アンリミテッドにて読了。よく調べてかかれている良書。後半に多少の著者の感情が見え隠れする部分があって、読者的には戸惑うが、明治維新の色々な嘘が分かる本。とくに合図戦争を中心にした列藩同盟の記述は、明治維新を美化したその後の官軍教育を受けた私には、目を開かされた思いがした。
星四つ。
下記にハイライトした個所をコピペ:
67
黄色のハイライト | 位置: 66
従って、敗戦に至る過ちを「総括」するということもやっていないのだ。ただ単純に、昨日までは軍国主義、今日からは民主主義などと囃し立て、大きく軸をぶらしただけに過ぎなかっ
黄色のハイライト | 位置: 68
実は、俗にいう「明治維新」の時が全く同じであった。あの時も、それまでの時代を全否定し、ひたすら欧化主義に没頭した。没頭した挙句に、吉田松陰の主張した対外政策に忠実に従って大陸侵略に乗り出したのである。つまり、私たちは、日本に近代をもたらしたとされている「明治維新」という出来事を冷静に「総括」したことがないので
黄色のハイライト | 位置: 147
尤も、龍馬とグラバー商会との関係から最近では龍馬=フリーメイソン説が出ているが、それは〝図に乗り過ぎ〟というものであろう。いずれにしても、坂本龍馬とは、日本侵略を企図していた国の手先・グラバー商会の、そのまた手先であったということ
黄色のハイライト | 位置: 163
歴史学者松浦玲氏が、坂本龍馬の実像研究家としては著名である。勝海舟・横井小楠 の研究家として名高い氏は、坂本龍馬に関しても、『検証・龍馬伝説』(論創社刊)を著されて
黄色のハイライト | 位置: 220
発端は、新政権が出した太政官布告『神仏分離令』と明治三年に出された『 大教宣布』にある。学者は、これ自体が直接仏教排斥を指示したり、煽ったりしていないとするが、それは文章 面 のことであって当たり前である。これを後ろ盾として、仏教弾圧の嵐が吹き荒れたことは否定のしようもないことなの
メモ廃仏毀釈の起こりについて。
青色のハイライト | 位置: 313
そもそも「明治維新」という事件なり、事変というものは歴史上どこにも存在しない。今更ながら、この初歩的な一点を明確に意識しなければ、幕末動乱の史実というものはいつまで経ってもその実相が浮かび上がらないであろう。強いて簡略に定義づければ「江戸幕府とその社会体制の転覆を図り、天皇親政を企図して、これらを実現させた、長州・薩摩による一連の政治、軍事活動」とでも表現できるだろ
黄色のハイライト | 位置: 341
例えば、「尊皇攘夷」や「勤皇」という言葉を長州・薩摩藩士の代名詞のように受け止めることが多く、彼らのことを「尊攘派」と呼ぶ学者すらいるが、これほど幕末期の政治情勢を無視した話はない。多くの人が「勤皇」=「尊皇攘夷」と解釈し、「勤皇」と「佐幕」を対立語として使っているが、これもまた当時の実態から著しく乖離しており、こういうレベルで幕末を語るから、史実とかけ離れた安直な歴史物語が生まれるので
黄色のハイライト | 位置: 501
この時期、幕府を支えた実務官僚を指して「幕末の三傑」といういい方がある。岩瀬忠震、水野忠徳、小栗 忠順 のことをいう。私にはこれに若干異論があり、いうとすれば「幕末の四傑」ではないかと思っている。川路聖謨が抜けているのだ。中には、いや、井上清直を入れないのも片手落ちであり、「幕末の五傑」というべきだと主張する人がいるかも知れない。いずれも幕臣であり、幕末外交に奮闘した優秀な武家官僚で
黄色のハイライト | 位置: 508
アメリカのあのハリスと英国の初代駐日外交代表・オールコックが組んだ米英連合を相手にし、壮絶な通貨の交換比率交渉を展開し、鋭い知性でハリスとオールコックをたじたじとさせたのが水野忠徳で
黄色のハイライト | 位置: 516
嘉永六年にペリー率いる黒船が来航して、その武力威圧に屈して幕府は遂に開国したというのが「官軍教育」に則って今も学校で教える日本史である。ところが、実際には幕府は 天保 十三(1842)年に『 薪水給与令』を発令し、文政八(1825)年から施行されてきた『 異国船打払令』を完全否定し、この時点で対外政策を百八十度転換した。即ち、この時点で実質的に開国したと 看做すことができるわけで、長州・薩摩サイドの事情で後に書かれた〝歴史〟とは二十年以上の開きがあるの
