ロング・グッドバイ フィリップ・マーロウ〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫) [Kindle]
- 早川書房 (2010年9月15日発売)
- Amazon.co.jp ・電子書籍 (628ページ)
感想・レビュー・書評
-
詳細をみるコメント0件をすべて表示
-
さよならを言うのは少しだけ死ぬことだ
ぐぁ~♪(E) -
Kindleにて。
村上春樹・訳版。
フィリップ・マーロウは
さすがにハードボイルド、私立探偵ものの元祖的存在だけに
「どこかで見たような描写」が頻発する。
わざと悪態をつくようないやな描写、
心情ではなく行動で表現する感情。
主人公の状況は「放り込まれ」型。
真相には気づいていてもそれを読者に最後まで明かさない構成。
村上春樹の翻訳も旧訳を読んでないと意外にスンナリ読めました。
ちょっと細かいところまで訳しすぎとかいろいろ意見もあるようですが
自分的には問題なし。 -
私立探偵フィリップ・マーロウ
酔っぱらって、ひどいなりして、すきっ腹を抱え、打ちのめされて、それでもプライドを持っていた時の彼(テリー・レノックス)の方が、私は好きだった -
何となく、手に取った、初のハードボイルド小説。
時代もあまり読まない時代で最初戸惑ったし、マーロウのイメージが思い描けず、アメリカ、メキシコのジョーク?皮肉?挑発の対話に迷走してたけれど、何だろ…。のめり込んで読めてしまった。
いつか、マーロウがカッコよく立ち回り、痛快に悪を暴くとワクワクしていたのかも。
いや、作者の文章の力?それとも訳者?分からない…。
これが、ハードボイルドかぁと感心しつつ、人間関係と背景が徐々に紐解かれ、最後、真実が分かったけれど、衝撃はあまり受けず、タバコと酒と、どこか気怠い雰囲気の余韻を残して終わった感じ。
でも、また違うマーロウの長編を読んでみたいなと思う。何故だろう? -
頭に入って来なかた
-
オーディブルは今朝からレイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』を聴き始める。
「唇を噛みながらハンドルを握り、帰路についた。私は感情に流されることなく生きるように努めている。しかしその男には、私の心の琴線に触れる何かがあった。それがどんなものなのかはわからない。白髪か、顔の傷跡か、明瞭な発音か、礼儀正しさか。せいぜいそのあたりだろう。私が彼と再び顔を合わせるようなことはもうあるまい。彼はただの迷い犬なのだ。あの若い女が言ったように」
「いいかい」と私は言った。「君が必要なものは用立ててあげられる。べたべたした月並みな同情心を押しつけているわけじゃないんだ。だから負担に思わずすんなり受けとってもらいたい。できれば君を落ち着くべきところに落ち着けてしまいたいんだよ。というのは、君は何かした気にかかるところがあるからだ」
「わからないな」、そう言ってグラスをのぞき込んだ。彼はその中身をほんの僅かずつ口にしていた。「これまで我々は二度しか顔を合わせていない。そしてどちらのときも君は、ひとかたならず親切に僕を扱ってくれた。僕のどこがそんなに気にかかるんだろう?」
「この次会ったときには、もう私の手には負えない面倒に君がまきこまれているような気がするんだ。なぜそんな思いを抱くのか自分でもよくわからない。とにかく抱いてしまうんだ」
彼は二本の指の先で、顔の右側にそっと触れた。「この傷跡のせいかもな。こいつが僕に少しばかり不吉な印象を与えているんだと思う。でもこれは名誉の負傷なんだ。というか、その結果としてもたらされたものだ」
「それは違う。そんなものはちっとも気にならない。私は私立探偵を職業としている。そして君は、私が仕事として解決すべき問題ではない。しかしそれでも、問題がそこにあるってことくらいはわかる。それを山勘と呼んでくれてもいい。もっと高級な言葉を使いたければ、人を見る目と呼んでくれてもいい。〈ダンサーズ〉で君を置き去りにした女性もたぶん、君がただ泥酔しているという理由だけで、そんなことをしたのではないはずだ。同じようなことを彼女も感じていたんじゃないのかな」
