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感想・レビュー・書評
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4/10
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NDC8版
331.5 -
内容については他のレビュアーに譲り、本書の読まれ方について回顧的感慨をひと言。ウェーバーが本書で剔抉したプロテスタンティズムのエートスを近代的な人間類型のコアに据えて、戦後日本の社会変革のトリガーに仕立てようとした大塚久雄『 大塚久雄著作集〈第8巻〉近代化の人間的基礎 (1969年) 』のウェーバー理解は優れて時代を映すものであった。大塚やその弟子達(例えば内田芳明『 ヴェーバーとマルクス―日本社会科学の思想構造 』)にとって、マルクスにウェーバーを接続してその批判的継承を図るというのが大きな課題だった。
下って評者が学生時代を過ごした80年代後半には、ウェーバー・ルネッサンスが喧伝され、近代合理主義に警鐘を鳴らしたウェーバーにスポットをあてた議論が盛んに行われた。ニーチェとの関係を問題にした山之内靖の仕事『 ニーチェとヴェーバー 』はその典型であるし、脱魔術化がもたらす病理を取り上げた姜尚中『 マックス・ウェーバーと近代 』もその流れに連なる。上山安敏『 神話と科学―ヨーロッパ知識社会 世紀末‾20世紀 』は合理主義と非合理主義の間で揺れ動くウェーバーを、社会史的なアプローチで鮮やかに描き出していた。この文脈ではかの「精神なき専門人、心情なき享楽人・・・」という本書末尾のセリフがあまりに有名である。いずれも時代の課題意識と鋭く切り結ぶかたちでウェーバーは読まれてきた。
翻ってゼロ年代以降の若者はそもそも本書を読むのだろうか。読むとしても社会学の論文のお手本以上のものをそこに見出すのだろうか。その意味で、羽入辰郎『 マックス・ヴェーバーの犯罪―『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊 』を巡って繰り広げられ、大きな話題にもなった論争が、あくまで実証手続を問題とするものであったことは象徴的である。学説史上の巨人としてではなく、アクチュアルな思想としてウェーバーが読まれることは益々少なくなるのだろう。それはそれで「価値中立的」にウェーバーを読むということでもあり、いいことなのかも知れない。ただ熱い思いでウェーバーを読んだ最後の世代として少し寂しくもある。
(内容についての疑問)
きっとウェーバーもどこかの脚注か何かで予防線を張ってるだろうし(※)、専門家の間では議論され尽くしてる事かも知れないが、敢えて疑問点を一つ。解説で大塚久雄も注意喚起するように、本書は「プロテスタンティズムが近代の資本主義をつくった」と主張するものではなく、「意図せずして資本主義文化の発達を促進するという役割を果たした」に過ぎないというのがウェーバーの基本的な立場であろう。ウェーバーがマルクスの唯物史観を逆転して、宗教が経済を規定すると考えたという通念が誤りであることも解る。ただそれでも評者には、影響関係が逆だと思えてならない。つまりプロテスタンティズムの教義が天職概念を通じて資本主義を促進したというよりも、むしろ利潤追求の後ろめたさが天職という正当化根拠を要請し、それがプロテスタンティズムの普及を促進したという方がよほどありそうな事に思える。
(※)案の定p369に該当箇所あり。「プロテスタンティズムの禁欲それ自体が逆に・・・経済的条件によって深く影響されているということも明らかにしていかねばならないだろう。」 -
米国を始めとしたプロテスタント系国家の文化的基盤としてよくあげられる本書。池上彰さんの「世界を変えた10冊の本」でも紹介されてたし、Audible「聴き放題」の視聴期限も迫っていたので散歩がてら聴いてみた。
日本語訳は89年に改訂版として出版されてるが、原本は1920年にマックス・ウェーバー没後すぐに出版されている。100年前の時代背景やキリスト教(特にプロテスタントの各宗派)についての説明が長すぎて集中力が何度も途切れた。世界観が遠すぎる。文章から広がる世界が「ドラクエの洞窟の松明」くらいに狭すぎる。