黄色のハイライト | 位置: 527
つまり、薩長政権が成立するまでの約四半世紀の間、江戸幕府はオランダ以外の列強、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、プロシャを相手としてそれなりに外交経験を積んでいるので
黄色のハイライト | 位置: 534
また、未開国の江戸期日本と先進国の西欧列強という構図で黒船来航を教えられている現代人は、黒船を蒸気船であると思い込んでおり、蒸気船であることが幕府をはじめ江戸市中の人びとを恐怖のどん底に落とし込んだなどという勝手な話を創り上げているが、帆船も「黒船」と呼ん
黄色のハイライト | 位置: 609
現に、クーデター後の最初の〝閣議〟ともいうべきこの三職会議は揉めに揉めた。この会議は、御所内の 小御所 で開催されたところから『小御所会議』といわ
黄色のハイライト | 位置: 616
小御所会議が揉めた図式の軸は、土佐藩山内容堂と岩倉具視の対立である。山内容堂が「尊皇佐幕派」であることは、先に述べた。岩倉具視は、長州・薩摩の頭に立つ「討幕派」である。こういう立場、スタンスの違いだけでなく、実はこの時点で「岩倉具視が孝明天皇を毒殺した」という噂が広く流布されていたのである。この噂は、この会議の出席者は皆知って
黄色のハイライト | 位置: 639
山内容堂が身の危険を感じた時点で、会議の趨勢が決したといえる。再開後の会議において、「徳川慶喜に辞官納地を求める」、即ち、官位と所領を没収することを、誰も反対せず決議したので
黄色のハイライト | 位置: 662
更に三日後、慶喜は、朝廷に対して「王政復古の大号令の撤回」を要求した。 朝廷は遂に、『徳川先祖の制度美事良法は其の侭被差置、御変更無之候間』云々との告諭を出した。つまり、徳川政権への大政委任の継続を承認したのである。この告諭では『王政復古の大号令』を取り消すとは言明していないが、実質的に徳川慶喜の要求を呑んだことになる。徳川幕藩体制は、維持されることになったのである。 ここに、岩倉具視と長州・薩摩の偽勅許による討幕、軍事クーデターによる討幕のオーソライズの策謀は敗北し
黄色のハイライト | 位置: 672
俗にいう「明治維新」の核となる出来事が『大政奉還』と『王政復古の大号令』であることは、学校教育でも一貫して常識であったが、以上のような史実が存在する以上、学校教育は「明治維新は失敗した」と教えるべきではないか。少なくとも、『王政復古の大号令』が完璧に失敗、偽勅による幕府転覆の策謀が未遂に終わったことだけは、教育というものの良心に拠って立って明瞭に教えるべきであろ
黄色のハイライト | 位置: 701
このテロ集団を「薩摩御用盗」と呼んで恐れた。夜の江戸市中からは人が消えたという。 遂に幕府は、庄内藩酒井 忠 篤 に江戸市中取締を命じたのである。藩の成り立ちというものもあるが、会津藩松平容保が京都守護職を受けたことが戊辰会津戦争の悲劇に通じたように、庄内藩が会津と共に最後まで長州・薩摩を中心とした反乱軍に抗戦したのも、その端緒はこの「江戸市中取締」を拝領したことに
メモ赤報隊の蛮行を取り締まる庄内藩。
黄色のハイライト | 位置: 727
結局、京における討幕クーデターに失敗し、圧倒的に不利な立場にあった長州・薩摩勢力は、この江戸市中での騒乱によって一気に戊辰戦争へと突っ走り、後に「明治維新」と呼ばれる政権奪取を断行してしまったのである。西郷が送り込んだ赤報隊が、その一番の功労者ということになる。敢えて簡略に述べきってしまえば、これが、後世「明治維新」と呼ばれた動乱の、核になる部分の史実で
黄色のハイライト | 位置: 821
天保十三(1842)年、幕府は『薪水給与令』を出し、実質的に開国した。三年後の弘化二(1845)年、アメリカ捕鯨船マンハッタン号が浦賀に入港している。ペリーの来航は、『薪水給与令』発令から下ること十一年、嘉永六(1853)年のことで
黄色のハイライト | 位置: 848
会津の悲劇は、会津若松城の開城で終わった訳ではない。北の果て・斗南(下北半島)へもち越さ