「待ってくれ、マーロウ。君はたぶんこう思っているんだろう。僕がどん底まで落ちて、シルヴィアにはうなるほど金があって、どうして僅かばかりの金を工面してもらえないのかって。プライドという言葉を、君は耳にしたことがないのか?」
「麗しいことを言ってくれるじゃないか、レノックス」
「聞いてくれ。僕のプライドは、みんなが言うプライドとはまた違ったものだ。僕のプライドは、それ以外に何も持ち合わせない人間のプライドなんだ。いや、こんなことはどうだっていい。つまらないことを言ってしまった」
なぜか気になるテリー・レノックス。放っておけないテリー・レノックス。巻き込まれ型の探偵フィリップ・マーロウをトラブルに巻き込むのはたいてい訳ありの女なんだけど、今回のテリーは、人生を投げてしまったようなさびしさと、その裏に隠された一本の筋のようなものが垣間見えて、マーロウじゃなくてもつい、自分から巻き込まれたくなるタイプの魅力をそなえている。
「もう乗った方がいい」と私は言った。「君が彼女を殺さなかったことはわかっている。だからこそこんなこともするんだ」
彼は身をこわばらせた。全身が固まってしまったように見えた。彼はゆっくりとあちらを向き、それから振り返った。
「すまない」と彼はひっそり言った。「しかし君は考え違いをしている。これから飛行機に向かってとてもゆっくり歩いていく。ひきとめる時間はある」
テリーは歩いて言った。私はじっとその姿を見ていた。空港事務所のドアの前にいた男は、彼が来るのを待っていたが、とくにいらついているようには見えなかった。メキシコ人がいらつくことはあまりない。男は手を伸ばして豚皮のスーツケースをとんとんと叩き、テリーに向かって愛想笑いをした。それから男は脇にどき、テリーは建物に入った。ややあってテリーは反対側のドアから外に出てきた。入国時には税関の役人が控えているところだ。彼はなおも緩慢な足取りで、砂利時期の地面をステップに向かって歩いていった。彼はそこで歩を止めて私の方を見た。合図もしなければ、手も振らなかった。それはこちらも同じだ。そして飛行機の中に消えた。ステップは外された」
マーロウはまたわずかばかりのお金でトラブルに巻き込まれた。依頼人もなしに。
「近いうちに酒を断つつもりでいる。でもこれはきっと酔っぱらいの口にする決まり文句だね」
「酒を断つには三年ばかりかかる」
「三年か」、彼はショックを受けたようだった。
「通常はね。君はぜんぜん別の世界に行くんだ。そこではあらゆる色が少しずつ淡くなり、ある種の音が少しずつ静かになる。それに慣れなくちゃならない。ちょっとしたきっかけで、元の状態に逆戻りしてしまうこともある。これまでよく知っていた人たちがみんな、少しずつ妙な感じに見え始める。君は彼らのおおかたが気に入らなくなるだろうし、向こうだって君のことをあまりこころよくは思わないだろう」
3年か。思うところあって断酒を宣言してまだひと月あまり。アル中ではないし、ここ数年は酒量はかなり落ちていたので、酒がなくてもぜんぜん違和感はないのだけど、3年はまだだいぶ先だなあ。ちなみに禁煙は12年続いている。
オーディブルはレイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』の続き。
フィリップ・マーロウの矜持。
「そう、たしかに馬鹿げているでしょう。私は愚かしい人間だ。そうじゃなきゃ、そもそもこんなところにいやしません。レノックスに連絡をとることがあったら、私のことは気遣わなくていいと言っておいて下さい。何も彼のためにここにいるんじゃない。自分のためにいるんです。誰にも文句は言えません。こいつは私の仕事の一部なんだ。誰かが私のところのトラブルを持ち込んでくる。それが私の稼業です。大きなトラブルかもしれないし、小さなトラブルかもしれない。いずれにせよ警察には持ち込みにくい種類のトラブルです。警官のバッジをつけた与太者にこづき回されたくらいでへいこら口を割るような私立探偵を、いったい誰が頼ってきます?」
大金持ちハーラン・ポッターに雇われた(?)弁護士、ミスタ・エンディコットが語る冷めた法律論。