把握できた内容は前述の「世界を変えた10冊の本(池上彰)」や「世界の経済学50の名著」での説明に及ばない程度だった。
つまり結論としては、「問い」を用意していたり、筆者や本の主張に「特別な関心」を持っていない場合においては、数十年前の名著については要約された入門書で十分だと思った。 -
あまりに難しそうなので、訳者解説から読んだところ、これが正解。キリスト教のことはあまり詳しくないので、プロテスタントティズムの系譜はそこそこに読んで流して、後半に挑む。これが20年前の自分。
その後各所をつまみ食いしながら再読を繰り返しています。
単純に資本主義を上から導入してもうまくいかない理由は本書を読んで明らかであると思うが、それではそれぞれの社会における最適な社会、経済体制は何か。歴史の中ではそれぞれの社会における資本主義はどう振る舞ったのか。資本主義の世界を広げてくれた本です。 -
2年前に読んで挫折し、ここ最近、旧約聖書、新約聖書を通読し、キリスト教の知識もブラッシュアップさせて再び挑戦して、ようやく読みきれた。後半の大塚氏の解説が、かなりヴェーバーの考えを理解するのに役立つため、本文がちんぷんかんぷんな場合は、先にこちらに目を通すのもアリかもしれない。
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敬虔なプロテスタントは禁欲的で神から与えられた天職を全うするという形で信仰心を体現.→金儲けを目的とはして似ないけど儲かるし,無駄遣いもしない.隣人愛でもっと手広く→さらなる商売の拡大,寄付.→社会全体でそれが起き”儲からないとやっていけない”状態に(信仰の必要性なく商売の自己目的化)→資本家・経営者・上流サラリーマン誕生!
一見相反するものに実は繋がりがあった,しかもそれは世界を大きく変えるものとなった(資本主義の台頭)
というのは面白い.
また資本主義の自己目的化で宗教の必要性が薄れたこと.人々の信仰が神から金に転換していったんだなあとも思う.
内容は非常にタフ.訳者解説をまず読むことを勧めたい.
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資本家,経営者,熟練技術者,上流サラリーマンのプロテスタントみが強い.
プロテスタントはより宗教による人々の支配を強いるもの.
なぜ経済的に隆盛していた人はプロテスタントを受け入れれたんだろうか.
近代資本主義を構築したのは日頃から金の話をするような商品,商業が倫理的にタブーとされない自由な国ではなく,その逆,反営利的な倫理観の中で生まれて行った
という主張.
信仰心は希薄に.天職義務が亡霊のように形式的に残ることに...
ー>今の日本でも理由が無い天職義務の精神ってあるような.その体現が学校教育だったり.
アメリカに寄付団体が多いのはその名残.
罪人は憐れみ異端を罰する
“近代”資本主義.簿記を土台にした合理的な産業経営,それが大量現象としてみられること
”労働そのものが自己目的化は賃金の高い低いではなく,長年月の(宗教的)教育の結果”
”資本主義的精神を持ち合わせている人ほど,目先の貪欲を抑制することを知っている”
プロテスタントにおける禁欲ー>非行動的なものではなく,一つの目標に向かってそれ以外を無視して突っ走ること.目標達成のためにエネルギーをそこに注ぎ込む
世俗外的・内的=修道院の中か,外か
ルターー>”天職”という概念ー>職業へのコミットメントという価値観
一見すると相反するもの同士が原因と結果の関係を作っているという主張は耳目を集める.
プロテスタントは元々の経済的事情や社会的地位の高い低いに関わらずカトリックに比べて経済的合理性に愛着を抱く傾向があると主張 -
◆10/18オンライン企画「なぜ人はあいまいさを嫌うのか〜コントロールしたい欲望を解き放つ〜」で紹介されています。
https://www.youtube.com/watch?v=t2KA8IjVT9U&feature=youtu.be
本の詳細
https://www.iwanami.co.jp/book/b248662.html