黄色のハイライト | 位置: 858
会津藩士とその家族が斗南へ移住したのは、明治三(1870)年四月から十月の間である。その数四千三百三十二戸、一万七千三百二十七名とされる(大竹邦洋氏「斗南残恨史」・歴史春秋出版『会津人群像』二十五号
黄色のハイライト | 位置: 1,110
後に昭和になって、長州軍閥が創り上げた帝国陸軍が美濃部博士の『天皇機関説』を糾弾したことを思い出す方も多いのではないか。軍部は、この学説に圧力をかけて、結果的に 統帥権を我がものにし
黄色のハイライト | 位置: 1,113
長の陸軍、薩の海軍」という言葉が示す通り、帝国陸軍とは実は長州軍閥の巣窟ともいえる集団であって、戊辰戦争を経て成立した薩長政権のキャラクターは実は大東亜戦争(太平洋戦争)の基盤要因となっていたので
黄色のハイライト | 位置: 1,560
御一新」が成立した後の新政府( 太政官 政府)の腐敗に、心底から怒り、失望したのは、「赤報隊」に江戸での強殺・強姦・放火・略奪を命じた西郷であった。「赤報隊」をいとも簡単に使い捨てた西郷が、新政府の腐敗をみて、これでは手前どもが倒した徳川家に対しても申し訳が立たないとして下野したのである。このことが結局「西南戦争」に結びつくのだが、だとすると「西南戦争」を惹起したものは新政府の腐敗であると断じることができるの
黄色のハイライト | 位置: 1,597
先の「モノ」「異胎」は「魔法」「魔法の森」になってしまい、その〝生存期間〟も半分の二十年間に短縮されている。更に司馬さんは、同書の中で、昭和元年から昭和二十年までは異常である、と繰り返し断言し、『他の日本史とは違う。特に昭和十五、六年ごろから敗戦の二十年までは異様でした。日本史の中の鬼っ子といいますか、そういう時代だった』と、期間を五、六年にまで圧縮してしまっている。 確かに、戦時中は異様な時代であったろう。しかし、それが一つの民族の歴史としてそれまでの歴史と連続性をもたないなどということがどうしてありえようか。私にしてみれば、この「モノ」「異胎」「魔法の森」こそが、「いわゆる明治維新」の産物なので
黄色のハイライト | 位置: 1,606
要するに司馬さんは、明治憲法における統帥権のことがいいたいのである。統帥権を私した参謀本部を「異胎」だ、「魔法の森」だといっているの
黄色のハイライト | 位置: 1,621
司馬さんは、「魔法の森」の主役は関東軍であるといい
黄色のハイライト | 位置: 1,679
空論というものは、容易に観念論へと発展し、善悪二元論へ行き着くのが常で
黄色のハイライト | 位置: 1,699
つまり、「明治維新」とは昭和になってから、極右勢力によって一般化した言葉であって、幕末の御一新のその時に使われた言葉ではない。まずこのことを、基本的な知識として知っておくべきで
黄色のハイライト | 位置: 1,704
もともと、「維新」という言葉そのものが、水戸学(藤田幽谷)が生み出した言葉である。「攘夷」という言葉も藤田幽谷の〝発明〟であり、戦前の陸軍お得意の「国体」もやはり水戸学から生まれた(会沢正志斎「
黄色のハイライト | 位置: 1,714
昭和維新の精神的支柱はいうまでもなく 北一輝 で
黄色のハイライト | 位置: 1,718
北一輝の思想は、反財閥、反特権階級で貫かれ、社会主義的要素もあって「国家社会主義」といわれるが、天皇親政を説き、天皇のもとに一元化された権力の下に議会が置かれ、内閣は議会から派生すると解釈されるところから「日本式社会民主主義」と呼ぶべきだという主張も
黄色のハイライト | 位置: 1,927
斉昭もまた、御三家という立場にありながら強烈な攘夷論者であったが、この男の説く攘夷とは余りにも稚拙で、同時代人の智者・横井小楠や 竹 越 三叉 などは「道理を見極めない」「智術の計策」「無責任な扇動家」「権略好きたる性質」などという意味のことを述べ、口を極めて非難して
黄色のハイライト | 位置: 1,978
ペリー艦隊来航というアメリカの動きそのものは、幕府はきっちり前年から情報収集して把握して
黄色のハイライト | 位置: 1,998