「ずいぶん派手にやったものだな」「権利を振り回し、法律を盾にとった。たいしたものじゃないか、マーロウ。君のような男はもっとうまいやり方を心得ているはずなんだがな。法律は正義じゃない。それはきわめて不完全なシステムなんだ。もし君がいくつかの正しいボタンを押し、加えて運が良ければ、正義が正しい答えとしてあるいは飛び出してくるかもしれん。法律というものが本来目指しているのは、メカニズム以上の何ものでもないんだ。君の今の気分では、私の助けはとりあえず不要らしい。だからこれで失礼するよ。もし気持ちが変わったら、そのときは連絡をくれ」
鼻っ柱を気持ちよく折られるマーロウ。
「あんたの釈放命令に署名した」と彼は言った。「公僕のはしくれとして、職務とあらば時として意に染まないこともやらなくちゃならん。おれがそいつに署名した理由を聞きたいか?」
私は立ち上がった。「話したいのなら聞いてやろう」
「レノックス事件は終結したんだよ、ミスタ。レノックス事件なるものはもう存在しない。彼は今日の午後ホテルの部屋で、すべてを告白する一文を書き残し、拳銃で自殺した。さっき話したオタトクランの町でな」
私はそこに立ちすくんだ。目にはほとんど何も映らなかった。しかし目の端で私はグレンツの姿を捉えていた。その男は私が殴りかかるのを恐れるように、じりじりと後ずさりしていた。そのとき私の形相はかなり変わっていたのだろう。彼はもう一度机の背後に戻った。スプランクリンが私の腕をとった。
「さあ、行こうぜ」と彼は情けない声を出した。「たまには人間らしく家に帰って眠りたいんだ」
私は彼と一緒に部屋を出て、ドアを閉めた。誰かが先刻息を引き取った部屋をあとにするときのように、そっとドアを閉めた」
『ジャーナル』誌の記者ロニー・モーガンの思わせぶりなセリフ。マーロウはいつも報われない。
「あんたにはさよならを言うべき友だちがいた」と彼は言った。「彼のために監獄にぶち込まれてもいいと思えるほどの友だちがね」
「誰がそんなことを言った?」
彼は力のない微笑みを浮かべた。「活字にできないからといって、僕が知識を持たないということにはならない。失礼するよ、また会おう」
オーディブルはレイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』の続き。
エンディコット弁護士は「私の申し出はまだ有効だ。しかしひとつささやかな忠告をさせてもらいたい。君がこれで無罪放免になったと思ったらそれは甘い。君は脛に傷を負いやすい仕事に携わっているわけだからね」と言い、テリー・レノックス(とラス・ヴェガスのクラブ経営者ランディー・スター)の戦友だと名乗るギャング、メンディー・メネンデスは「手を引くんだ」「この事件はもう片がつき、蓋がしっかりかぶされた」と言い、LA市警殺人課のグリーン部長刑事は「いいか、マーロウ」「この事件について妙な考えを持たん方がいいぜ。そんなことを言いふらしていると、余計な面倒を招くだけだ。この事件はすでに片がついて、はんこ顔されて、防虫剤とともに押し入れに仕舞い込まれた。あんたはずいぶん運が良かった。この州では事後十班と裁定されたら軽く五年はくらうんだぞ。それからもうひとつ言わせてもらおう。俺は長く警官をやっているが、身をもって学んだことがある。いったん裁判にかけられたら、真実なんてものは往々にして意味を持たないってことだ。実際に人が何をやったかではなく、何をやったように見せかけられるかで判決は決まるんだよ。おやすみ」と言った。死者から届いた手紙にも「事件のことも僕のことも忘れてほしい。ただその前に〈ヴィクターズ〉に行ってギムレットを一杯注文してくれ」とあった。誰もがマーロウに事件から手を引けという。だが、まったく別の角度からマーロウを事件に引き戻そうとする女が現れる。アイリーン・ウェイドは、アル中の夫ロジャー探しをだしにして、マーロウを操ろうとしているのか。
オーディブルはレイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』の続き。
