに素直に答えることは,相手の掌で踊らされることになりかねない.

    "

  • 人は誰しも詭弁を使うが,他人の詭弁には厳しいということ.
    世の隠された一面を示している.ただ,それだけでもある.

  • 作者の頭の良さと、(褒め言葉として)作者の性格の悪さがとても面白い。
    詭弁の型を語りつつ、そんなの詭弁でもなんでもない!というアプローチ。
    今後、知っていると役に立ちそうな知識もついたように思われる。



    ====
    ▼論理的思考批判
    ・論理的思考力や議論の能力など、所詮は弱者の当てにならない護身術である。強者には、そんなものは要らない。


    ▼順序
    ・現実世界(少なくとも同一時間)においては、すべての「事実」は同時に存在している。(机や、椅子や、本棚は、すべて同時に存在し、順序がついて並んでいるのではない。)
    ⇒言葉によって何かを表現するとは、本来順序のついていないものに勝手に順序をつけて並べることである。


    ▼死刑制度に賛成であるとする。それに対し、死刑廃止論者が『国家に人を殺す権利があるのか?』と毒づいてきた。
    ⇒「ある」:あたかも独裁的な国家が恣意的に国民を殺すことを容認したようになる。
    ⇒「ない」:それなら死刑に反対せよ、となる。

    『国家に、複数の殺人を犯した人間に対し、裁判によって死を与える権利はあるか?』
    ⇒これなら「ある」と答えられる。

    ⇒「類似からの議論」を用いて、相手の問いを自滅させる。
    『では、国家に人を監禁する権利はあるのか?(禁固刑の場合)』
    『では、国家に人を強制労働させる権利はあるのか?(懲役刑の場合)』


    ▼「あなたの使っている○○という言葉を定義せよ」などと詰め寄られたら「あなたの○○の使い方と同じだと思ってくれてかまわない」とでも答えればいい。もし使い方に違いがあれば、それを説明するのは相手の責任になる。


    ▼「私が道路を咥え煙草で歩いていると、向こうから同じように咥え煙草の男が歩いて来て、私に向かって「咥え煙草で道を歩いてはいけません」と言った。
    ⇒私が、「てめえだって、煙草を咥えて歩いているじゃないか」と言い返したとしたら、それはきわめて非論理的な振る舞いということになる。私が咥え煙草で歩いていたという事実およびそれが悪であるという評価は、その男もまた咥え煙草で歩いていたかどうかとは「関係なく」成り立つ。
    ⇒ただし、社会では論理よりも常識が優先される。


    ▼「はい」か「いいえ」を要求される問い

    ●「君は、もう奥さんを殴ってはいないのか?」
    ⇒「はい」と「いいえ」のどちらで答えても、自分が「妻を殴っていた or 殴っている」ことを認めたことになってしまう。
     ・「はい」:かつては殴っていたが、今はやめたということになる。
     ・「いいえ」:今でも殴っているということになる。
    ⇒「馬鹿野郎! 俺はカカァを殴ったことなぞ一度もねえや!」と怒鳴り返す。


    ●「村会議員が公費でヨーロッパ視察に行くことに賛成ですか?」
    ⇒「賛成」と「反対」のどちらで答えても、村会議員の行為が「視察」であると認めたことにされてしまう。
    ⇒「『視察』じゃなくて『見物』でしょ?」と、問い返す。


    ●「君は、K西の、あの下らない詭弁の本を最後まで読んだのか?」
    ⇒「はい」と「いいえ」のどちらで答えても、K西の本が下らないことを認めたことにされてしまう。
    ⇒「私はK西の本が下らないとは思いません」と答えたら、K西の本が下らなくない理由を説明する責任が生じてしまう。(相手は、その説明に対し、色々とけちをつけ、揚げ足を取ってくる。議論においては、責めるよりも守る方がはるかに難しい。)
    ⇒「K西の本のどこが下らないのですか?」のような、相手に立証責任を負わせるべき。(相手の説明に対し、こちらは好きなだけ反論してやればよい。)

  • 論理学から見た詭弁とレトリックとしての詭弁を比較し、面白かった。論理よりも常識、発話論理よりも発話主体、口だけ番長は最低だよね。

  • 言葉には順序がつきまとう/事実と言葉は/A子はBでCでDでEだがFだ/定義について質問された場合は…/国家に人を殺す権利はあるのか?という質問に対して/人に対する質問/あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい/論点ずらしでなく論点の移行・変更/論点の優先順位を変える