私どもの受けた官軍教育では、江戸時代、幕府は国を閉ざし、出島を唯一の例外として対外貿易はおろか海外との交流を一切禁止し、国際的な時代の変化とは全く無縁となり、それが近代化を阻害した最大の要因であった、という極めてシンプルで〝分かり易い〟ものであった。つまり、それを打破して日本の近代化を成し遂げようとしたのが「明治維新」であるという訳だ。その後の勉強を怠った大人やそもそも歴史を学ぼうとしない若者は今でもそのように誤解して
黄色のハイライト | 位置: 2,008
つまり、享和元年時点では造語であって、この言葉を幕閣が使い出したのが嘉永六(1853)年、つまり、黒船来航の時だという研究もある。これが一般人の間まで普及したのは明治も後半になってからのことである。即ち「明治維新」という言葉と同じようなもので、薩長新政権の自己正当化の過程で定着した言葉なの
メモ鎖国、という言葉が使われ出したのは明治期から。
黄色のハイライト | 位置: 2,024
つまり、俗にいう「鎖国」とは、正確には幕府による貿易制限、貿易管理のことである。この、貿易の国家管理に抵抗して、薩摩藩、対馬藩、松前藩などがいろいろ工夫して「抜け荷」(密貿易)をやるのだが、財政難に陥ったそれ以外の多くの藩も密貿易を続けている。 石見 浜田藩などは、大々的に船団を仕立てて東南アジアにまで進出して
黄色のハイライト | 位置: 2,027
なお、十八世紀末から十九世紀初頭にかけて、アメリカ船がオランダ国旗を掲げて出島を通じて交易していたことを付け加えておかなければならない。これは、オランダも了解した上での日米交易である。即ち、実質的な日米交易は幕末時点で既に百年ほどの実績をもっていたということになるの
黄色のハイライト | 位置: 2,097
余談というべきだろうが、企業の創業者が死去した時、その企業・事業を誰が継ぐのか、いわゆる「事業承継」というテーマが近年盛んに語られる。その時、集団指導体制を以て後を継ぐということがあるが、この形は必ず失敗する。このことは、特に中小企業の事業承継における鉄則である。「みんなの意見を聞きながら」「皆で相談しながら」というのは、学校のホームルームの場だけにとどめるべきであって、これを熾烈な生き残りをかける企業競争の場にもち込んだら、残念ながらその組織=企業は確実に死ぬので
メモこれは国家についても言える。集団指導体制の中共は必ず滅ぶ。
黄色のハイライト | 位置: 2,128
この「昭和館」の場所に、かつて「 蕃書調所」があった。世界情勢収拾の最前線となったこの役所とその機能も、阿部が創設したもので
黄色のハイライト | 位置: 2,130
尤も海外情報の収集は、「 天文方」が開国の半世紀以上前から行っていたことを付け加えておかなければならない。阿部政権の頃には、「天文方」はオランダ語や中国語を中心とする多くの「 通詞」を養成し
黄色のハイライト | 位置: 2,166
戦後、ロシアの北方四島占領を固定化させようとする露骨な動きに我が国の歴代政権は何ら為す術をもたず、また何かを為そうとする意志すらもっていたかどうか疑わしいほどに無能力をさらけ出しているが、川路は全権大使としてプチャーチンと外交交渉を重ね、遂に国境線の策定においてロシア側の譲歩を引き出して
黄色のハイライト | 位置: 2,170
川路は、国際関係における力学(軍事力)というものを十分理解しながらも、武家社会=日本の代表として徹頭徹尾正論を押し通した。プチャーチンの方がこれに感服し、その後二人の間には信頼関係さえ生まれている。安政地震の際には、津波によってロシア旗艦・ディアナ号が沈没したが、日本側はロシア兵及び乗員五百名を超法規措置によって上陸させ、幕府の手で新たな軍艦を建造して全員を無事帰国させている(この時水戸の徳川斉昭が、ロシア人を全員殺せ! と喚きまくったことは有名な話で
黄色のハイライト | 位置: 2,179
これは、単なる一例である。天文方出身のスペシャリストの中に、堀達之助、立石得十郎がいるが、ペリーとの交渉における通訳は彼らが務めた。この交渉で日本側が用いたのは、文章は漢文、会話はオランダ語である。対するアメリカは、漢文とオランダ語、日本語であった。近年の研究では、この交渉の言語能力は圧倒的に日本側が高かったことが判明して