アールをかばうドクター・ヴェリンジャーを評したロジャー・ウェイドの言葉。
「あるいはあいつに金をやることになるかもしれない。あの男は破産しているんだ。土地は抵当としてとりあげられた。金はびた一文入らない。それというのもあの出来損ないのおかげさ。なんでそこまでする?」
「わからないね」
「僕は作家だ」とウェイドは言った。「何が人を動かすのかを見きわめるのが仕事だ。しかし皆目わからん」
マーロウは人を怒らせて情報を引き出すことに長けたタイプかもしれないが、いつもその加減を間違える。そして、人を操っているつもりが、逆に自分が罠にはめられていたことがわかると、とたんに不機嫌になる。アイリーン・ウェイドがその相手でも。
「そのとおり。とても間違ったことだ」「しかし私は今日いちにち、有能で忠実で躾のいい猟犬として身を粉にして働きました。こんな愚かしい茶番劇に、心ならずも引き摺り込まれてしまった。誰かの手になる台本どおりに自分が動かされてきたのかと思うと、でたらめだってしたくもなる。私が何を考えているかわかりますか? ご主人がどこにいるか、あなたには最初からわかっていたと踏んでいます。少なくともドクター・ヴェリンジャーの名前くらいはつかんでいたはずだ。あなたは私としご主人をうんまく絡ませ、ややこしい状況に巻き込んで、彼の面倒をみる責任みたいなものを感じさせたかったのだ。私の言うことは馬鹿げていますか?」
「それから私が心やさしい人間だなんて言わないでいただきたい。そんなことを言われるくらいなら、ごろつきにでもなった方がましだ」
彼女は私の顔を見返した。「なぜ?」
「もし私がテリー・レノックスに対してナイス・ガイぶっていなかったら、彼はまだ生きていたでしょう」
「そうかしら」と彼女は静かに言った。「そこまで確信が持てるのですか? おやすみなさい、ミスタ・マーロウ。心から感謝しています。ほとんどすべてのことに対して」
ロジャー・ウェイドは殺されたシルヴィアのもとに通っていた男のひとりってこと? アイリーンはそれを知ってるか、少なくともそう疑ってる?
〈ヴィクターズ〉で約束のギムレットを頼んだとき、そこに居合わせた(偶然なわけないけど、どうやってマーロウが来店するタイミングがわかったの?)リンダ・ローリングは、大富豪ポッターの娘、殺されたシルヴィアの姉であり、ウェイド家の近所に住んでいた。
「たしかに告白書は本物かもしれない。しかしそれが彼が現実に奥さんを殺したことを証明しているとは言えない。少なくとも私にとってはそうなのです。それが証明しているのは、もう逃げ場はないと彼がそのとき観念していたということだけです。そういう立場に置かれると、ある種の男はーー性格が弱いとか、やわだとか、感傷的だとか、好きに表現してもらってかまわないがーー誰かほかの人間を救おうと決意するかもしれません。苦痛に満ちた内実が暴き立てられて、その誰かがひどい迷惑をこうむるのを防ごうと」
「自分を正当化するつもりはない。私は馬鹿なまねをしたし、その報いを受けました。少なくともあるところまでは。彼の告白書のおかげで私が命拾いしたことは否定できません。もし彼が連れ戻されて裁判にかけられていたら、私にも罪科が及んでいたはずだ。そうなったら、私の稼ぎでは裁判費用はとてもまかなえなかったでしょう」
テリーが死の間際に救おうとしたのは自分だと、マーロウが本気で思っているはずはない。それは自惚れがすぎるというものだろう。だとしたら、誰を救おうとしたのか。そして、ギムレットをきっかけに近づいてきたミセス・ローリングもまた、マーロウに手を引けと忠告してきた。
「お見事だ、ミセス・ローリング。まことに完璧だ。私はその警告を司法当局からも受け取ったし、そのへんのやくざものからも受け取ったし、上流階級の誰かさんからも受け取っている。言葉づかいはそのたびに変わるが、中身は同じ、要するに手を引けってことだ。私がここに来てギムレットを飲んでいるのは、そうしてくれとある男に頼まれたからです。それだけのことだ。ところがどうだろう。もう墓穴に片足を突っ込んでいるも同然だ」
その怒りは誰に向けられたものなのか。もしかして、こんな置き土産を残していったテリーに対して?