  • 「論理的」が正しいこと、という印象を持っていたが、論理的=中立的という誤解を解く本。難しい部分も多いが、中立出ないからこそ自分のポジションを取って主張していくということだと思う。

  • 日常生活の中でも「これ論点のすり替えだな〜(詭弁)」と感じる場面が多々あったこともあり、以下の発想が特に斬新に感じた。
    〜〜
    「論点のすり替え」などというネガティヴな言葉を使うから話がおかしくなるので、「論点の変更」あるいは「論点の移行」とでも言っておけば何の問題もない。要するに、発話内容という論点が、発話行為という論点に変更されただけの話である。

  • 本書は、詭弁や虚偽のようなもの……レトリックについての本である。
    相手を論破・説得するためには単純な論理よりもレトリックめいた物言いや考え方が有用であると説き、それらについての使用例や考え方などについて語られている。
    たとえば「論理的ではない」物言いやものの味方の例として「お前も同じ」「誰が言ったかが大事」というような『人に訴える議論』が挙げられている。これらは論理的ではないが議論の場では説得力を持つ。こういった表現を用いるのは是か非か!?……などというようなことについて諸々書かれている。
    上記の点について個人的なまとめをするなら、これは第4章だが、その他、章ごとに概略をまとめると、
    第1章は「恣意的な問いには例外や反証を問いで突き返せ」、
    第2章は「定義と因果関係という複数の論拠を混ぜるな」、
    第3章は「恣意的な定義づけは相手に説明させろ」、
    第4章は「正義原則(公平の原則)に基づいて、相手の立証責任・説明責任へと論点を移行させろ」
    第5章は「問いの恣意的な前提はその論拠を立証させろ」、

    多分不足しているが。色々引用文献などもあるが、平易な文章で書かれており、哲学や論理学の素養がなくともなかなかに読みやすかった。
    惜しかった点は少ない。ひとつは、議論が、対立意見同士の討議という形式を前提としており、協議的な合意形成という観点がなかったこと。ひとつは、なんでそれで人々が説得されるかについて結果論的にしか答えていないところだ。ただ、前者は紙幅の関係で、後者はそもそもこれ誰が説明できるのかという点で難しいところだろう。
    そんなわけで「正当な論理」を信奉していた僕にとってはちょうどいいカルチャーショックになる、けれども腑に落ちる手ごろな一冊であった。

  • 人狼ゲームをやっていると、ポジショントークによる戦いが起こることが多い。人狼では必ずどちらかが正解でもう一方は不正解(嘘)だが、現実に起こっているポジショントークは必ずしもそうではない。有利なポジションだからといって言っていることは正しくないとは限らないし、両者のポジションが違うからといって、両者の意見は食い違うとも限らない。
    その為、純粋な論理的思考だけで判断することは困難を極める。判断には必ず価値判断が含まれており、その価値判断を導き出すためには、論理的な思考は材料になりにくい。論理的な思考を成立されるためには、それが真(あるいは偽)であると判断できるための材料が必要であり、得てしてそういった情報は手に入らない。不確実な未来を対象にした判断が必要な場合は、尚更である。

    本書は、ロジカルシンキングをある程度学んだ上で読むのが良いと考えている。特に、ロジカルシンキングを身に着けたようにみえても、なかなか上司や顧客を説得できない社会人は、突破するための糸口が見えるかもしれない。
    弁論術、というものはもっと真剣に取り上げられてもいいと思う。

  •  論議のテクニカルなことが書いてあると思ったが違った。そもそもなんのためか、もう一度思い起こそう。
     ある章は、まるで道徳判断について書かれているようでハッとさせられる。
     世間では詭弁とは呼ばれているものが、実は効果的であるということを教えてくれる。そう、問題にすべきは相手の意図なのだ。
     論理学の袋小路に迷い込んでいるかたにこそ読んで欲しい。

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著者プロフィール

1958年香川県生まれ、筑波大学第一学群人文学類卒業。同大学院博士課程教育学研究科単位修了、琉球大学助手を経て、現在、宇都宮大学教育学部教授。専攻は修辞学(レトリック)と国語科教育学。著書に『反論の技術』『議論の技を学ぶ論法集』『修辞的思考』『論争と「詭弁」』『議論術速成法』『論より詭弁』『論理病をなおす! 』など。

「2010年 『レトリックと詭弁 禁断の議論術講座』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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