黄色のハイライト | 位置: 2,182
スペシャリストの例を付け加えておくと、やはり 常陸 笠間藩(越後長岡藩の支藩)の小野友五郎であろう。 咸臨丸 の航海長を務めた人物である。彼は、数学のスペシャリストであった。微分、積分、三角関数にかけては江戸期の和算は世界の水準を遥かに凌駕していたが、彼も例外ではなく、その天文学計算の正確さに咸臨丸に乗船していたアメリカ海軍の測量担当・ブルック大尉が舌を巻いて
黄色のハイライト | 位置: 2,187
周知の通り、後世判明したこととはいえ、江戸期の日本の数学レベルは 関孝和 の例を出すまでもなく世界水準を遥かに上回っており、そういう素地の上に養成機関が充実していた幕末においてはアメリカ海軍士官の 敵 うところではなかったので
黄色のハイライト | 位置: 2,203
江戸幕府が、慶喜が想定したようなイギリス型公議政体を創り上げ、小栗上野介が実施しようとした郡県制を採り、これらの優秀な官僚群がそれぞれの分を果たしていけば、先に指摘した通り、我が国が長州・薩摩の創った軍国主義国家ではなく、スイスや北欧諸国に類似した独自の立憲国家に変貌した可能性は十分にあり、決して空論ではないの
メモ著者は江戸期の官僚制度が作った幕末の優秀な官僚とシステムを、この様に評価。しかし、聖書的には日本は眠りの中の獅子なので、時が来るまでは誰にも起こせない。
黄色のハイライト | 位置: 2,274
水戸の『大日本史』が犯した歴史改竄の例を出せば、 神功皇后を実在の皇妃として扱ったり、『 壬申 の乱』で敗れて自殺した大友皇子を勝手に〝即位〟させ、「 弘文天皇」という 諡号 まで創っている。水戸藩が勝手に天皇の諡号を創っているのだから、呆れた「尊皇」思想としかいいようが
メモ「大日本史」の歴史改ざん例。
黄色のハイライト | 位置: 2,401
幕府人にとって、錦旗を偽造するなどという行為は想像を絶する悪行であり、神仏に背く行為である。その点、長州・薩摩人は柔軟であったともいえるが、特に長州人というのはもともと気の荒いことで知られ、六十余州三百諸侯の中でお上(天皇)のおわす御所に大砲をぶっ放したのは長州人だけである。結局、幕府を倒して天下は欲しいが、自分たちは劣勢……窮すれば何とやらで薩摩もこれに乗って錦旗の偽物は一晩でささっと作られたという次第で
黄色のハイライト | 位置: 2,652
同じ討幕軍でも、薩摩の西郷隆盛になると少し趣が異なる。西郷も、赤報隊の例で明らかなように、ずいぶんと残虐非道な手を使った。小御所会議の際も、暗殺するぞとばかりにドスをちらつかせて土佐の山内容堂たちを脅した。このあたりのやり方は、まるでヤクザ、極道の手口である。一方で、西郷という男は、百姓と区別のつきにくい程度の薩摩の田舎郷士でありながら「武家の倫理観」や「武家のありよう」というものをリスペクトすると共に、自らもその属者であるという謙虚ながら高い誇りをもってい
黄色のハイライト | 位置: 2,667
こういう西郷だからこそ、明治新政府の成り上がり長州人の腐敗が許せず、下野して『西南の役』で起ったので
黄色のハイライト | 位置: 2,804
先の「平成の大合併」(平成十七年)の際も、地理的条件には妥当性があるといわれながら、二本松と三春の合併は実現しなかっ
黄色のハイライト | 位置: 2,810
三春藩の反盟行為については、間違ってもこれを平成の感覚で解釈するものではないだろう。時は慶応四(1868)年の七月の終わりである。この二カ月も前に、三春藩が西軍サイドに兵の派遣を要請していたという事実があるの
青色のハイライト | 位置: 2,861
二本松丹羽家十万石。初代藩主丹羽光重から数えて十代目丹羽長国の時に戊辰戦争を迎えた。初代光重の祖父に当たるのが、織田四天王と称された一人、信長の信任も厚かった丹羽長秀で
青色のハイライト | 位置: 3,217
この嘆願書を名主たちが東京へ上って差し出すのだが、実はその旅費などを町方も負担したのである。「五人組内より金札で四両一朱也」を明けて一月末日までに収めたことが、近年(平成二十一年)発見された古文書で明らかになったのである。つまり、この嘆願書は、会津五郡の百姓のみならず、会津藩領民の総意を反映しているとも解釈できるので