ミスター・ウェイドが語る作家論。
「深酒のあとで最良のものが書けることがよくある。僕らの仕事はね、いったん頭が固まり、インスピレーションが消えてしまうと、もうどうにもならないんだ。そうなるとろくなものは書けない。自然にすらすらわき出てくるものがあればこそ、作品は良いものになる。作家については多くが書かれているが、それが本当のところさ。もし逆のことが書かれていたら、そいつは嘘っぱちだ」
「仕事にもよるんじゃないですか?」と私は言った。「フロベールはずいぶん苦しんで書いたが、作品は立派だ」
「君が今目の前にしているのがまさに『けちな商売をしているけちな使い走り』なのさ、マーロウ。作家なんてだいたいがいかがわしい人種だし、僕はその中でもとびっきりいかがわしい人間だ。これまでに12冊のベストセラーを書いたし、今そこに積み上げてあるがらくたをなんとか書き上がられたらたぶん、13冊めということになるだろう。しかし語るに足るものは1冊としてない。この土地はとびっきり閉鎖的なとある大金持ちの所有するもので、選び抜かれた階層の人間しか住めない。そこに僕は立派な屋敷を構えている。僕を愛してくれる美しい妻がいるし、僕を愛してくれる立派な出版業者がいるし、そして何にも増して僕を愛してくれる僕自身がいる。僕は鼻もちならないエゴイストであり、文学の娼婦であり、あるいは文学のぽん引きなんだ。どちらでも気に入った方を選んでくれていい。そしてお手軽な便利屋だ」
オーディブルはレイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』の続き。
「わかったよ。好きにしてくれ」「取引はなし。もちろんそれで君のことを責めたりはしないよ。僕には知りたいことがあるんだ。知らなくてはならないことだ。君にはそれが何かはわからないだろうし、自分だってよくわかっていないかもしれない。ひとつはっきりわかっているのは、そこには何かがあり、僕はそれを知らなくてはならないということだけだ」
「そしてドクター・ローリングという、あの小さな黒い鞄を提げた唐変木が口にした才気煥発な言葉を引用させていただくなら、私の妻には近づくな、ということだよ、マーロウ。君が彼女に参るのも無理はない。みんな参っちまうんだ。君は彼女と寝たいと思う。みんなそう思う。君は彼女と夢を共有し、その思い出のバラの香りを嗅ぎたいと望む。その気持ちはよくわかる。しかしそこにはね、共有できるものなどありはしないんだ。何もない。すっからかんの、どんがらのゼロだ。君は暗闇の中に一人ぽつんと残される」
彼は酒を飲み干すと、グラスを逆さにした。
「こんな具合に空っぽなんだよ、マーロウ。何ひとつそこにはない。僕がそれをいちばんよく知っている」
「誰がボスを切ったんだ?」
「私じゃない。自分で倒れて、頭を何かにぶっつけたんだ。深い傷じゃない。医者がもう診察したよ」
キャンディーはゆっくりと息を吐き出した。「倒れるところを見たのか?」
「到着したときにはもう倒れていた。君はどうやらこの男に好意を抱いているようだな」
彼はそれには返事をせず、両方の靴を脱がせた。(中略)キャンディーは哀しそうにその男を見て、ゆっくりと左右に首を振った。
「誰かがこの人の世話をしなくてはならない」と彼は言った。「服を着替えてくるよ」
「君はもう寝ろ。私が面倒をみる。必要があれば呼ぶ」
彼は私の顔をじっと見た。「しっかり面倒をみた方がいいぜ」と彼は静かな声で言った。「身を入れてな」
「アイリーンはどこにいる?」
「寝ているよ。かなり堪えたようだ」
彼はそれについて無言で考えていた。目は苦痛にあふれていた。「ひょっとしてまたーー」、そこでひるんだように言い淀んだ。
「私の知る限りにおいては、奥さんには手を上げていない。もしそのことが気になっているのならね。自分でふらふらと外に出て行って、垣根のあたりで気を失っただけだ。もうしゃべらない方がいい。眠るんだ」
「眠る」とウェイドはゆっくりと静かな声で言った。まるで子供が教わったことを復唱するように。「それはいったいどんなものだっけね」
「睡眠薬を飲んだ方がよさそうだ。手持ちはあるか?」
「ベッドサイド・テーブルの抽斗の中だ」
私は抽斗を開け、赤いカプセルの入ったプラスチックを取り出した。セコナール、一錠半服用のこととある。ドクター・ローリングの処方したものだ。親切なドクター・ローリング。ミセス・ウェイドのために処方されている」
思わせぶりなセリフが続くが、これって、何かをしたのはロジャー・ウェイドじゃなくて、妻のアイリーンってこと???
オーディブルはレイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』の続き。
「永遠に逃げまわることはできないよ、ウェイド。キャンディーなら恐喝くらいやりかねない。あり得ることだ。手際だっていいかもしれない。あなたに好意を抱きつつも、同時にあなたから金を巻き上げる。ネタはなんだ? 女か?」
「ローリングのたわごとを信じるのか」、彼は目を閉じたまま言った。
「それはないね。しかし妹の方はどうだい? 殺された女は?」
やみくもに投げたボールだったが、たまたまプレートの上をかすったらしかった。彼の目は大きく見開かれた。唾液が泡になって唇についた。
「それがーー君がここにいる理由か?」、彼はゆっくりと、ほとんど囁きに近い声でそう尋ねた。
「わからないことを言うね。私はここに招かれたんだぜ。あなたが来てくれと言ったんじゃないか」
「もうここには戻らないかもしれない、と申し上げたのです、戻る必要が生じるかもしれない。そうなってほしくはありませんが。この家には何か正しくないところがある。でもまだその本の一端しか、瓶の口から姿を見せていない」
彼女は眉をひそめて私の顔を見た。「それはどういうこと?」
「私が何を言っているか、あなたにもおわかりのはずだ」
「私は最後に彼女に大胆なかまをかけてみた。かなり意地の悪い発言になった。
「あなたは本当にはご主人を救いたいとは思ってはいない。違いますか? 彼を救おうとしているように、ただ見せかけているだけだ」
「それは、あまりにも残酷な言い方ではありませんか」、彼女は慎重に言葉を選んで言った」
「あなた方のような大金持ちは、まったく度しがたい人種だ」「何か言いたいことがあれば、どんなに辛辣なことであれ、自分にはそれを口にする権利が備わっていると思っている。あなたはよく知らない人間に向かって、ウェイドとその奥さんの人間性を貶めるような表現を、堂々と口にできる。ところがこちらがわずかにそのお返し程度のことを口にすると、それは侮辱になる。オーケー、ぶちまけたことを言いましょう。酔っぱらいというのは、だらしない女とどこかで結びつくものです。ウェイドは札付きの酔っぱらいです。しかしあなたはだらしない女ではない。あなたの品性あふれるご主人がカクテル・パーティーを盛り上げるために口になさったことは、ただのその場の思いつきだった。本気で言ったわけではない。みんなの笑いをとるのが目的だった。だからあなたは除外しましょう。ふしだらな女をどこかよそで捜さなくてはならない。そうなると、どれくらい遠くまで私たちは目を向けなくてはならないでしょうね、ミセス・ローリング? わざわざあなたにここまで足を運ばせ、私と詮ない嫌味のやりとりをさせるような状況に追い込むに値する女性を特定するために?」
マーロウはあちこちでかまをかける。的を射抜くこともあれば、見当外れのこともある。だが、かまをかけた結果がどちらだったかはマーロウの胸の内に秘められる。マーロウがウェイド宅で飲んだウイスキーが効きすぎるのが気になる。ウェイドは何かを盛られてる?
オーディブルはレイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』の続き。
「これは私の夫です。撃たれました」
「この男が主人を殺したんだと思います」
アイリーン・ウェイドによる宣戦布告。マーロウはいつものように、巻き込まれるべくして巻き込まれた。マーロウは事実を積み上げ、反撃を開始する。
「これは結婚証明書の写しです。本物はキャクストン・ホール戸籍役場にあります。結婚の日付は1942年の8月、ポール・エドワード・マーストンとアイリーン・ヴィクトリア・サンプセルとのあいだで婚姻が結ばれています。ミセス・ウェイドの言い分はある意味では正しい。ポール・エドワード・マーストンなる人物は実在しないからです。偽名です。というのは軍籍にある場合、結婚するには許可証を取らなくてはなりません。だからその男は偽名を用いて結婚をした。軍隊では違う名前を名乗っていました。私は彼の軍隊での記録をそっくり入手しています。私が常々驚かされるのは、訊いてまわればたいていのことは簡単にわかるという事実に、人々があまり思い当たらないことです」
「ポール・マーストンとテリー・レノックスは同一人物だったし、そのことは一点の曇りなく証明できる」
マーロウはかまをかける。それは最初、数打ちゃ当たる式のでたらめに近いものだが、物語が核心に近づくにつれて、そのかまはターゲットの心を鋭く抉り、追い詰める。