黄色のハイライト | 位置: 3,268
昭和六十一年、長州・萩市が「もう百二十年も経ったので」として議会決議をして会津若松市との友好都市関係の締結を申し入れたが、会津は「まだ百二十年しか経っていない」としてこれを拒絶した。当然であろ
黄色のハイライト | 位置: 3,278
明治元(1868)年九月二十二日、鶴ヶ城開城。城下には戦死体が放置されていたが、西軍はこの埋葬を禁止した。これによって死体が鳥獣に食い荒らされたり、風雨によって悲惨な状態となった。みかねたある庄屋がこれを埋葬したが、彼は明治政府民政局に捕縛され、投獄されている。この時、次は首を刎ねると脅されて釈放されたが、会津・飯盛山にはこの庄屋の行為を顕彰する碑が残されている。多くの請願書が寄せられ、民政局が死体埋葬の許可を出したのは何と半年後のことであった。強く指摘しておくが、死体の埋葬を禁止したのは「民政局」で
黄色のハイライト | 位置: 3,390
明治三(1870)年、この本州最北端の〝荒涼たる〟地に、会津藩が藩ごと移住してきた。新政府による「 流罪」ともいうべき処断によるもので
黄色のハイライト | 位置: 3,396
肥沃な会津を追われた会津藩が移住してきたのは、正確には「津軽」ではない。当時は南部藩領であった下北半島で
黄色のハイライト | 位置: 3,441
一つ一つが「御一新」の名にふさわしい大変革であるが、もっとも混乱を助長したのが藩札の廃止である。この件だけで論文の一つや二つでは語り尽くせない問題を抱えており、また新たな問題も発生させており、経済の不得手な私には手が負えない。ただ、「大名貸」を行ってきた商人が数多く破産する中で、藩札廃止直前に藩札を増刷して私腹を肥やした大名と家臣がいたことは事実である。この種の、武家にあるまじき〝インサイダー〟行為を為し得た藩主と家臣団とは、一体どこの藩か。併せて、混乱に乗じて新政権に癒着することによってのし上がった商人はどこの誰で、それは今のどの企業か。事は「第二のクーデター」といわれるほどの突如とした施策であったはずで
黄色のハイライト | 位置: 3,452
津軽は、もともと南部氏の勢力下にあった。織田信長の覇権が成立しようかという時、津軽 為 信(大浦為信)が南部氏の出城・石川城(石川高信)を落として独立した。このことを、南部人は、津軽為信が南部領を 掠め取ったという。津軽人は、それに反論しない。おそらくそれは、石川城攻めにおける津軽為信のやり方が「だまし討ち」のような格好をとったからであろ
黄色のハイライト | 位置: 3,457
にも拘わらず、津軽人が、平成の今でも津軽為信の南部氏からの独立を後ろめたい気持ちで受けとめているところに、奥羽の純真さが感じ
黄色のハイライト | 位置: 3,460
津軽為信は、秀吉の小田原攻めに際しては小田原まで出向いて秀吉の傘下に入り、関ヶ原の際には二千の兵を率いて家康方として参戦した。津軽氏の身代からすれば、二千という兵力は驚異的である。それほど津軽為信という人物は〝営業的〟〝外交的〟な武将であったといえる。辺境の地にあって、何とか南部氏から独立し、安堵を得たいという思いがひしひしと伝わる。それは、 健気 と表現したくなるような努力であっ
黄色のハイライト | 位置: 3,464
七名城に数えられる弘前城は、津軽為信・信 枚 二代を経て完成するが、この城も津軽氏の身代からすれば過分なものであった。津軽氏の石高は四万七千石、後に十万石となったが、創った城は三~四十万石クラスの規模をもつ。よく幕府がこれを許したものだと不思議な気がするが、これも津軽為信の外交努力の成果というべきで、家康も大目にみたということであろ
黄色のハイライト | 位置: 3,508
斗南藩」三万石というが、これは表向きの石高であり、実高は七千石もなかったといわ
黄色のハイライト | 位置: 3,786
この反乱の流れが、後の自由民権運動に姿を変えるのである。即ち、自由民権運動とは、純粋に「自由」と「民権」を求めて発生したものではなく、本意としては士族特権廃絶に対する反発、長州閥の専横に対する抵抗であったのだ。そして、不平士族の最後の反乱が『西南の役』であったとも解釈できるの