「殺したのはロジャーだ」「あなたも知ってのとおり」
(ロジャー・ウェイドがシルヴィアを殺したというミセス・ウェイドのいつわりの告白が続く)
「貯水池のまわりの高い金網のフェンスを、どうやって乗り越えたんですか?」
「何ですって? フェンス?」、彼女は言葉に窮したような手振りをした。「いざというときには普段は出ない力が出るものです。なんとかやりとげました。必死の思いで」
「あそこにはフェンスなんてありません」と私は言った。
「フェンスはない?」と彼女は力ない言葉で言った。筋道を失ったみたいに。
「金網のフェンスがいったいどうしたんだね?」とスペンサーがとりとめのない声で私に尋ねた。(中略)
「でまかせですよ」と私は言った。チャッツワース貯水池には近づいたこともありません。だからそれがどんな様子なのかまったく知らない。金網のフェンスに囲まれているかもしれない。いないかもしれない」
「なるほど」と彼は顔を曇らせて言った。「ポイントは、彼女もそれを知らなかったということだ」
「もちろん知りません。彼女が二人を殺したのです」
オーディブルはレイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』の続き。
事件はアイリーン・ウェイドの自殺によって幕が引かれた。彼女は自白の手記を残していたが、例によってそれは握りつぶされるはずだった。マーロウがその写真複写を新聞社に持ち込まなければ。それによってマーロウは、今度はあちこちから身を隠せとアドバイスされる立場になる。手を引けと脅され、姿をくらませと忠告されても、ことごとく無視するマーロウ。
「私は彼に写真複写を返した。モーガンはそれを持ち、長い花の先を指で引っ張った。「あんたは救いがたい馬鹿だと言ったら、気を悪くするかな?」
「いや、賛同票を投じたいね」
「今ならまだ思い直せるぞ」
「いや、けっこうだ。市のバスチーユ監獄から私を家まで送り届けてくれたときのことを覚えているか? 私にはさよならを言うべき友だちがいたと君は言った。しかしまだ本当のさよならを言ってはいない。その写真複写が紙面に載ったら、それが彼に対するさよならになるだろう。ここにたどり着くまでに時間がかかった。長い、長い時間が」
オーディブルはレイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』が今朝でおしまい。
「ギムレットを飲むには少し早すぎるね」と彼は言った。
どこか放っておけない気にさせる、いまにも消え入りそうなテリー・レノックスという男は、たしかにジェイ・ギャツビーを思わせる。以下、村上春樹の訳者あとがきより。
「ウェイドの言う「崩壊(disintegration)」の感覚は、晩年の(といってもまだ四十歳を過ぎたばかりなのだが)フィッツジェラルドが描いた「崩壊(cracked-up)」のそれと見事なまでに呼応している。フィッツジェラルドはすでに割れてしまった美しい皿の中に、自らの敗退と幻滅のイメージを見いだし、それを自虐的なまでに克明に、しかしあくまで美しく描写した。ロジャー・ウェイドも、テリー・レノックスも、オールを失ったボートに乗り、崩壊という巨大な瀑布に向けて川を流されている。彼らはもはや逃げ場がないことを承知しながらも、なんとか自らを立て直そうと必死に努める人々である。しかし残念ながら彼らの依って立つべき徳義の多くは、すでにどこかで失われてしまっている。かろうじて残されているのは、その美学と規範の残映だけだ。マーロウの役割は、自らの徳義をーーそれがどのようにささやかであれ、ときとして滑稽なものでさえあれーー最後までかたく保持しつつ、彼らの避けがたい最期をしっかりと看取ることなのだ。ちょうどニック・キャラウェイが彼の飾り気のない中西部的モラルを懸命に維持しながら、すでに命を失ってしまった純粋な夢を金の力でよみがえらせようとしたジェイ・ギャツビーの避けがたい終焉を看取ったのと同じように」
「『ロン・グッバイ』と『グレート・ギャツビー』の両方をお読みになった読者であればおそらく、語り手ニック・キャラウェイがジェイ・ギャツビーに対して徐々に抱くことになる直感的にして背反的な、そして抜き差しならぬほど深い思いーーそれはあまりに深いところに達しているので、本人にさえその距離感を正確にとらえることが不可能になっているーーとほとんど同質のものが、マーロウとテリー・レノックスのあいだにも形成されており、そのような情感の静かな生まれ方と、おそろしく微妙な動き方が、どちらの作品においても、物語の展開の大きな要になっているということがおわかりになるはずだ。そしてどちらの場合においても、それはそもそも積極的に求められた思いではない。主人公(語り手)はとくに求めもしないまま、一種の偶然の蓄積によって、いやおうなく宿命的にその深みに絡め取られていくのだ。それではなぜ彼らはそのような深い思いに行き着くことになったのだろう? 言うまでもなく、彼ら(語り手たち)はそれぞれの対象(ギャツビーとテリー・レノックス)の中に、自らの分身を見い出しているからだ。まるで微妙に歪んだ鏡の中に映った自分の像を見つめるように。そこには身をねじられるような種類の同一化があり、激しい嫌悪があり、そしてまた抗しがたい憧憬がある。対象に内在する矛盾を暴くことは、すなわち鏡の中の自分に含まれた自己矛盾を暴くことになる、しかし何はともあれそれを暴かないわけにはいかない。彼らが自らを正しく保持するために用いる規範と徳義が、彼らにそうすることを自動的に求めるからである」
「そう、これらの物語は本当の意味での魂の交流の物語であり、人と人との自発的な相互理解の物語であり、人の抱く美しい幻想と、それがいやおうなくもたらすことになる深い幻滅の物語なのだ。そのような切実なセンチメント(心情)なしには、『グレート・ギャツビー』もという作品も『ロング・グッドバイ』という作品も、長い歳月にわたってこれほどの文学的成功を収め、多くの読者を獲得し続けることはなかったはずだ。そこには間違いなく、深く共有されるものがある。言い換えるなら、レイモンド・チャンドラーは彼自身の『グレート・ギャツビー』を、ミステリという形式を自家薬籠中のものとすることによって、またそのストラクチャーにあくまで固執しることによって、見事に作り上げることができたのだ。別の言い方をするなら、チャンドラーは自ら築き上げ、時間をかけてひとつひとつの細部のねじを締め、しっかりと基礎を固めてきたフィリップ・マーロウという都市伝説の枠組みと、フィッツジェラルドの生み出したきらびやかな都市寓話の枠組みをひとつにあわせることによって、新しい豊かな物語世界を描きあげることに成功したのだ」
このあとがきを読んで真っ先に思い浮かんだのは、チャック・パラニュークの『ファイト・クラブ』のことだ。パラニューク本人がこう語っている。
「実のところ、ぼくが書いていたのは「華麗なるギャツビー」を少しだけ現代風にしたものに過ぎない。生き残った使徒が彼のヒーローの生き様を伝える”使徒伝承”のフィクションだ。二人の男と一人の女がいた。そして男の一人であるヒーローは、銃で撃たれて死ぬ。
語り古された典型的なロマンス小説。そこに、エスプレッソマシンやESPNチャンネルと競えるよう現代風のアレンジを加えただけだ」
失われることがあらかじめわかっていたはずの友情や共感やあこがれが、やっぱり(予想に違わず)、どうしようもなく(抗しがたく)、失われていく物語が、こんなにも人を惹きつけるのは、なぜなのか。そんなやつは現実にはいないってことがわかっているから? ないものねだり? 運命に抗う人間より、運命に翻弄される人間のほうが、得心がいくってこと? それが好きかどうかよりも、人生とはそういうものだと諦めたほうが居心地がいい? たぶん、そういうタイプの人間も一定数いる、という以外の答えはないのだろう。そうでないタイプの人間が一定数いるように。
「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ(To say goodbye is to die a little.)」という有名なセリフは、あとがきで村上春樹も書いているように、フランスで言い古された言葉で、Cole Porterも「Ev’rytime We Say Goodbye」という歌で、「Everytime we say goodbye, I die a little.」という詞を使っていて、チャンドラーの創作でもないし、マーロウのセリフでもなくて、かれの独白(地の文)だ。 -
長いこと本棚に追加しっぱなしだった一冊。やっと読了。 始めて読んだハードボイルド・ミステリー。 マーロウがだんだんボンドに思えてくる。 腕っぷしも強いし、いい女にモテるわ。。。 こんな男おらんでしょってくらいかっこいい。
-
・ハードボイルドでも、と思いチャンドラー。村上春樹がチャンドラーから影響を受けたためか、春樹訳だからか、春樹作品を読んでいるような錯覚感多々あり、でもやはりそこはフィリップマーロウ。
・孤独、執拗、ナルシズム、自由、刹那、諦観、約束。ハードボイルドのよいところ。